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感想 チャタレイ夫人の恋人
ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」(木村政則訳)を読みました。感想を書こうと思います。
「チャタレイ夫人の恋人」と言えば、「チャタレイ裁判」が有名です。「チャタレイ裁判」というのは、「チャタレイ夫人の恋人」という作品には、性行為の描写が非常に多く、果たしてこれは芸術なのか、ポルノ作品なのか、という事が問われました。
ポルノまみれの今の世の中から過去の裁判を振り返ると、この程度がどうしていけないんだという感じですが、その当時には重要な問題だったようです。裁判は日本だけでなく、イギリスとアメリカでも行われました。
「チャタレイ裁判」自体は有名なので、文学を齧った人は知識としては知っている人は多いでしょう。ただ、「チャタレイ夫人の恋人」を通読した人はそれほど多くないと思います。
私は作品を読む前は、小説の中から猥褻な部分を削っても作品の大切な部分が削られる事にはならないだろう、と想像していました。文学作品とはそういうものではないと思っていたからです。
ですが、実際に読むと、「チャタレイ夫人の恋人」という作品の核心部分に、性行為の描写があります。これはロレンス自身の資質と絡んだ問題ですが、作品の構成はそうなっています。
裁判との関係としての私の感想は、「「チャタレイ夫人の恋人」はポルノであると同時に芸術作品である」という事になります。
これから書いていくつもりですが、正直に言って私は「チャタレイ夫人の恋人」にそれほど感心できませんでした。それは、作品内部に一つの大きな問題があるからです。また同時に、近代には優れた恋愛小説が多くあるので、それらの作品と比べると、(そこまででもないな)と思ってしまいました。
とはいえ、この作品が古典として評価される事には異議はありません。ただ、これから書いていく、作品の核心への批判については、文学そのものとは何であるかという事、また近代性はいかなるものへと変化していったかという事、また、私自身の個人的な課題とも関連があるので、この点を中心に、感想を書いていこうと思います。
※
あらすじからおさらいしてみましょう。あらすじそのものは簡単です。
主人公はコニーという若い女性です。彼女はイギリスの貴族のクリフォードと結婚しているのですが、クリフォードは戦争で下半身が傷ついて、車椅子状態です。
欲求不満に苛まれたコニーは、敷地内で森番をしているメラーズと結ばれます。二人はクリフォードに隠れて、情事を繰り返します。
作品の最後の方で、情事がクリフォードに露見します。クリフォードはショックを受けて、精神を崩壊させてしまいます。クリフォードは一方では、ボルトン夫人という敬愛する人物に子供のようになって甘え(どちらかと言えば「幼児プレイ」的なもの)、またもう一方では、炭鉱の仕事の指揮に精を出します。
情事が露見したコニーは、メラーズと自分は愛し合っているとクリフォードに告げて、離婚を迫ります。しかしクリフォードは首を縦に振らない。一方でメラーズも、以前に結婚していた相手がいて、そちらとも簡単には離婚できない、という状況です。
作品のラストではメラーズが森番を解雇されます。コニーは敷地を離れ、メラーズと共に社会を追われた状態になります。しかし、二人は一緒になる日を夢見て、今の間だけは少し距離を取ろう、というやり取りを手紙で交わします。それで作品は終わります。
※
さて、このあらすじでわかるのは、これは「愛」の物語だという事です。それもどちらかと言うと、現代の人が考えるような愛に近い愛です。
この作品を読んだ人には誰でもわかるようなはっきりとした特徴がこの作品には備わっています。それは比較的わかりやすい二項対立の形式が取られているという事です。そしてこの二項対立が、作者ロレンスの思想をそのままに現しています。
Amazonのレビュアーで「善悪の構図(私の言う二項対立)が単純すぎるのではないか」という疑念を書いている人がいました。私もこれには同感で、ここに作品の問題があると思います。
作品の二項対立の構図について、簡単にまとめてみましよう。
クリフォード 対 メラーズ
コニーの夫 コニーの愛人
貴族 森番(下層階級)
性的不能 性行為に自信あり
機械 自然
社会の階級を重んじる 階級を越えた愛
