正統とは何か カトリシズムの無免許運転
昭和四十年代くらいまで、福田恆存はみずからの思想を、「カソリシズムの無免許運転」と称していた。「無免許運転」とは、信者でもないのに、カトリシズムの論理体系を勝手につかっているという意味である。
竹内好との対談では、かれ自身、このように明言している。
私もこれを読んで、「カソリシズム」とはなんなのか、かたっぱしから繙読してみた。そんな便利なものがあるなら、私も手に入れたいと考えたのだ。
ジャック・マリタンとかガブリエル・マルセル、チェスタトンをはじめ、とにかく、ニューマンからメーストルまで、カトリシズムと題する本を、手当りしだいに読んでみた。
正直の話、どの入門書もはなはだぼんやりしていて、なかなかこれというものに行きつかない。
それは当然の話で、かれらはあくまで信者に向けて、あるいは敵対者にたいして書いており、論理の建付けではなく、おもに信仰の意味について語っている。私のような部外者は、はなからお門違いなのだ。論理を知りたきゃ、トマス・アクィナスを読めということのようだ。
おかげでスコラ哲学も読むはめとなった。
結局、長年の労苦の末に、そんな便利なハウツー本など、この世に存在しないことをおもい知らされた。
ただ、いろいろ読んでいるうちに、公認カトリックではないにしても、ベルクソンやベルジャーエフ、ロレンスたちは、カソリシズムにかなり近接していて、かれらも「無免許運転」者らしいことがなんとなくわかってきた。
とにかく、福田恆存のいう「カソリシズム」の体系になかなかたどりつけないのだが、ここは暫定的に、いまのところ私の貧しい理解の範囲において、その素描をしめそうとおもう。
とはいえ、これはカトリシズムのロジカルな部分だけを取り出そうとする試みであるので、純粋なキリスト者からすれば不快なことかもしれない。
でも、ご心配にはおよばない、「無免許運転」は、そのうち、とっつかまる宿命にある。
第一のラッパが吹き鳴らされる
まずいえることは、カトリシズムにおいては、霊魂と肉体を別次元のものとして措定することだ。
霊魂と肉体などというと、どうにも宗教くさいのだが、要は、精神と物質の二元論ということである。
しかし、ここからが肝腎なのだ。
この世界は、私の態度いかんによって、二様の相貌をあらわす。精神と物質の二元論は、主体のスタンスに応じて行動化するのである。
私が相手を、それが人であれ動物であれ物であれ、対象化してのぞむとき、それは客体としてあらわれ、私が生きるために利用しうるモノとして機能する。私はモノを支配し、そのことによって私は世界から疎外される。
これは人間にとって非本来的な状態である。
また、私が相手を対象化せずに、親密な関係をむすぶとき、それは私とともに生きる同志となる。
このとき私は世界と調和しうる。こちらは人間にとって、本来的な状態とみなされる。
マルセルの用語でいえば、所有と存在、ブーバーでは、われとそれ、われと汝の関係性である。
たとえば、われわれは太古の時代、太陽を水素とヘリウムでできた物質などとはおもわず、神として尊崇していたのである。そのとき太陽はわれわれに計り知れない恩恵をあたえてくれる唯一無二の存在だった。
しかし現代において太陽は、無数にある天体のなかでも、いたって小規模な恒星の一つにすぎない。
いまも人類はあいかわらず恩恵を蒙っているにもかかわらず、太陽をモノとして対象化し、そのエネルギーを利用することしか念頭にはない。
かつて「神」であった太陽の存在感は大幅に切り下げられて、価値は暴落した。それはモノとして、人間が支配しコントロールする対象へとなり下がったのである。
これはほんの一例であり、こうした人類の姿勢が、環境破壊を生み、地球温暖化の原因となっている。
それは自然との調和を欠いた関係をつづけてきた人類みずからがもちきたらした悲劇的な惨禍である。
第二のラッパが吹き鳴らされる
ここで、部分と全体という問題がもちあがる。
人間は本来、自然の一部であるはずだ。
