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燃えるストイシズム(大原富江・「婉という女」)

ストイシズム・男篇

 大原富枝の代表作「婉という女」およびその関連作品「正妻」「日陰の姉妹」は、歴史小説であると同時に、弱者の救済装置としてのストイシズムの生態と真実を、哀切深く描いた作品だと言える。文芸評論家の福田恆存は、ストイシズムの特異な性格について次のように述べている。

 ストイックたちは人間の平等を説き、ギリシア人と野蛮人、主人と奴隷、その他いっさいの階級的差別を否定した。が、その心底にあるものは、現実のすべてを自分にとって不利なものと見なし、自分の手で自分を守らねばならぬと観じた孤独者の不信である。かれには身かたはひとりもいない。ギリシア固有の神々はもちろん、歴史も支配階級も、いや、仲間すらあてにはならぬ。自分が自分を認める以外、どこにも生きるよすがは求められぬのだ。

 ストイシズムは伝統的な生きかたの破壊された混乱期に、「自分自身を励ますこと」を目的とする哲学だったのであり、自己を滅ぼそうとする優越者に抵抗して自己を肯定するための保身の術だったのである。

『人間・この劇的なるもの』

 作品「婉という女」から伝わってくるひりつくような空気感、人間の温もりがいっさい奪い去られた後の残酷な寒々しさは、まさに「現実のすべてを自分にとって不利なものと見なし、自分の手で自分を守らねばならぬと観じた孤独者」が向き合わなければならなかった世界の姿そのものである。野中兼山という実在した歴史上の人物の一族を襲った不条理とも呼べる悲劇は、人間がその人生を支えるために必要な色彩感のある経験や感情生活を奪い去り、生物であるはずの人間を鉱物のようなものへと変形させる暴力を容赦なく幼い生命にふるった。野中兼山の次女婉の肉体からは、絶望と諦念に染まった言葉しかこぼれることがない。

「野中婉、四歳にして獄舎に囚われ、九十歳の生涯をここに置く」
 もしも墓碑銘を刻むことが許されたら、そう記して貰おう。ここに生くではなく、置くと。わたくしは遂に生きたことはなかったのだ。
 弟を死なせたくない、死なせたくない、とわたくしは真実ねがっていた。
 弟は生後わずか五ヵ月のとき、乳母に抱かれて獄舎に囚われの身になった。そうしていまは四十歳の男になり、死のうとしている。
 門外一歩を禁じられ、結婚を禁じられて、四十年間をわたくしたちはここに置かれていた。
 わたくしたち兄妹は誰も生きることはしなかったのだ。ただ置かれてあったのだ。

「婉という女」

 野中一族が獄舎に四十年にわたって幽閉されたのは、彼らの父である兼山をめぐる政争に巻き込まれたからであった(幽囚が赦免されたのは野中の男がすべて死去し、野中の血が途絶えたからである)。兼山は下層から這い上がった成功者であり、なおかつ歴史上の偉人でもあり、土佐藩の窮乏を救った名家老であった。「兼山以前の土佐は、ひとびとが自然に耕し、自然に漁りする山河であるにすぎなかった。兼山は、政治の力でこれを改変した。たとえば大いに農業土木をおこして、新田三千町歩をえた。この新田開発に働いたひとたち千人を郷士にとりたて、長曾我部氏の遺臣たちのガスを、幾分でも抜いた。のちのち土佐郷士が土佐の学問と思想のにない手になってゆく基礎も、兼山のこの施政から出発したといえる」(『街道をゆく 因幡・伯耆のみち、檮原街道』)と、司馬遼太郎は兼山の功績を讃えている。自然状態に眠り込んでいた土佐の風土に、兼山はストイシズムという作為を導入し文化を目覚めさせた。しかし、兼山は自分を成功に導いたストイシズムの復讐を受けるかのように、ストイシズムの犠牲者を演じることとなった。兼山の人生は、娘婉のそれに劣らず、波乱万丈なものであった。

