シェイクスピア参上にて候第十章(三)
第十章 シェイクスピアは日本を愛す
(三) 日本の皆様、ありがとうございます
それぞれに二週間の自由時間を楽しんでいるロンドン支社の十六名でありましたが、シェイクスピア様のプッシュでわたくしの心に生じた思わぬ結婚への決意が、果たしてわが両親の意に適うものであるかどうか、それを確かめるべく、我が家の夕餉のひと時に話をしたのです。
「お父さん、お母さん、ちょっと聞いてもらいたい話があるのですが。この一人息子の結婚についてどういう考えを持っていますか。ちょっと知りたいのです。」
「お父さんは、お前が気に入った相手を連れてくれば、なるべく理解してあげたいと思っているよ。基本的にはお前を信じているからね。もう付き合っている女性でもあるのかね。お母さんの考えはどうだい。」
「わたしもお父さんと同じ考えです。この頃は、少子高齢化とか、晩婚化とか、いろいろ言われているけれど、結婚は早くても構わないというのがお母さんの考えですよ。はやく孫の顔を見たいものね、お父さん。」
「そうだな。結婚のことで息子が訊いてきたということは、さては目星の相手がいるということだね、才鶴。そうだろう。」
「実は、そうなんだ。同じロンドン支社で働いている女性の米倉アキ子さんなんだ。彼女の気持ちを最終的に確認しているのではないけれど、ゴールインの可能性はあると思っているよ。」
「おい、何だい、その言い方。相手の確認はまだなのか。ゴールインの可能性はある?一人で勝手に思い込んでいるのではないのか。」
「いや、僕が思い込んでいるのではない。周りが思い込んでいるのだ。いろいろと、周りが。その流れは非常に強いので、僕も抵抗できないほどだよ。」
「お前の「周り」と言えば、このお父さんとお母さんに勝る「周り」はないだろう。一体、どこの誰が「周り」なんだい。わからない話だなあ。」
「京都大学の萩野琢治教授、そして、萩野教授の妹さんでマサ子さんとおっしゃる方、この方が米倉アキ子さんのお母さんです。この二人は結託してアキ子さんと僕との結婚を相当に推進していることは間違いありません。
簡単に言えば、僕は萩野教授とマサ子さんに見込まれたと言うか・・・。萩野教授は、すでに僕が勤務している会社の重野誠CEOに仲人を頼んでいると言った状況です。
そして、これは信じてもらわなくてもいいですが、シェイクスピア様が相当に、米倉アキ子さんを称賛しておられ、僕の背後で二人の結婚を奨励していらっしゃいます。
「周り」と言いましたのは、萩野教授、その妹のマサ子さん、準備が整えば仲人に立つという重野CEO、そしてあの世からの応援団長として、シェイクスピア様、以上が「周り」のような人たちです。」
「うーん、萩野教授、その妹さん、重野CEOまではいいとして、シェイクスピアとは何だ。シェイクスピアとお前がどんな関係にあるというのだ。
才鶴よ、気は確かか。どこでシェイクスピアがお前の結婚を奨励されたのだ。いつ。」
「江の島神社で、『戸惑う暇はない、直ちに結婚の準備に入れ』というようなお言葉をいただきました。今日の昼間の出来事です。」
「お母さん、どうだい、息子の話は。信じられるかい。慶応を出た理性のある息子が、どこで神懸ってきたのか少し心配になってきたよ。」
「信じられるかって、それはもう、びっくりするような話ですね。でも、わたしは、この結婚話は、基本的に、いいと思いますよ。相手のお嬢様も素敵な方のようですし。何しろ、シェイクスピア様も御推薦のようですから。」
「おい、おい。お母さんまでいつの間にか、シェイクスピア信者になってしまったのか。まあ、シェイクスピア云々は別として、お母さんがいいというならお父さんは何も言うことない。息子よ、ためらうことなく、結婚せよ。」
こういうやり取りの末、一応、我が家における結婚了承の言葉は、父母からいただくことができました。
父は、江の島神社での出来事を、シェイクスピアか何かは知らないけれど、何かお告げの霊でも降りてきたのだろうと、自身を納得させたようです。何しろ、神社での出来事であるから、お告げぐらいはあるだろうという自分への言い聞かせであったようです。
こうしてわたくしは包み隠さず、これまでの経緯を話して、父母の許諾を正面突破することができたという結果に我ながら驚いています。