ところが人間は自然を対象化したことによって、自然は客体の地位に転落した。観点をかえれば、人間は個体として自然から疎外され、孤立したのである。
大自然を「全体」として考えれば、人類はその部分であり、私はさらにその人類の一断片である。私の生は、私以外のすべての存在者との関係性の上に成立している。孤立はできない。
人間理性は、自然に君臨しそれを支配下におくことで、あらたな関係性をむすんだのである。そしてそこには、いつか将来、世界全体を見わたし、万物を適切に位置づけうるという理性への信頼がある。
さてここでわれわれは、根本的現実にたちかえる必要がある。
つまりわれわれが「個体」であるのは、われわれが各自、みずからのパースペクティブに閉じこめられているからであった。
私の視点の手前では、私をとりかこむ事物がはっきりと見えるのだが、視線をのばしてゆくと、しだいに対象物の輪郭ははぼやけていって、ついには消失する。しかしその先にも――空間的にも時間的にも、多数の事物が存在することを私は確信しており、その延長線上に、「全体」を直観している。
私のパースペクティブは、私を中心に一つの小宇宙を構成しているのである。
他者は、私のパースペクティブにあらわれてくる存在者であるが、その全存在をうけとるわけではない。同様に、私もまたかれのパースペクティブの登場人物であり、互いに相手を排除しあう構造にある。
他者とは、人間にかぎらず、動物、植物、鉱物その他、私以外のすべての実在をふくみ、視覚があろうとなかろうと、原理的には、万物は独自のパースペクティブを有している。つまりそれぞれが小宇宙をなしている。
とりあえず、それらの総和を「全体」とみなすことができる。しかしそれは数量的な集積ではなく、多極的な関係性の質的な総和としてである。
で、私のパースペクティブには、森羅万象が可能的にあらわれてくるという点で、私のパースペクティブは、質的に「全体」をふくむものであると考えられる。
とはいえそれは、私が全体を見わたしうるということを意味しはしない。それどころか、一つの視点に縛られている私には、私自身のすがたすら見ることはできない。理性への過度な信頼は禁物だ。
部分は部分のままで、全体を宿すのである。それはちょうど、小さな池の水面に映った月のようなものである。
現代人は「神秘」を蔑視している。神秘は無知蒙昧と同義とみなされる。それは、われわれが「科学主義」あるいは「理性主義」という信仰のなかで生きているからだ。
相対性理論は宇宙の始まりにビッグバンを発見した。しかし、その最初の元素はどこからきたのか、それはどこで発生したのか、そのためにどのような力がはたらいたのか、依然として謎のままである。
神秘は現存する。それは人間にはけっして「全体」を把握できないという真実に由来するのである。
したがって、全体性を宿す「部分」と、個体化する「部分」という二重性がそこにはある。
第三のラッパが吹き鳴らされる
全体と部分は、時間にも応用される。
時間は三つに分解される。
アウグスティヌスはそれを、「過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」と、表現した。
全体とは永遠である。過去・現在・未来は部分である。
エレア的な観点からいえば、時間は、見せかけの錯覚である。いいかえればそれは、時間の空間的解釈である。
プラトニズムやニュートンの絶対時間も空間的解釈といえる。
いずれも、時間は実在ではなく、それ自体は無意味であり、現在・過去・未来は、永遠から崩落した断片である。
しかしキリスト教において時間は、創造的な意味をもつ。永遠は永遠でありながら、始原と終末をもち、それぞれの時間は存在論的な意義を付与される。
時間は宿命を成就させる決定的な因子である。
時間にも二重性があるのだ。やはりそれは行動化される。
時間についての考察は、必然的に過去について考えることである。人間の知性は現在と未来を対象とすることはできないからだ。