 野中兼山は、土佐二十四万石の初代太守山内一豊の甥である山内勘解由を父に持った。勘解由は二万石を領した武士であり、周囲からは一豊の娘の婿となると見られていたが、一豊とその娘の死後旗色が悪くなり、一豊の娘とは違う女を娶り、禄も減らされることとなった。ついに勘解由は「まるで土佐の国を自分の体からかなぐり捨てるように、単身船で退去し」、京都に上った(あとを追ってきた妻は尼崎で死亡)。その後、大阪の尼崎宗清の伯母、秋田万を後添として迎え、兼山が誕生した。もともと勘解由には、息子兼山にも受け継がれることになる厳直俊烈といわれる「野中家の気質」が濃厚に流れていたが、この依怙地な気質ゆえに武家社会とは折り合いがつかず、兼山が四歳のときに京都の陋巷に妻子を残して死んだ。こうして母と子の困苦に充ちた生活が始まり、二人はその日の糧にも苦労する生活を強いられることとなった。二人は親子の情愛と呼ぶには異常なほどの結びつきでこの苦労を耐え忍んだが、流れ着いた堺の町で、十二歳の謙介は土佐藩の仕置役小倉少助に才能を見抜かれ、土佐藩家老野中玄蕃の養子として推輓されたのだった。

 小倉少助は、「破綻に瀕していた土佐藩の財政を、その綿密精緻な性格と数理に明るい頭脳と、忍耐づよい生まれつきによって、起死回生の政策に導きだした人であった」。少助によって蒔かれた種は、兼山の才覚によって大きく花開くことになる。少助は自分の息子以上に兼山(良継)を愛し、その才能を評価した。と同時に兼山(良継)がのめり込み、「辺境の地、流人の国といわれた土佐」に兼山が築き上げようとする新しい秩序の行く末に不安を覚え、兼山(良継)の人生に垣間見える悲劇の影に胸騒ぎを覚えずにはいられない。

 彼は全く良継を愛していた。自分の息子の三省が聡明な点では恐らく良継をしのぐものがありながら、政治家としての気魄と実践家としての勇気に欠ける、学者肌の男であることを見抜いている少助は、泉州堺の町の裏店に、母親の賃仕事で侘び住居している良継を発見したとき、もう一人自分の息子を持つことができた、と思った。
 このときから彼の政治家としての愛や希望は良継の上に注いで止まなかったのだ。良継は彼のいわば憧憬であった。自分に生きられない部分を、彼はこの頼もしい少年によって生きようと決心したのであった。

 まず国の経済を豊かにしなければならない。良継の学問の理想は卑俗ではあるが、決して容易なものではなかった。その困難さを克服する勇気と実践力を良継は持っている、と老人は信じていた。老人が秘そかに良継に賭けているのは、その実践力であった。
 若い鷹のような眼を瞠って、新しい学問の理想を憑かれたように凝視している良継を、老人はある不憫さで考えずにはいられなかった。

(――わしが生きているうちは彼奴を守ってやる、しかし、彼奴はいずれ、苦しまずにはいられまい。孤独で……)
 少助は三省のことを考えていた。息子が自分の代わりに、彼を扶けてやれるだろう、と。そう考えるより、ほかに気休めはなかった。
 良継がこれからはいってゆく世界の困難さが、老人には一つの地獄絵と同じ凄惨さに見える。理想という奴がどれほど残酷なものか、そこで良継は知るはずだ。額を高くあげて、いつでも永遠のように遠いところを凝視めている理想という奴の視線を摑もうとして、良継は地に這い、水に潜り、地獄の底に喘がねばなるまい。

「正妻」

 野中兼山という強烈な個性の持ち主の中に少助は、兼山がどれほど拭っても拭いきれない異邦性の輝きと翳りを感受している。それは、福田恆存がストイシズムの中に見出した「現実のすべてを自分にとって不利なものと見なし、自分の手で自分を守らねばならぬと観じた孤独者」の姿と重なる。兼山が小倉少助から引き継がされたものは、中世を終わらせ近世を開始するという大仕事であった。「自分はこの戦乱に荒れた国の地ならしを終えたのだ。政治の生まれる基盤を作ったのにすぎない。いまこそこの国に政治が生まれることができるはずだった。自分はそれを見たいものだ」と願う少助は、辺境の地土佐における初代異邦人と言っていいが、少助から二代目兼山、三省とつながる、政治の創設を目指す異邦性ラインの栄光と受難の劇をサスペンスとともに描いたのが、「婉という女」の前日譚「正妻」だと言える。三省が兼山の正妻市に語る次の言葉は、政治の創設における光と影を的確にとらえている。

