福田恆存を勝手に体系化する。5 戦後の時代 観念論の克服と自我の確立 「私の保守主義観」 キリスト教
福田恆存が生きた時代の歴史的理念の素描
生きるとは、徹底的に私の内部の出来事である。だとすれば、私は福田恆存を体系化するとはいったが、その体系は福田恆存の生きた状況と抜きさしならぬものであり、それだけ単体でとりだしてみたところで、それは肉を欠いた骨と皮にすぎない。それゆえ、かれの思考の体系を知るということは、とりもなおさず、かれの生活とその時代をも知ることである。
「社会」は歴史的存在者である。
それは一定の世代に作用を及ぼす理念の体系をもっている。空間的な広がりをもち、時間的な広がりももち、その理念の体系に限界値があることはまえにのべた。ある一定の期間を過ぎると、機械的な枠組みはしだいに硬直化し、生気を失って枯れ木のようになる宿命にある。そのようにして機能不全に陥ると、その社会に生きる人びとは、それまで恩恵としてあたえられていた安定性を奪われ、次々にたちあらわれる事態に対処する方途を見失い、混乱をきたし、絶望に直面する。
前節では、その一例としてヨーロッパ中世とルネサンスをあげた――福田恆存が頻繁に引き合いにだすからでもあるのだが、それはまたかれが、日本の「文明開化」もまさにそんな時代だと見ていたからである――危機の時代として。
大きなちがいは、ヨーロッパが「内発的」なパラダイム転換であるのに対し、わが国のそれは徹頭徹尾、「外発的」なものだったということにある。(夏目漱石「私の個人主義」参照)
「和魂洋才」の主張などは、外圧がひきおこした適応異常の明白な証拠だろう。鎖国政策によって守られていた鼓腹撃壌の日本的封建主義世界は黒船の到来によっていともかんたんに破られ、自然との親和を基盤とした日本的世界観は危機にさらされる。集団の和よりも個人の価値観を優先し、自然は科学によって改変し征服すべき対象であるという西欧の近代思想は、それまで日本人を育んできた自然との豊饒な関係とその共通認識の上に築かれていた独自の世界観をずたずたにしたのである。
そして太平洋戦争における敗戦は、わが国に第二の文明開化を課した。「和魂洋才」という無理な姿勢で保持しようとしてきたその「和魂」すら、決定的な国家的挫折によって、あとかたなく剥奪されてしまった。そのとき人びとは、それまで慣れ親しんできたみずからの遠近法がまちがっていたと考えざるをえなかった。そこに確固として実在していたものが幻のように消え失せて、頼りになるものはなにもないとおもい知らされたのである。
人は周囲のものがことごとく崩壊するのを目撃するとき、それらが見かけ倒しの形骸であったのだと感ずる。小説の神様・志賀直哉でさえ、国語を廃してフランス語にせよと真面目な顔で提言し、しかもそれが老耄した大家の暴言として「炎上」することもなく、ある部分共感をもってうけとられたのは、その是非はともかくも、根こそぎになった人間の真情を当時の人びとが共有していたからである。
福田恆存の登場した時代はそういう時代だった。大切な地図を奪われて道を見失い途方に暮れる旅人――それが当時の日本人のすがたである。人びとは新しい地図を外にもとめて、アメリカ型の民主主義、マルクス主義、実存主義などなど、狂奔をきわめていた。福田恆存はそうした風潮を醒めた目でながめながら、敗戦後の光景にあらわれた現実の混乱と空虚な精神の復興運動とから距離をおいていた。自己をささえる支点となるべきものがそこに一つも見いだせなかったからだ。それらはすべて部分的・表面的解決案でしかない。
それではすべてを失い絶望した人間が最後にたどりつくのはどこであろうか。見せかけの現実が崩れ去ったあとに残るのは、やはり「私」という根本的な現実である。頼りになる支点が何もないと自覚したときはじめて、人間はみずからのかけがえのない課題として、自己と向き合うことができる。福田恆存にとって、戦争責任、平和主義、貧困や近代化の立ち遅れ、民主主義体制の構築といったもの全部が、局地的で暫定的な回答をもとめるものでしかなかった。
絶望の時代に真に問うべきは、「私」という存在そのものなのだ。「一匹と九十九匹と」という評論は、福田論ではかならず論及される有名なもので、たいてい「政治と文学」の例題として引用されるのだが、その主題はそんな生やさしいものではなく、絶望から再出発するかれのはげしい決意の表現である。あらゆる現世的問題を超越した価値を見いださんとし、しかもそれをどこまでも「失せたる一匹の羊」たる自己に拘泥するところからはじめるという宣言なのだ。