過去は、かつては現在であった。過去はいまとはべつの現在だったのだ。
時間を空間的に解釈すれば、過去は断片である。永遠からバラバラに崩れ落ちたかけらである。燃焼のあとにのこる燃え殻である。
時間を創造的に解釈すれば、過去は現在において甦る。燃え殻にふたたび灯がともる。
私とは現在である。永遠という全体を、部分である現在は宿している。私の現在は人類の全歴史をふくみ、その地平の上に成立している。現在における過去は断片ではなく、私という現在を不断に創り出し、押し出してゆく能動的な要素である。
ロレンスにならっていえば、人間の深奥には、腐敗の河と生成の河が流れている。片方は、死へといたる河口にむかって憂愁と悲哀をたたえている。もう片方は、肯定と昂揚にみちた永遠への参与である。
終末とは死である。死とともに時間はせきとめられる。死後に時間はない。
時間を切断する死の想起によって、バラバラのかけらとなった時間は回収され、一つ一つ意味をもたされる。始原と終末に区切られることで時間は圧縮され、充溢するのだ。それは生の逆説である。
死がまちかまえているからこそ、われわれはみずからの生命の貴さを悟り、瞬間の歓喜を感得し、時間の意味を知ることができる。
生はつねに時間のうちにある。しかし終末はわれわれを時間の外に連れ出し、永遠へとみちびくのである。
第四のラッパが吹き鳴らされる
「私」とは、始原においてあたえられているものである。しかし、「人格」はそうではない。「私」と「人格」は一致しない。
ラテン語にあるように、人格とは「ペルソナ」すなわち、仮面である。
私は苦心して仮面をつくり、素面をかくす。生きてゆくためだ。
キリスト教において、「ペルソナ」とは、まず第一に、人間が「神の似姿」であることを意味している。私は神に似せた仮面をかぶせられているのだ。
「人格」は、「神の似姿」であるにもかかわらず、自然発生的なものではなく、みずから創造するものである。
とすれば、ここにも二重性がある。というより異教徒の私からみれば、極端な矛盾をはらんでいるとおもえる。
「神の似姿」であることから、人格は全体性を宿し、完全性を志向する。だが、人間には限界があり、どこまでも不完全にとどまる。したがって「人格」は、無限と有限、普遍と特殊の二律背反として措定される。
トマス・アクィナスは、ペルソナとは、理性的な本性において自律する個体であり、「完全性と全体性」という特質をもつものと規定している。が、それは生まれつき帰属するものではなく、「完全性と全体性」は、生の目的としてめざされるものとしてある。
ここに、トマスの倫理思想の根拠があると考えられる。
「人格」は、あたえられ固定された実体ではなく、二律背反の両極を統一せんとする激しい運動それ自体としてとらえられているのである。
「仮面」が私だとすれば、私の「素顔」はどこへいったのか。
仮面とは対他的なものである。苦心した仮面の裏に、私は自己の真実をかくす。しかし、仮面なくして、自己の真実もない。この皮肉な事実に、私たちはどのくらい気づいているだろうか。
その仮面を私自身は見ることができないのである。
ということはつまり、私が「あるがままの自分」と考えている素顔は幻想であり、どこにも存在しないということだ。少なくとも、私が自分の「素顔」だとするものが、私が私自身に対してつけている「仮面」でないとは、何人にもいえない。いずれが素顔でいずれが仮面であるか――それを決定する確証は、私の手の内にはないのである。
第五のラッパが吹き鳴らされる
私は、「社会」の一員である。
そしてこの「社会」にもやはり二重性がひそんでいる。
社会は集団であり、私も家族も、友人も職場の仲間など顔の見える人びともふくまれるが、われわれがふだん「社会」というとき、それは顔のない集団のことである。
どんな暑い夏の日でも、われわれは服を着ておもてを歩く。むろん裸で出歩くことは法律で禁じられている。しかしわれわれが服を着るのは法律に違反しないためではない。ふつう「そういうもの」だからである。