――彼を憎む者は、良継が独断専行だというであろう。しかし政治には独断専行でなければ成し遂げられない段階がある。その段階のために、彼は生まれてきた男だ。……いまは誰も彼の生んだ政治を歪めることも汚すこともできぬ。しかし、やがて第二の段階がくる。政治は誰かの手によって、あるいは創り出した者自身の手によって、あるいは政治そのものの持つ性格によってか、変貌する。それは書物を見ればわかる。歴史が教えている。避けることのできない道なのだ。……そこで政治がどんなふうに歪み、汚れてゆくものか、わたしにもわからぬ、わかっているのは、そういう時期が必ずいつかやってくるということだけだ。

「正妻」

 三省の言葉通り、兼山(良継)は政治の第二の段階において失脚し、野中一族は不条理な幽囚の身となる。その悲劇の起源をあえて探し出そうとするならば、兼山の父山内勘解由から受け継いだ、厳直俊烈といわれる「野中家の気質」とともにある激しいストイシズムを見いだすことになろう。それは堺の町で、貧しさに耐えながら母と息子の二人だけで寄り添うように必死に生きてきた兼山と万親子という独特な共同体で、育まれ研ぎ澄まされていった仮構の場所であった。兼山は市に語る。「母もわしも、素朴な人間の座を自ら意志して捨てたのだ。わしが誰よりも母を愛したのは、わしと母がお互に、自然な、健康な人間の生き方を、政治という意志的な、人工的な生き方に売り渡すことを敢えてしたもの同士であったからだ。共犯者であったからなのだ」

 理想としての政治が根づく以前の、あまりにも自然的な環境において、「自己を滅ぼそうとする優越者に抵抗して自己を肯定するための保身の術」としての反自然的なストイシズムにすがりつきそれを貫いた兼山の姿に、作者大原富枝は自己のある部分を見いだしていたが、大原のまた別の部分はそれに反発し冷めた批評を加えていた。ストイシズムへの共感に傾斜しつつそれとは別方向への運動である憐憫にみちた批評を担うのは、兼山の妻であり娘である。

ストイシズム・女篇

 大原の『婉という女』三部作で描かれた世界は、哲学の分類を借りれば、「理性・悟性・感性」の三つの構成要素に分けることができる。その図式は「知識人・準知識人・大衆」という構図に対応する。具体的な登場人物を当てはめるなら、「知識人」には野中兼山、小倉少助とその息子三省が、「準知識人」には兼山の正妻である市と兼山の愛妾きさの娘である婉が、そして「大衆」には土佐藩の農民たちが当てはまる。「知識人」と「大衆」はほとんど水と油で互いに理解することは難しいが、「準知識人」は「知識人」と「大衆」の両方の世界を見渡しそれらを理解することができる。ということは準知識人=悟性は、知識人=理性と大衆=感性の間で引き裂かれる立場でもある。じっさい市と婉は、ストイシズムと自然の間で激しく揺れ動く存在であり、その動揺が作品にヒューマンな温もりを帯びた悲哀といった情緒を滲みわたらせ、作品を生きた文学にしている。

 のちに兼山の正妻となる市が野中家の養子となった良継と会ったのは、良継と市が互いに十三歳と七歳の少年少女の時であった。二人は男女として惹かれ合うことはなく(むしろ市は小倉少助の息子三省に愛情を感じていた)、お互いに他人行儀であり、特に市の方は母との間に堅固なストイシズムの世界を作っている良継に対して「少女時代の彼女はそんな彼を嫌な少年だと軽蔑」する態度で応じていた。良継と母の万が放つ過剰ななにかは、市が育まれた環境とはあまりに異質だったのである。

 その母子の姿には何か必死なものがあった。堺の町の裏店で、母の手内職によって学問し、剣道を修業している少年の、世にでるために汲々と努めている惨憺たる姿の延長が感じられた。
 いまとなれば母子の目指したものが、「世にでる」ためとか、「汲々と努める」とかという言葉の持つ、卑俗さとはかなり異質の、珍しいほどの誇りと情熱なのだ、ということが市にもわかっている。けれども豊かな環境で大らかに育った少女時代の彼女には受けつけない鬱陶しさであり、軽蔑してもよい野暮くささに見えた。