鶴矢先輩は、デンマークを取りやめ、十三日間の日程を十一日で切り上げて日本に戻ってきました。どこかで会おうというメールが入り、浜離宮恩賜庭園で会うことにしました。
浜離宮恩賜庭園の西側には築山がありますが、芝とシロツメグサで被われており、背の低い松が植えられ、築山の景観を作り上げています。東京湾も一望できる場所であり、そこに、二人は腰を下ろしていろいろと話し込みました。
「今回の本社の待遇は、本当にありがたいことであった。ロンドンのメンバーは全員喜んでいる。やる気をみんな起こしているようだ。
ところで、才鶴ちゃん、米倉さんとの結婚話はどういうように進むのかい、それとも進まないのかい。」
「鶴矢先輩も気にかけていらっしゃるだろうと思っていましたが、ご報告を申し上げます。結婚することに決めました。両親にも報告し、承諾を得ました。米倉さんにはまだ話していませんが。おそらく大丈夫だろうということです。」
「おい、おい、ちょっと奇妙な話に聞こえるが。才鶴ちゃんも大丈夫、両親の方も大丈夫、しかし、米倉さんの気持ちはまだ聞いていないが、おそらく大丈夫。
何なんだい、その妙な確信は。米倉さんの気持ちが一番重要なのではないかね。」
「わたくしも基本的にはそう思いますが、シェイクスピア様が結婚への揺るぎない確信を与えてくださいまして、米倉さんと結婚することを決めました!
江の島神社でシェイクスピア様が御降臨されまして、結婚せよとのメッセージ、しかと受け止めさせていただいた次第です。
今は、何のためらいもなく、もやもやした霧が晴れて、結婚へ一直線という決意に満ち溢れています。」
「まいったなあ。シェイクスピア様が決め手か。おそらく、米倉さんに対しても愛のキューピッドでも送って下さり、同様の確信をお与えになるつもりであろう。
すごいことだ、ここまで人間の気持ちを変えて下さる力があるということは。もしかしたら、萩野琢治先生の世話焼きも、その背後でシェイクスピア様の働きかけがあったのかもしれない。そんな気持ちにさせられるね。」
その時です。シェイクスピア様が、二人の前に姿を現して、話しかけてこられました。
「鶴矢さん、まさにその通りです。萩野教授の背後で、近松才鶴さんと米倉アキ子さんを結ばせるように誘導したのは、このシェイクスピアです。見事に、鶴矢さんに見破られてしまいました。
人生、いろいろあっても、結局は結婚して夫婦が仲良く暮らすこと、これ以外にないというのが私の結論です。
悲劇、喜劇、史劇、さまざまな戯曲をわたしは書きましたが、根本は、やはり、人類社会の根源である男と女の物語に帰結します。
近松さんと米倉さんを見て、わたしは二人を結び合わせることにしたのです。二人はきっと幸せな家庭を作ります。」
「シェイクスピア様が縁結びの神でいらっしゃることには、まったく気が付きませんでしたし、思いも及びませんでした。
この鶴矢軟睦も結婚して、息子が一人いますが、スカンジナビア半島を妻と息子、私の三人で家族旅行してきたばかりです。本当に家族はいいものだなという実感をさせていただいております。
できましたら、わたしの息子、子規の相手も見つけていただければ、幸いに存じますが、いかがでしょうか。」
「このシェイクスピア、すでにちゃんと相手の女性を見つけていますよ。そのうち、子規さんは、その女性と巡り合うはずです。
失礼ながら、シナリオはシェイクスピアがすべて書き上げていますので、話はその通りに進んでいくはずです。その女性のことを鶴矢さんもきっと気に入ってくださるだろうと思います。
日本人か外国人かの結論だけを申し上げておきますと、その女性はイギリス人です。素敵な女性です。」
「えっ、もう決めてあるのですか。早いなあ、頼みもしない先に、もう決まっているとは。相手はイギリスの女性ですか。何だか楽しみになってきたなあ。
自分が結婚するみたいにワクワクしてきます。シェイクスピア様、何卒よろしくお願いします。」
「鶴矢先輩、こういうことになるんですよ。シェイクスピア様に掛かれば、結局、愛のマジックが凄まじい勢いで働きだして、結婚を考えたこともない人が、結婚に突入することになるんです。
その被害者、いえ、受益者がこのわたくしです。」
「ははは、二人とも縁結びの神になったシェイクスピアに驚いているようですが、シェイクスピアも悟りの境地に入りまして、結婚の喜び、家族の幸せ、これに勝るものはないということをあの世に行ってから、一層深く悟らせていただきました。