どうして「そういうもの」なのか、ふだんは誰も気にしない。服装とは「そういうもの」だと、なんとなくおもわされている。
服装にかぎらない、人に挨拶したり、目上の人にへりくだったり、旅行に行くと土産を買うとか、名刺交換にもそれなりの作法があったりする。
それらは「慣習」とか「マナー」として、一定の強制力をもっている。けれども、いったい誰が「そういうものだ」と教え、強制しているのか。
それが「社会」という目に見えぬ存在者である。
もしそれを強制しているのが、たとえば国王であるのなら、「慣習」は、人間的なものということになる。なぜなら、その起源に特定の個人が存在するからである。
しかしながら、暑い日でも私に洋服を着させるのは特定の個人ではなく、「社会」という顔のない主体なのである。いいかえれば、その強制力の根拠はおろか、責任の所在もはっきりしないのだ。それでいて、誰彼なく、いちようにおしつけてくる。
人間の集団であることにおいて、「社会」は人間的ではあるのだが、もういっぽうでは、「社会」は茫漠たる推定的存在者――非人間的で機械的な実在であるといえる。
要するに、顔の見える同胞の集合としての「社会」と、右に述べたような無名な非人間的な集合としての「社会」と、「社会」にもまるきり性格を異にする二つの貌があるということである。
かつてはこの二つの「社会」のありかたは、両極としてバランスをとっていたのだが、文明の進行とともに、後者の「社会」の比重が日に日にましているということがいえる。
第六のラッパが吹き鳴らされる
キリスト教の世界観は、ギリシャ思想から多くのものをうけついでいることは、周知の事実である。だからといって、それを一本の直線として考えるわけにはいかない。
そこにはけっしてい相容れない根本的な相違があるのだ。
何が決定的な違いなのか。
それはひとえに、絶対者をどこにどう位置づけるかという点にかかっている。
結論を先にいえば、ギリシャの神は世界内存在であるが、キリスト教の神はこの世界の外に位置している。
度重なる神学論争、異端審問は、私のみるところ、すべてこの問題を基調としている。
ギリシャ思想においては、根源的「一者」というものが想定される。それは「ピュシス」であったり「ロゴス」であったり、「イデア」「ヌース」であつたりする。
それらは、この現象界の原動者であり、存在の根源である。万物はこの根源的一者から、存在を分有されている。
キリスト教においては、この世界は絶対者によって創られたものであり。神によって存在させられているものの総体と、みなされている。それはユダヤ的伝統を継承した世界観である。
かんたんにいえば、ギリシャの絶対者はこの世界の原動者として、世界秩序の頂点を占めている。すべては一者から流出し、世界はその一点を原点として存在のハイアラーキーを形成しているのである。
それにたいしてキリスト教の神は、いっさいのものの創造者である。なので、神は世界秩序に属するものではなく、その秩序をつくった創造者として、この世界から超然と存在している。
十三世紀にイスラム世界からアリストテレスの哲学が流入し、思想界を席巻したとき、教会はそれを異端とみなした。
当初、アリストテレス自然学は、「汎神論」的であると考えられたのである。
なぜならばそれは、万物を「ヌース」から流出するものとしてとらえるので、理論的には、万物は「ヌース」の存在を分有することとなり、そうすると「ヌース」を神ととらえたとき、万物はそれぞれの程度に応じて「神性」を分有していることになってしまうからだ。
これは「新プラトン主義」に多くを負っていた教父哲学の時代からずっと引き継いできた問題意識だった。
トマス・アクィナスですら、異端とされた。
しかし、おなじアリストテレス解釈においても、二派あったのである。