「正妻」

 そのような二人は男女の愛情というよりはたぶんに政略的な事情から夫婦となるが,「市が、良継の体の外見の厳つさに比べて案外に肉づきの貧しいのを知ったとき、彼女はいままで遠く眺めて嫌悪し、軽蔑したことのある彼の中の、知らなかった哀しみに触れた心地」を経験する。そしてその経験を通して彼女は夫の目指す世界を理解するようになり、自分の思考と感性を夫が推し進める理想のプロジェクトへと向けて開くにいたる。

 こうして市が結婚当初は不審に感じられた、夜の眠りさえ惜しんで書物を読んだり、自分の読んだ本を大金を投じて版屋に彫らせて何十冊という本を作らせて学問好きな青年たちに配って講座を開き、時には百姓や職人にも廊下や庭で講義を聞かせてやる夫の行動の意味を了解することとなる。「一人でも多くの人間に自分の考えていることをわからせ、同じ考え方をする人々をおし拡げてゆくことによって、自分の理想の社会を作ってゆこうとする夫の意図がおぼろげにわかってきた」。このころは三省のいう政治の第一段階であり、良継のストイシズムには歪みも汚れも見いだされることはない。とはいうものの、そのストイシズムにはしだいに罅が入り拡大してゆく気配が生じていた。

 二十四歳の時に兼山は、藩内に流れる森川と吉川を合致させ豊かな稲田を作る事業に乗り出すのだが、それは「神の作ったと畏まれる自然を、自分の意のままに組み建て直す」ことを意味した。また、設計図が完成し、いざ実行段階に入ると、ある部分では農民たちは兼山の命令を受け入れたが、それが農民の神によって禁忌されている場所になると彼らは梃子でも動こうとはしなかった。兼山は本山の本邸に一人起居し、妻や家庭を排除してこのプロジェクトに没頭し、自然を征服する試みに挑んだのだが、「吉野川の流域の工事を終ったとき、良継の中には一匹の鬼が生れていた。苛酷な作業の中で百姓たちが彼の中に見たものであり、また彼自身が彼の中に見たものであった」。

 そして妻の市はこの工事が完成した時、良継の中の「一匹の鬼」であるストイシズムに同調する自分を発見する。だから朱子学を信奉する良継が、朱子学の教えである「同姓婚らず」の禁忌を理由に夫婦の交わりを断つ提案をしてきた時もこれを受け入れ、自ら「妻としての生活」を不具にする。「このときから肉体の生活が失われて、精神の生活だけが始まった」。市と同様に、婉もまたストイシズムとの同調と葛藤を演じる人物である。

 土佐藩の自然を「自分の意のままに組み建て直す」という、兼山による執政者の男性的な秩序への投企は、長期的な歴史の視点から見れば、司馬遼太郎が評価するように、相対的には善と呼べるであろう。政治の良質な営みの明るい側面を信じることができなければ、投企という賭けにも似た企てにコミットすることはできない。野中兼山も司馬遼太郎も自然を克服する文化や政治の力に対して悪意や批評を向けることはなかった。けれども兼山の娘婉は、兼山や司馬が見ようとしなかった秩序から零れ落ちるものに対して、疼くような哀惜を生の痛みとともに覚えずはいられなかった。

 婉たちが囚われた獄舎という空間は、当然のこと、権力の支配の力が隅々にまで浸透する法的空間であるし、また婉や兄弟たちが「自分自身を励ます」ように修めた「孟孔や、朱子の教え」は、彼らが獄舎の中で無秩序へと崩壊する頽廃をおしとどめる防波堤のような役割を果たしている。しかし婉の肉体は、人工的な秩序の論理が抑圧した自然が、秩序の隙間をついてぬっと生々しい力を発散させる現象を、鋭く感受する。たとえば、女児を産んだ異腹の姉の乳房の生々しい存在感に「妖しげな花」の生命力を感じ取る。また、自身の肉体が女性としての変化を示し始めた時「自分のからだに、なにか罪の匂いを嗅ぎつけておびえ」ることになる。理性と感性のバランスが揺らぎ、またその揺らぎの経験を通して高次のバランス感覚を習得する思春期という特異な時間を、婉や兄たちは過剰に嘘をつくというやり方で通過しなければならなかった。