…ざっくりと書いていくとこんなかんじです。クリフォードの欄に「機械」というのがありますが、「チャタレイ夫人の恋人」では、現代の機械文明が執拗に批判されています。それは特にクリフォードがラジオを聞いているシーンに象徴されます。
イギリスの保守的な貴族であるクリフォードは性的不能であり、妻を性的に満足させられない存在です。彼の周りには常に暗い、淀んだ空気が流れています。彼は空っぽな権威主義者である事が作品を通じて示されます。
ロレンスは独自の二項対立を作品に採用しており、片方に批判的なものを寄せ集めています。それは、イギリスの保守性に対するネガティブなイメージと、クリフォードが機械が好きな事、その両者の合体です。ロレンスはクリフォードがラジオを聴いているシーンを象徴的に描いていますが、それはロレンスにとっては批判的な要素の融合なわけです。作中、他の場面でも、批判的なものはクリフォードに、肯定的なものはメラーズに集まっています。
そして、最も肯定されるのは、メラーズとコニーの性行為であって、その肉体的な抱擁によって、コニーは「新しい自分」を発見します。この、性行為を通じてコニーが新しい自分を見つけた、というのも、現代的な通念と一致する部分があります。
上記の表には女主人公のコニーは入っていませんが、コニーは、両者の間の存在だと作者はイメージしていたのでしょう。私の想像ですが、ロレンスはコニーという主人公を、クリフォードの位置から段々にメラーズの位置にずらしていく、そういう方向で作品の進行を考えていたのでしょう。
もしコニーを上記の表に書き入れるなら、左の端から右の端に移動していく点という事になります。その運動が、この作品の核に相当しています。
※
ロレンスの思想については伊藤整がうまくまとめてくれているので、それを引用しておきます。
「ロレンスの思想といえば、一口に「性の哲学」と集約することができようーー彼によれば「性とは、宇宙における男女の均衡である」べきで、四季の推移、地球との関連における太陽のリズムに従うもので、ここに両性の結婚の厳粛な意義があるとする。それは、接触によって、互いに生命を与え合うからで、そういう合一こそが性行為なので、二元性から一元性へと徐々として進んでいくところに、人間性のあらゆるもの、すなわち、子供とか、美とか、種々の作品とか、人間の真の創造物が発現する。このように、性は、神秘的な生命の行為を含んでおり、男女の生活は生と死の完全なリズムをたどる、永遠の更新であるという。」
(新潮文庫「チャタレイ夫人の恋人」の伊藤整の解説より)
この文章にはまだ続きはありますが、上記の文章を読めば、大体の雰囲気はわかると思います。
私は「チャタレイ夫人の恋人」より前に、彼の代表的な評論「アポカリプス論」を読んでいるので、ロレンスの思想についてはある程度わかります。
ロレンスの思想はニーチェの末子と言っていいものだと思います。直接的かはわかりませが、ニーチェの影響が見られます。
ニーチェは、キリスト教の反省的な性格を批判していました。初期の「悲劇の誕生」では、ニーチェは「ソクラテス的なもの」を「デュオニソス的なもの」と対立させています。ざっくり言うと、ソクラテス的なものというのは、キリスト教と繋がっており、それらは行為を制限し、反省的な、内省的な性格を持っている故に否定されます。
それに反してデュオニソス的なものは、キリスト教以前の古代的な祭儀、異教的な熱狂、熱情、行為、そういうものが代表されていて、デュオニソス的なものはニーチェの中では肯定されます。要するにソクラテス的なものや、キリスト教的なものによって押さえつけられた人間の生の本能を開放しよう、という立場です(こうした思想が表面的には現代の自己啓発と近い考え方なので、ニーチェは現代では色々と利用されています)。
ロレンスの思想はそれと明らかに類似していて、ロレンスもキリスト教的なものを批判し、それ以前の古代的・異教的なもの、その中にある熱情や、原始的な息吹、宇宙性というものを高く評価します。ただ、ニーチェとロレンスが違うのは、ニーチェは孤立した個人(超人)にその思想の究極を見出そうとしたのに対し、ロレンスは男女の結合にその究極を見ようとしたという事です。
私は「チャタレイ夫人の恋人」を読んでいて、(ロレンスという作家は、「恋愛体質のニーチェ」だな)と思いました。実際、ロレンスは現代で言う「恋愛体質」な人間で、女性が隣にいないと気が済まない人物だったそうです。