そもそもアラビアのアリストテレス解釈は、たとえばイブン・シーナらは、「新プラトン主義」を基礎としたものなので、「汎神論」的な色彩が強いものだった。
アリストテレスは魂を「現実態」と「可能態」に分けたのだが、
かれらはそのうち「可能態」を「普遍的知性」として、全存在をなりたたしめている存在原理としたのである。
それをそのままに受容したピエール・アベラールらは、結果的に、神と世界とを連続的にとらえることとなった。
ところがトマスはそういう手放しの受容を拒否し、アリストテレス哲学をキリスト教の伝統にもとづいて再編成しようとしたのである。
トマスは「神」を「純粋現実態」としてとらえる。それはアリストテレスから学んだものだ。
アリストテレスにおいてそれは、いかなる原因ももたず、みずからによって存在するもので、いわば純粋な「思惟」であり、不変不動の一者である。
そこからドミノ倒しのように、万物は連鎖して存在する。
しかしトマスの「純粋現実態」は、それとはちがう。端的にいって、その本質は「思惟」ではなく、「意志」である。
つまり神は、意志的に万物に存在をあたえるのであって、「純粋現実態」の形相が、あたかも化学反応のように、万物につたえられるのではない。
神はあくまで万物の創造者であり、世界とは神の意志によって存在するものの総体である。そこには、連続性などみじんもなく、両者は截然と分離され、神は世界の外部に超越する、本質と存在が一致する唯一の存在者である。
人間は神に似せて創られたとはいえ、それは「神の像」を分有するのではなく、個別に一人一人創られてある。したがって、人間から神に遡ることは、原理的には不可能なのだ。
湖面に映った小さな月は、それが月であることは明らかであるにしても、本物の月とは似て非なる映像にすぎず、しかも湖面はたえず揺れているのだ。
トマスは、アリストテレスの可能/現実の世界観を、本質/存在へと置き換え、キリスト教的形而上学へと昇華したのである。
まだぜんぜんいいたりないのだが、このへんにしておこう。
ここまで私のつたない「神学論議」につきあってくださった方がもしいらしたら、ふかく感謝申し上げたい。
たったこれだけの見解を得るために、私も不毛な読書を永年くりかえしてきただけに、みなさんの気持ちは身にしみてわかるのである。
正直いって、「だからどうした」といいたくなるでしょう。おきもち、解ります。私もそうおもった。
しかしながら、いまとなってみると、ここでのべた神の位置づけという問題こそが、キリスト教思想の中枢をなしていることがよくわかるのである。
つまり福田恆存が「カソリシズムの無免許運転」といっているのも、じつはこの点にかかっているのである。
第七のラッパが吹き鳴らされる
アウグスティヌスは、「我おもう故に我あり」という観念に、デカルトよりはるか以前に到達した、古代における正真正銘の天才である。
かれは、はじめマニ教に入信し、やがて「新プラトン主義」を真剣に研究したのち、キリスト教に回心する。
聖書を読んで、幼稚な思想だと当初は感じたにもかかわらず、である。
なにがアウグスティヌスをキリスト教にむかわせたのか――
答えはかんたん、マニ教も新プラトン主義も、かれを「しあわせ」にはしてくれなかったからだ。かれの抱える問題にまるで無力だった。
もっとくわしくいえば、それらはかれの生をささえ、生きる指針をあたえてくれるものではないということに、アウグスティヌスは気づいたということだ。
聖書にかれはその答えを発見した。イエスの言葉はかれを覚醒させたのだ。
それは、神は世界内存在ではない、という確信にある。
神は世界の外部にある。私のパースペクティブには、けっして現れてはこない。
そのことを福田恆存は、次のように解説している。
ここに示されているのは、トマス・アクィナスの世界観――つまりカトリシズムの世界観の明確な素描である。
アウグスティヌスもトマスも、そして福田恆存もここから出発する。
人は個人として、虚空にある一点を望む。そのことによって、人は相対的な平面からわずかでも立ち上がり、平面を見わたす視点を手に入れる。