 兄上たちが男であることが、わたくしたち幼い姉妹を魂消るばかり恐れさせた。成長したわたくしたち姉妹が、女であろうとしたならその空しさに、兄上たちは多分眼をそらしたにちがいない。
 わたくしはそれを知っていた。兄上たちが男として生きなかったように、わたくしたち姉妹も女としては生きなかった。
 性別のない不思議な人間の集いのように、ここでわたくしたち兄妹は、嘘を吐き合ってすごした。
 地震が地殻の一番弱いところに噴出するとかいうように、そんないつわりの生活の空しさが、欽六どのの病みはじめた魂に、裂け目を見つけて噴出してきたのであろうか――

「婉という女」

 「欽六どの」とは、野中家の次兄で、男兄弟の中で一番脆弱な人間として侮られていたが、長期にわたる幽閉に耐えきれず発狂し、座敷牢に閉じ込められたのち、三十三歳の若さで死んだ。発狂した欽六に婉は親しみを覚え、「嘘に耐えることで危うく秩序の保たれているここ」で「欽六どのだけはいまは自由であった」と、人工的な秩序への皮肉を、欽六の弱さに寄り添って語る。理性=知識人批判をするとはいえ、婉は知識人よりの準知識人であって、欽六のように感性=自然の世界に低次元のやり方で自分を解放することはない。兼山のストイシズムの血は婉の肉体にも流れており、赦免後彼女は医学を修得して女流医家として一家を成した。

 兼山の血を濃く引き継いだ婉のような女性がいる一方で、野中家の女には欽六タイプの弱い女性もいる。そのような女性を描いたのが、婉とは異母姉妹にあたる寛と将の赦免後の苦労を描いた「日陰の姉妹」である。彼女らは、婉とは違って、自活する手段を持たず、人からすすめられて六十歳過ぎの老人と結婚して養われている。世間知らずの二人は嫁ぎ先でも居心地悪く、家の外でたまに交流している。やがて妹の将が高齢でありながら子供を妊っていることが発覚するのだが、その事実を知らされた夫の言葉は次のようなものであった。

 そんなことがあるものか、……わしは、気がすすまぬというたのじゃ、野中屋敷の娘など貰い受けるのは気が進まぬと。子供など生まれはせぬ年じゃと口説き落とされて貰い受けた、……そんな、子供など妊ってどうするぞ、もし、男の子でも生まれようものなら、藩府(おかみ)からまたどんなお咎めを受けようも知れぬ……

「日陰の姉妹」

 そのことを妹から知らされた姉の寛は憤りながらも、妹と途方に暮れてただ立ち尽くすばかりである……

 大原富枝は、文学との最初の出会いがドストエフスキーの『貧しき人々』であり、「弱者というものに捉われるようになった最初でもある」と語っている。大原作品の根底には虐げられた弱者がいる。その一方で司馬遼太郎ばりの俯瞰する立法者的な視線をも駆使することができる。理性、悟性、感性の三層を血の通った想像力とともに行き来する大原作品は、骨太さと繊細さを併せ持った読み応えのある文学である。

 ストイシズムということで、その周辺の曲を。まずは、鬼のようにストイックな力石徹。アニメ『あしたのジョー』の挿入歌「力石徹のテーマ」。歌うはヒデ夕木。作曲家の小林亜星がベタぼれで、黒人シンガーの匂いを感じていたという。

 次いで中島みゆきの隠れた名曲「りばいばる」。中島作品としてはかなりマイナーな部類に入るが、この恨みのこもった感じはけっこう好きである。

 ジャニス・ジョプリンの「サマータイム」も捨て難い。「サマータイム」はスタンダードで、多くのカヴァー曲があるが、ジャニス・ヴァージョンが、やはり、頭一つ抜きん出ている。

 ラストは、BOROの「ネグレスコ・ホテル」。この曲もそこはかとなく、恨みっぽいものを感じてしまう。いわゆるブルースのテイストである。そういえば、最近はブルースの歌い手をあまり見なくなってしまった。ベタな重みが妙に懐かしい。


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