またロレンスは、イギリスのインテリにしては珍しく下層階級から台頭した人物であり、それ故か、イギリスの保守的な社会を強く批判しています。おそらく、ロレンスの性描写の過激さは、イギリスの偽善的な社会に対する当てつけの意味があったのでしょう。
※
先に「チャタレイ夫人の恋人」で称賛すべき点を挙げておきます。「チャタレイ夫人の恋人」の白眉はやはり性行為の描写にあたると思います。ここにはおそらくロレンス自身の経験も封入されているでしょう、迫真性があります。
そして、この迫真性とは、あくまでも近代性、近代的なものの延長だという事です。これをどう見るかが一つのポイントになります。
近代というのは、人間の中にある主体とか情熱とか、そういうものを開放させる方向を取りました。それが、資本主義と結びついて完全にシステム化されると、現代のようになるわけです。
ロレンスは否定するかもしれんが、私は「チャタレイ夫人の恋人」の作品の色々な部分が、現代的なものと繋がっているなと感じました。これはいい意味で言っているわけではありません。
称賛すべきポイントとして、コニーとメラーズの性行為の描写を私は挙げました。コニーは、ここで「新しい自分」、「今までと違う自分」を発見したわけですが、性行為によって、自分の今までとは違う側面が開示された、というのは現代の人が好みそうな言い回しではないでしょうか。
悪い例かもしれませんが、例えば、アダルトビデオでデビューした女優が「新しい自分を発見したくて」と、AVに応募した理由を語るのと、正直に言って私はそれほど大差ないと感じました。
もちろん、こうした描写に「宇宙との合一」であるとか「新しい自己の発見」といったものを見るのは可能でしょう。作者自身もそのつもりで書いているからこそ、この作品がただのポルノを越えている要素があるのだと思います。
ただ、問題は、そういうものがあったとしても、それはあくまでもコニーの内面において起こっている事でしかありません。他人からすれば、それはどうでもいい事であり、コニー本人にとっては大切な事かもしれませんが、それはメラーズとコニーという、恋愛に入り込んでいる二人以外はどうでもいい事です。
現実の恋愛でも、いちゃついているカップルが道を塞いでいたら、関係のない他人からは邪魔でしかないわけです。二人の内面としては極めて貴重な、宇宙的な時間かもしれませんが。
※
ここでの問題は、作者のロレンスが、クリフォード・コニー・メラーズという三角関係をうまく処理できていない事です。
クリフォードは作品の最後では精神を崩壊させます。クリフォードは幼児退行のような現象を示して、ボルトン夫人という世話をしてくれる女性に甘えるようになります。ただ、実務家としての彼はそれとは反比例するように、卓越した能力を示します。
現代に置き換えると、外では有能なエリートサラリーマンが、風俗に行くと好んで幼児プレイをする、というようなものです。クリフォードは見栄っ張りの貴族でしたが、そんな風になってしまいます。クリフォードがそうなったのは、妻が彼を裏切って、ショックを受けたからです。
作品のラストでは、情事が露見したコニーがクリフォードと対決するシーンがあります。コニーは毅然とクリフォードに離婚を要求します。それに反して、今まであれほど強い人間を気取っていたクリフォードはすっかり弱い存在になって、出て行こうとする妻にすがりつきます。
コニーは「メラーズとの愛の為」に、クリフォードに離婚して欲しいと要求します。クリフォードはそれを認めようとしません。既に愛されていないのがわかっていながらも、クリフォードはコニーを失いたくないのでした。
この箇所を読んで私は「コニーの身勝手さ」を感じました。
しかしおそらく、ロレンスはそういうつもりで書いているわけではないでしょう。コニーは崇高な「愛」の為に、お高く止まったクリフォードを捨てる。ロレンスは、クリフォードに同情されないように、クリフォードという人物を偽善的で空虚な人間として描いています。
確かに、クリフォードは偽善的で空虚な人間でしょう。また、こうした人物は当時のイギリスの貴族には沢山いたのでしょう。ですが、クリフォードが空虚な権威主義者だからといって、コニーは彼を裏切って傷つけてもいいという事になるのでしょうか。
それは「愛」という崇高な目的、コニーは新しい自分を性行為の果てに発見したという美しい理想を自らに持っているのですが、その理想の為に、クリフォードの精神を崩壊させてもいいのでしょうか。その事に、コニーもメラーズも何の反省もないのは何故でしょうか。
