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辛口そして幸い

田山花袋『蒲団・重右衛門の最後』という本を読んだ。
女弟子に熱を上げる中年文学者の生きざまを、露悪的なまでにリアルに描いたのが『蒲団』。
乱暴で放蕩な村の鼻つまみ者・重右衛門の、駆け抜けるような人生を回顧する物語が『重右衛門の最後』だ。

友人を通してこの本を知り、すぐに取り寄せて『蒲団』を読んだのだけれど、『重右衛門の最後』の方はなんとなく読まずに放置していた。それを最近思い出し、久しぶりに本を開いてみると興が乗ったので、こちらも最後まで読むことができた。
最終的にどちらの話もなかなか面白く読めた。しかし巻末には、その感想が薄れるほど強烈な福田恆存氏の解説が待っていたのだ。

おもうに『蒲団』の新奇さにもかかわらず、花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。

かれは(中略)多くの外国文学を漁っておりましたが、(中略)自分の読破した外国文学と本質的なめぐりあいというものを経験しなかったひとです。なぜなら、かれの内部には、なにかを選びとらずにいられないほどの切実な問題意識が欠けていたからです。

善良な花袋は外国文学の作中人物になりたがったと同様、『破戒』の主人公の所作を身につけたがったのであります。自己のうちに強烈な問題意識の追及を欠いている人間が、外部の強烈な自我の渦巻にまきこまれてしまうのは、けだし当然といえましょう。

中村光夫は花袋を評して「文学青年の先駆者」といっておりますが、(中略)文学青年とは一口にいえば、芸術家の才能なくして、芸術家に憧れるものです。
かれらは芸術作品を創造することよりは、芸術家らしき生活を身につけることに喜びを感じるひとです。

あまりの辛口さに度肝を抜かれ、この解説を読むときが一番本に没入していたくらいだ。こんなに言っていいの?オーバーキルでは?と心配になるくらいの辛口解説が、上記の抜粋分の倍量で続く。

こんなに滅茶苦茶にこき下ろして最後はどうやって解説を終えるのだろうといささか心配になるも、”明治日本における花袋のような善良な人間の存在は、自然主義文学の方向の決定や、近代文学の発展に少なからず寄与している”という風に、花袋の存在ありきの当時の日本であると結んでいた。恐らく、どこまでも客観的に俯瞰的に花袋を眺め、フラットに解説した結果がこれだったのだろう。

本の内容よりも解説パートに強烈な印象を受けたのは、この本が初めてである。なお、この本が発行されたのは1952年で、花袋が死去したのは1930年だ。ご機嫌な顔つきの彼が、この一刀両断解説を目にすることなく眠りについたのであれば、これは幸いである。

田山花袋/国立国会図書館より


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