◆昭和32年に結成された「蔦の会」という「戦後に福田を慕って集まった若い人たちの勉強会」の参加者のうちに、「佐藤信夫(言語学者)」がいた(川久保剛『福田恆存 ―人間は弱い―』180頁,ミネルヴァ書房,2012)。 言葉への鋭敏な感覚を示し続けた二人 私に示唆を与え続ける先達
◆「そして人間の自由とは、演戯の自由のほかのなにものも意味しません」(福田恆存『藝術とは何か』41頁,中公文庫) 「演戯」を抽象化すれば意識的な仮面と意識的な素顔である。つまりまずは明確な意識で二つに分けること、分節することが必要となる。生真面目の融合無分別はこれと対極にある。
◆20代のころに読み大きな影響を受けたのは、福田恆存『人間・この劇的なるもの 』(新潮文庫)であった。二重性(ときに二律背反になりえる質)という二つの旋律が織り成す生の形式(要請)が、現在の完全燃焼のうちに人は演戯を獲得する。必然のうちに未然を見て、未然のうちに必然を予感せよと。
日本に素晴らしいところがたくさんあるところと、日本には致命的ともいえる欠陥があるところは相互補完ができないこと どれだけ日本に他国から見ればうらやむようなものがあったとしても、それで日本の弱点が帳消しになることはない 弱さを認めることは想像以上に難易度が高いことと思う
自然や社会が人間、個人に与える害に対する防衛装置をできるだけ完璧なものにしようと努めること。近代文明について、おそらくこれ以上適切な定義はもめられまい 近代の文明とは人間に降りかかる害を極力減らそうというシステムということだろうか? 文明はあくまで人のために存在しているもの?
日本人は西欧が試して成功した保証付きのものばかりを輸入してきた それ故か、未知に挑もうという冒険心を失ってしまったのではないかと聞いた 近代日本人の脆弱性とは正しいかどうかわからないことに挑もうとしない一方で自らは正しくて何でも知っていると思いあがっていることだと福田は述べていた
緊張に耐えられない個人の弱さ、これが日本人の弱さだと聞く 精神の自立を好況時のみ求め、不況のときは贅沢だの、理想論だのと言い、幼稚で未熟な姿勢を公正なものとして受け入れろと開き直ったところに日本人の未熟さがあるとも聞く 個人が責任放棄が個人の責任過多をも生んでいる
自分の考えは人間のことを考える所謂「人間観」を根源に置いていると思う 福田恆存に惹かれているも彼が人間観から出発しているからかもしれない 国家や政治を考えるのも、経済や貨幣について述べるのも、福祉を学び、保守の方々の話を聞いているのも人間観に関わっていると思ったからだ
一人二役、二つの要素があってようやく一つの安定が生まれる 政治と文芸というものも二つ揃わないと、安定した筋の通った話ができなかったと聞いた 片方だけをどれだけ磨いても、一人前になれないことが現実には結構多い 自分を見るだけでなく、自分以外も見る。両方を見てようやくわかることもある
日本は民主主義の国。民主主義が破綻をしている場合でも同じことは言えるのか? 民主主義は理想の社会とは思えない。最善よりも最悪を防ぐためのものだと福田は述べていた 最悪を防ぐためのものが最悪を引き起こしているなら、本末転倒の可能性もある 前提の見直しはやはり大事ではと思う
日本人には偽善や欺瞞、事なかれ主義に至りやすい悪癖があると思われる その悪癖を対処する手段を作れずに歴史を作ってしまい、それは変えられないものだと諦めきっているように感じる 天性の楽天家であり、明確な立場も主張も持たずに都合よく振る舞い、美徳という言葉でごまかしていないか?