天上界、地上界を往復しているわたしは、私と何らかの因縁を結んだ人々には、愛の幸せをお届けしようと考えているのです。
近松さんと鶴矢さんとは、深い縁ができましたので、勝手ながら、愛のシナリオをこちらの方で書かせていただきました。そいうことなのです。」
「よーく、分かりました。そのうち、わたしと才鶴ちゃんとで、シェイクスピア神社を立てて、縁結びの神として、日本全国の善男善女がお参りに来るようにしたいと思います。
何しろ、少子高齢化、晩婚、生涯未婚など、このままでは、日本の将来に不安を感じています。」
「シェイクスピア神社ですか。そうなると、このシェイクスピアはキリスト教から神道へ宗旨替えしなければなりませんね。
わたしも一応、神として祭られるわけですから、神らしくしなければならない。これは大変なことになった。」
「ご無理されなくてもいいですよ、キリスト教のままで。そこにプラスアルファが付いたと思ってください。キリスト教も神道もやるんだと言った気持ちで構いません。
日本人はあらゆる宗教に平気で付き合う妙な寛容さがあるのです。この鶴矢家におきましては、仏壇も神棚もあります。私の結婚はキリスト教会で行いました。妻がクリスチャンでしたから。」
「厳格な宗教精神で自分の信仰を守ってきた欧米社会からすれば、信じ難いことです。いくら何でも寛容すぎるだろうという感じです。
しかし、まあ、縁結びのようなことをしているシェイクスピアですから、日本で、「縁結びの神」としてシェイクスピア神社で祭られることになれば、それもいいでしょう。何だか愉快な気持ちになりました。」
「安心してはなりません、シェイクスピア様。才鶴ちゃんと私の息子の子規の二組ぐらいを縁結びしたからと言って、縁結びの神と呼ばれるにはちょっと数が少なすぎます。
何千、何万ものカップルを誕生させなければなりません。縁結びの神としての実績を積み上げなければなりません。この日本列島から離れるわけにはいかないくらい、忙しくなりますから、御決意が必要です。これから、大変忙しくなりますよ。ご覚悟はいいですか。」
「分かりました。覚悟はできています。それより何より、わたしは日本を心から愛しています。その日本のためにカップル大製造のお役目は喜んで引き受けるつもりです。
シェイクスピア文学を日本語に翻訳するために、また、広く知らしめるために、どれだけの優秀な文人、学者たちが労を惜しまなかったか、わたしは知っています。
日本語訳の最初の労を取られた坪内逍遥先生をはじめ、夏目漱石先生に至っては、わたしの作品に通暁し、その眼識の深さにおいては圧倒的なものがありました。
そして、「ハムレット」を自在に解釈し、新しいシナリオを書きあげて「快かな」を叫んでおられた太宰治氏の異能にも驚かされました。
さらには、文芸評論家の福田恒存氏が翻訳された私の作品群は、大いに意味の深い翻訳に仕上がっています。
すなわち、英語と日本語の間にある違和感、距離感を取り除き、シェイクスピア英語の躍動感を日本語にそのまま移し替えるという姿勢の中に福田氏の並々ならぬ尽力が見られたものと思います。
劇作家の木下順二氏は、非常に鋭い感性を持っておられ、私の作品を十五篇ほど訳してくださいました。
シェイクスピア劇が発する英語の生命力を捉え、簡明で詩的な響きを持った日本語をあれこれ注意深く選びながら、訳出してくださったことに深く感謝しています。
木下氏は非常に鋭敏で、素晴らしい詩的感性の持ち主であると尊敬いたしております。
小田島雄志氏の現代語訳も素晴らしいものです。的確に意味を捉え、難解に陥らざるを得ない私の言語遊戯を駆使した作品群を、分かりやすくすることに努めておられる姿勢には頭が下がります。
読み込みの深い洞察眼をお持ちであるとお察しいたします。
そして、蜷川幸雄氏の展開された一連のシェイクスピア劇の斬新性と奇抜さ、圧倒的な娯楽性は、新しいシェイクスピア劇の可能性を世界に開いたものとして、わたしは心底、驚くと同時に感謝の気持ちでいっぱいです。
蜷川氏の熱情的なシェイクスピア劇への取り組みは世界的に見ても圧倒されるものがあります。
このように日本の皆様とこのシェイクスピアとの関係を話して参りますと、どれだけ、日本の方々が秀逸な才能をお持ちであるか、想像を超えた能力が日本の皆様にはあると思います。