福田恆存の「一匹と九十九匹と」も、この視点から書かれている。
それでは、相対的な平面では何がおこなわれているのか、それをまず考えてみよう。
一言でいえば、それは闘争の場である。べつの言葉でいえば、「政治」の場ということになる。
のみならず、神を否定し、意識に還元する近代思想もまた、この場で生みだされたものである。
生とは、つねに何か起こってくることである。
個人はその事態に対処するために、情報をあつめる。敵を知り、己を知らば、百戦あやうからず。人は、眼前にある障碍と束縛を排除するために、対象を認識し、それを理解し、支配へとむかう。
それがわれわれの文明の仮借のないすがたである。
自然科学にしても、それは無からの創造ではない。自然の仕組みと作用を認識し、理解し、その力を逆利用して、自然を支配しようとする試みである。
対象を人間とした場合も同じことがいえる。
われわれは束縛と支配を嫌い、個人の自由をもとめて、他者を認識し理解しようと欲する。
その結果、法や道徳では足りなくなり、いまや「コンプライアンス」というものをもちだした。それはいうまでもなく、他者の我欲を抑えこむ、消極的な支配のツールとしてあみだされたものだ。
「コンプライアンス」は、他者にたいする不信の体系である。
その前では、何もせず、何もいわない、かかわらない、というのが最善策であることは、火を見るよりも明らかなことだ。
かくて現代人は、ますます孤独になる。非行動的になる。
いずれにしても、善とか正義と、いくら叫んだところで、他者の我欲を抑えることは、動機論的にも結果論的にも、みずからの我欲を満足させるための行為でしかないのである。
文明の進歩は、たしかに物質的豊かさをもたらしたが、その反面で、不信と孤立を促進し、あらゆる関係性を支配/被支配――要するに、勝ち負けの論理に還元した。
それがわれわれの生きる現代の地平である。
アウグスティヌスがしあわせになれないと感じたのも、まさにこの点にある。
私はここまで、カトリシズムは自然や社会や、人間に対して、二重性を含意するとのべてきた。そして、この物質と精神の二元論を行動化することがもとめられている、と。
人間は「神の像」をもつ。それは個人がそれぞれみずからの意志と判断によって行為を決定し、そのかぎりにおいて自由であるということである。その意味で、個人は部分でありながら、全体を宿すことができる。
だがそれは、現代人のように、自然を支配し自然に君臨しようとする神のごときふるまいを意味しているのではない。
アウグスティヌスが考えたのは、まさにその正反対のこと、自由意志をもつからこそ、みずからの卑小さを痛感するということだった。いいかえれば、絶対神の完璧な善を仰ぎ見るからこそ、かえりみて「神の像」の不完全さを意識する。
みずからの至らなさを意識すればするほど――つまり、「神の像」の損傷の自覚が、私の「神の像」の輝きを増すという逆説的事実をもの語っているのである。
それは謙遜の徳ではなく、重力のような、ある種の物理法則だ。
絶対者と個人は、例外なく、単独で相対する。私は一人、現実とは断絶した彼方に神をもとめる。支配の論理によって他者にむけられていた視線は反転し、みずからにそそがれる。
したがって、そこで問われるのは、相対的社会の平面ではなく、なにより私自身なのだ。私の偽善、自己欺瞞、虚栄心、嫉妬、悪意、憎悪――すなわち、私のエゴイズムが真先に俎上に上がるのである。
その結果、わずかな時間かもしれないが、人は力の論理が支配する相対的な平面から離脱し、その空しさを悟る。
逆に、神が世界に内在する――もしくは、絶対者を否定するならば、つまるところ人は内省に頼るほかない。判断の基準を自分の内部にもとめるほかないからだ。
そうなると、結局、人の数だけ正義があり、真理があることになってしまう。それでは、相対的な世界で他者のエゴとぶつかった場合、自己の正しさを主張することはできない。いきおい、マルクス・アウレリウスのように自己に引き籠るほかに、人は倫理をたもつことはできなくなる。のこるのは、陰鬱な孤独である。