そして福田恆存は、みずからのパースペクティヴの内部を、先入見を排除して再点検してみるというところから、自己の批評活動に着手した。そこに見いだされたのは二種類の現実だった。「外発的」実在と「内発的」実在。それらはまったく起源の異なる二つの現実である。西欧からきた近代精神は「外発的」とはいえ、開国当初とはちがって、かれの見るところ、中途半端であることは否めないにしても、もはや日本人に根付きつつある第二の現実だった。であるならば、それら二つの現実を調和させるということより、まず「外発的」なものを完全に根付かせようとかれは決意した。それはまさにパースペクティヴの転倒といっていい。
そのために福田恆存は文学的、哲学的修練はもとより、明治以来の先覚者のほとんどが、かれの師匠ともいえる小林秀雄にいたるまでかたくなに避けてきたこと――すなわち、キリスト教精神をわがものとすることをこころざした。デカルトやカントの哲学的伝統にかぎらず、科学技術といった西洋文明の根幹にさえキリスト教精神を見てとったからだ。しかもその探究は、古来より持続する「内発的」なものをいったん括弧に入れ、ひたすら「外発的」なものに身を浸すという形式をとった。かれはそのことにより「内発的」なものが損なわれることを怖れぬばかりか、むしろ破壊的要素として歓迎すらした。滅ぶべきものは滅べばいい。かれがもっとも嫌ったのは、微温的な折衷案のごときものだった。それはまた裏をかえせば、それだけかれはみずからの肉体を信じていたということだ。
福田恆存はそれを達成しえたと信じた。かれは洗礼をうけることなく聖書を座右におき、アウグスティヌスに親しみ、トマス・アクィナスを攻略した。「カソリシズムの無免許運転」を自称し、ガブリエル・マルセルに共感し、カソリシズムに反するとカトリックの神父たちを批判さえした。なんたる自信。かれが戦後に登場した時点で、そうした準備は完了していたのである。いいかえれば「外発的」実在を軸にして、自己のパースペクティヴを再構築していた。それは一見、同時代の西洋派の人びとと似てはいる。
だが、ぜんぜんちがうのだ。だいいち、ほとんどの西洋派の知識人たちが後年にいたって「日本への回帰」という軌道をたどったが、右翼とまでいわれた福田恆存はそうはならなかった。なぜならかれは一貫して、それを日本か西洋かというような選択しうる外部の事象としてではなく、両者ともに自己の内部にあるもの、みずからの人生の内側に生じたドラマとしてとらえていたからだ。そこからみずからを救うことが日本の、ひいては世界の救済へとつながると信じて疑わなかったのである。
そのせいかどうか、福田恆存の芝居には、『ドンキホーテ日本に現る』『億万長者夫人』『総統いまだ死せず』など、「外発的自己」を主人公にすえて、そこから生じる日本社会との軋轢を喜劇にしたものが散見される。悲劇である『明智光秀』『有間皇子』なども、そうした観点からながめることもできるだろう。そしてなにより、かれの演劇活動とシェークスピアを新訳しなおすという行為そのものが、かれの文明論的文脈のなかでなされていることは明白である。
であるならば、いやしくも福田恆存を論じようと志す者は、かれに勝るとも劣らぬくらいキリスト教精神に通暁し、聖書を座右の書とすべきである。しかし私の知るかぎり、かれの弟子のひとりとしてそこを継いだ者はいない。「保守主義」にはみな強く感応しているのに―― (注)
とにかくそうした努力の結果、かれの鋭敏な知性は、外発的自己の源泉であるヨーロッパ近代がその歴史的理念体系に齟齬をきたしているのを意識しつつ、内発的自己たるわが国の理念体系が根こそぎになっていることを批判するという、ジャグリングにも似た不安定な態勢をとらざるをえなかった。観念論の克服と個人の確立、とである。鴎外漱石よりも複雑な思考をかれは強いられたのだ。それがかれの批評の内実をまことにわかりにくくしている大きな要因となっている。現象としては、こうした二重の姿勢は、倦むことなき啓蒙活動と激しい攻撃的批評という両極化したかれの批評活動のありかたに直に反映している。
そして、いささか弁解めいたことをいえば、この文章が終始、ヨーロッパの歴史や思想を行きつもどりつするのも、福田恆存という特異な思想家を論ずるためには、それはどうしても不可避な行程なのだ。