このシェイクスピア、『日本の皆様、ありがとうございます』と、心から感謝の言葉を述べる以外に何もございません。感謝の心があるのみです。」
「これほどまでに、日本人のシェイクスピア劇への愛を、綿密に人名を挙げながら、語ってくださるとは、本当に驚きました。すべてをお見通しであられるシェイクスピア様の慧眼に圧倒されました。
シェイクスピアという言葉が持つ磁力が、地球上のすべてのシェイクスピア様に関わった人々を吸い上げて、あなた様の目に、余すところなく見透かされたという印象が正直なところです。シェイクスピ様は恐るべきお方でございます。
わたくしは、近松門左衛門の末裔として、また、わたくしの命を助けて下さったあのロンドンでの交通事故以来、シェイクスピア様が守護霊のようにわたくしを守り導いてくださっていることにただただ感謝でいっぱいでございます。
それだけでなく、わたくしの結婚という一大事を、見事なシナリオのもと、米倉アキ子さんと結んでくださったことに対し、どのようなお礼の言葉も見つかりません。
事故からお守りいただいた命の恩人、結婚の結びをいただいた人生の恩人、もはや、わたくしの人生のすべてをあなたの手の中に握られたも同然のわたくしです。」
「そんなに大げさに私を称えてはいけません。あちらの世界で近松門左衛門様と懇意になり、門左衛門様の末裔であるあなたに深い関心を寄せるようになったとき、あの交通事故に遭われた才鶴さんを目撃して、必死にお助け致した次第です。
縁結びに関しては、私の直感、あるいは霊感と言ってもよいかもしれませんが、そのような相性を見通す認識能力が脳裏を瞬時に走り、二人はぴったりだと確信したからです。
どうやら、そういう相性の認識に関して、このシェイクスピアは霊眼が開かれたような感覚になっています。縁結びの神もやれそうな気がしています。
少子高齢化とか晩婚とか離婚とか、そういう課題はこのシェイクスピア様にお任せあれ、という自信がどこからみなぎってくるのか、とにかく、世界が悩んでいるこれらの問題に対して、このシェイクスピアが名乗りを挙げなければならないという決心が揺るぎないものとなってきているのです。」
「すごいことです、シェイクスピア様。私の息子、子規の嫁を早く見たいという気持ちでいっぱいの鶴矢軟睦です。
確か、英国人の女性と子規を結んで下さるということですが、彼女は子規よりも年上ですか、年下ですか、差し支えなければ教えてください。」
「同じ年齢です。子規さんは一八八センチですが、同じように、背の高い女性です。一七七センチあります。すらりとしたブロンドの美しい女性です。
彼女は大学で日本語を学んでいますから、日本語はよく分かり、また、話せます。もちろん、子規さんも英語はペラペラですね。私の霊眼に間違いがなければ、二人は喧嘩一つしないほど仲良く暮らせる相性の良さです。結婚は三年後になるでしょう。」
「ありがとうございます。だいぶ情報をいただきまして、ますます息子の結婚が楽しみになってまいりました。本当にありがとうございます。」
こういうやり取りの中で、浜離宮恩賜庭園の築山でのシェイクスピア様との会話は、鶴矢先輩およびわたくし近松才鶴の二人を大いに満足させ、予想もしなかった「縁結び」談義に花を咲かせる結果となりました。
また、シェイクスピア様が、日本の文人、学者の皆様との関係に言及されたくだりは、本当に驚きであり、日本とシェイクスピア様の関係がいかに深いかを知らされるものでした。
わたくし近松才鶴と米倉アキ子さんは、どうなったかですって。予想した通り、シェイクスピア様の愛の魔術にかかり、アキ子さんはわたくしへの思いを急速度に高めておりました。
とどめを刺すかのように、萩野啄治教授と母親からのサンドウィッチ説得作戦の前に成すすべもなくアキ子さんは陥落し、結婚の決意をしたようです。わたくしの気持ちを確かめることもなく決意に至ったのです。
それは、わたくしがアキ子さんの気持ちを確かめることもなく結婚の決意に至ったのとまったく同じでした。
読者の皆さん、こんな結婚があるんですね。シェイクスピア様にかかれば、とんでもないことが起きるのです。
(おわり)
*)以上、「シェイクスピア参上にて候」第一章から第十章まで、全てを書き上げ、「note」において、発表させていただきました。お読みいただいた読者の皆様には、心から感謝の言葉をここに申し上げたいと思います。
まことにありがとうございました!