七つの封印
「しあわせ」とは、自然と調和し、他者と信頼し合うことだ。
私の生が全体と調和するというのは、私の人生が必然と化すということであり、そこで約束される生の充溢が幸福ということである。
近代以降の文明は、個人の自由拡大を目的としたために、自然と他者の支配へと向かい、調和と信頼のかわりに、破壊と不信をわれわれにもたらした。
あらゆる思想家がそれを批判し打開策を提示した。
宗教的哲学者はその急先鋒だった。かれらは霊魂と肉体――精神と物質の二元論を軸に、物質文明批判を展開した。むろんカトリシズムもその例外ではない。
先に言及しておいたように、人間存在の二重性のうち、たとえば所有の秩序ではなく、存在の秩序へ、あるいは「われ/それ」から「われ/なんじ」への態度の変換といったロジックによって、物質主義、相対主義への穏当な批判がおこなわれた。信頼と調和の回復が叫ばれたのだ。
私も若いころは、感動をもって読んだ。
だがしかし、カトリシズム全体を考えると、それはせいぜい一方通行の論理であることに、いまさら気づかされた。
私がカトリシズムをうまく把握できなかったのも、ここに大きな原因がある。
カトリシズムは、激しく行きかう対面通行なのだ。静謐で親和的な志向につきるものではない。世界の二重性を、二重性のままに肯定する。不都合な現実も排除しない。
生きることは戦うことである。よりよく生きようとおもえば、戦うしかない。宗教家のいうように、いつも柔和になんてしてはいられない。
かれらがなんといおうとも、われわれの日常のほとんどは、たがいのエゴイズムの衝突ではないか。それを単純に否定するのは、生の扼殺であるか、もしくは、とほうもないユートピア思想である。
イエスも、こういっている。
なんという激しい言葉だろうか。遠藤周作的な「愛の伝道師」というイエス像とあまりにもかけはなれている。(註二)
基本的には、イエスは神の前にただ一人立つことをもとめていると解されるのだが、それだけではない。
神は、親子兄弟の仲といえども、剣で切り裂くのである。
二つの人格は完全に分離され、たがいに相手を認識し、理解しつくすことなどできはしない。両者は一体となることはできない。
切り裂かれ、区別されているからこそ、人は相手を愛することができる。愛するとは、認識し理解することではない。理屈ぬきで相手を信頼し、自己を捧げることである。
東洋の宗教思想では、中庸が説かれ、中道を歩むことが良しとされる。理想と現実を妥協させる。
だが、西欧人はちがう。とても貪欲だ。かれらは激しく愛し、激しく憎むことをのぞむ。中間はない。
人は誰しも一人ぼっちだ。親子兄弟、恋人といえども、かれらが何をのぞみ、何をしようとしているのか、透明には把握できない。いきおい、不信と猜疑の眼でかれらをながめる。期待に反し、自分の意志とかれらのそれが衝突すれば、相手を憎みさえする。
憎悪するのは、それだけ愛されたいからである。
激しい愛と、激しい憎悪は、双方向の過剰な運動なのだ。あるいは、激しく憎しみ合うことがあって、愛はそれだけ深い意味をもち、真の自己犠牲が可能となる。
カトリシズムは、人間存在における二重の逆説を動的にとらえるのである。
それは両極のあいだを激しく往来しつづける振り子にたとえられる。真ん中にとどまることはない。
カトリシズムは、人間をそうした双方向性をもった、ダイナミックな逆説的存在として把握する。
そしてこの無限運動を可能にしているのは、ほかならぬ、世界の外部に位置する絶対者だ。振り子の錘はそこから吊り下げられているのである。
かりに絶対的価値がこの宇宙の外部にないとしたら、弱肉強食の相対的秩序にたいして、どんな理不尽も、この世界の内部で、自力でけりをつけるほかない。
行き着く先は、沈鬱な内省であり、静寂主義、諦念、隠遁、せいぜい適度中庸である。どれも非行動的観念といえる。
しかし、生きるとは、何にもまして、行動することなのだ。
神が宇宙の外にあるとするなら、人はこの世界の意味を理解することはできない。自分の信ずること、やりたいことを、おもいっきりやってみるしか、人にできることはないのだ。
喜びと怒り、愛と憎悪を中和して、世界に妥協するのではなく、この世の不条理をしんそこ憎み、それだけ激しく憎めるくらい、この世を過激に愛することがもとめられている。
人生の意味はそこにある。
この世の掟はいっさい通用しない。王様であろうと、神父であろうと、大富豪であろうと、天才であろうと、神は区別なく人間のエゴイズムを否定してくる存在者である。
他人のエゴイズムを責めることが、自己のエゴイズムを主張することにしかならない現世の相対的エゴイズムを、有無をいわせず、まるごと否定してしまうのだ。
成績結果は、最後の審判で明らかになる。けりを付けるのは神の専権事項なのだ。
自己の信念にしたがって懸命に生きたとしても、評価は神にあずけられている。人間の自己評価はあくまで暫定的なものにすぎない。人間に百点満点はない。それどころか、どれほど奮闘努力してみても、たぶん、落第なのだ。
足りないところの最終的な責任は神が負うのである。
それが、「救い」である。救いのないことが、救いなのだ。
ここに、「終末論」というかたちで、存在の二重性にたいして、精神と肉体の二元論を行動化するカトリシズムの神髄がある、と私はおもう。
(註一) そのベルジャーエフは、スコラ哲学よりもドイツ観念論の方が、「その思惟方法においてキリスト教的である」とのべている。これは常識的にはうけいれがたい指摘であるが、私にはなんとなく解る気がする。
つまりかれは、キリスト教の二元論的体系が、かれらの思考の深部に浸透しているといっているのである。どのような結論にいたるにせよ、思考の枠組みとして、かれらの思考の前提をなしている、と。
ブーバーのようなユダヤ思想家でさえ、本人がいくら否定しようとも、カトリシズムの影響を強くうけていることがうかがわれる。かれがエルサレム大学の哲学教授になれなかったのも、ただたんに政治的なスタンスだけでなく、そういうところに遠因があるのかもしれない。
(註二)
福音書を客観的に読めば、イエスという人物が、なんとなくあたえられているイメージとはちがって、行動的かつ攻撃的で、激情家の面をもっていることがわかる。
憂鬱な非行動的王子とされるハムレットが、意外と、溌剌たる行動者で、卑猥なジョークすら口にするリアルな若者でもあることと、ちょっと似ている。
イエスの人物像といえば、柔和でやさしく、公平かつ謙遜で、慈愛にみちている人物像が一般に強調されてはいるが、いっぽうで、攻撃的で激情家で、むこうみずな人であり、いきなり神殿で暴れたり、パリサイ人にたいしては、涓介な論争家として権威的態度を持している。
受難の最後には、「すべてを尽くして神を愛せ」といったかれが、懐疑の言葉すら発する。
理解に苦しむほど、その性格は分裂している。
言葉も、
「さいはひなるかな、貧しき者」
「狭き門より入れ」
「己が命を救はんと思う者は、これを失ひ、我がために己が命をうしなふ者は、之を得べし」
「多くの先なる者は後に、後なる者は先になるべし」
「汝らのうち大ならんと思ふ者は、汝らの使役者となり、かしらたらんと思ふ者は汝らの僕となるべし」
などなど、極端な逆説にみちている。
これらはたんなるレトリックではなく、極端な二元論につらぬかれたイエスの思想そのものであり、かれの生涯はそれを表現し駆け抜けた過程としてあらわれている。
カトリシズムは、こうしたイエスの佇まいを、正確に反映している。いや、そうあるべく努めてきたのであろう。
私はいちおう、仏教徒なのだが、イエスという人がことのほか好きだ。かれの言動に、ものすごく惹きつけられる。
福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。