クリフォードとメラーズは正反対の人物として描かれています。メラーズは、作品の終盤では「自分は特別な人間だ」と言います。しかし、読んでいて私はメラーズのどのあたりが特別なのかよくわかりませんでした。
メラーズに特別さがあるとしたら、性行為がやたら上手(?)で、相手に新しい自分を発見させてやる、という事です。しかしそれはそんなに素晴らしい事なのでしょうか。
私はラストの、クリフォードとコニーの対決を読みつつ、コニーの身勝手さというのを強く感じました。ただ、作者はそう思って書いていないでしょう。むしろ、愛のために決然と一歩を踏み出す女性を描いているつもりだったのではないでしょうか。しかし、実際にはコニーの身勝手さ、愛のために他人を犠牲にするコニーの性格が私には印象的でした。
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結論から言えば、コニーとメラーズの行く末はもっと、悲劇的にすべきだったと思います。ロレンスが、コニーとメラーズのカップルに肩入れして、三人を平等に見られていないから、作品の構造がいびつになり、コニーとメラーズの身勝手さが印象付けられる事になってしまったと思います。
「チャタレイ夫人の恋人」と夏目漱石の「それから」を比較すると、これは非常にはっきりします。「それから」の主人公代助は親友の妻を奪うのですが、その為に、二人は社会から、家庭から完全に排除されます。代助は親友の妻・三千代との恋愛に、これまでにない幸福、自己の中の忘却していた「自然」を感じるのですが、その代償として二人は社会の日の目を二度と見られないようになってしまいました。
私はどう考えてもロレンスより漱石の方が優れた作家だと思います。漱石は三角関係の問題を徹底的に描いて、主体の内面に忠実である事は、社会の外面的な関係から疎外され、排除される、という事を徹底して描きました。
社会関係からの疎外の極限は「死」ですが、漱石はそこまで踏み込んで描いています。「こころ」の先生は自死します。
…一応、断っておきますが、私自身は、ロレンスの思想に近いというか、ロレンスの思想や感情には同情的です。私も権威主義者が嫌いですし、ロレンスがイギリスの保守的な貴族を嫌った理由は感覚的にわかる気がします。クリフォードのような人間は実際にいるでしょうし、私もクリフォードのような人間は嫌いです。作中に盛られた拝金主義批判とか、大衆批判も同感です。
しかしその事は私がロレンスを全面的に肯定する理由にはなりません。クリフォードの精神を崩壊させても、二人の恋愛が成就しなければならない、というのは小説の構造としてはおかしいと私は思います。これは、私の個人的な同情よりももう一段高い文学理論から見た結論です。
ですが、ロレンスには、三角関係を徹底して描けない事情がありました。三角関係を徹底して描けないとは、ロレンスがコニーとメラーズの二人に肩入れして、クリフォードについて描くのを蔑ろにしてしまっている点です。ここには、ロレンスの個人的な事情が左右していると思います。次はそれについて書く事にします。
※
光文社古典新訳文庫の解説にロレンスの人生がかいつまんで記されています。そこではロレンスが母に溺愛されていた事、恋愛体質でいつも恋愛していた事が書かれています。
ロレンスはフリーダという女性と結婚するのですが、フリーダは大学教授の妻で、子供が三人いました。ロレンスはフリーダを熱愛して、今で言う略奪愛の末に結婚します。
その後、ロレンスは死ぬまでフリーダと一緒でした。この経歴で分かる事は、ロレンスは、「チャタレイ夫人の恋人」の森番メラーズとコニーのように、不倫の末に結ばれるという恋愛を辿っていたという事です。
そうした経験を実際にしており、なおかつ、ロレンスはフリーダと死ぬまで別れなかったのですから、ロレンスがフリーダとの間柄を、第三者との関係を含めて冷徹に眺められなかったのは、私には当然だと思われます。
たまに「作家は経験した事しか書けない」みたいな事を言ったりする人がいますが、私は、その逆の場合もあると思います。つまり、経験したが故に、その経験に囚われてしまって、それについて冷徹に書けない、という事です。
同じ例は、日本の作家島尾敏雄にも見られます。島尾敏雄は自身に不倫の経験があります。不倫相手と別れた後に島尾は「死の棘」という小説を書きました。そこでは、彼の不倫経験が描かれています。
ですが、島尾もまたロレンスと同じように、三角関係を俯瞰的に見て、三者の関係を徹底的に描く事はできませんでした。島尾は「死の棘」で、妻と自分の二人をメインに描いていて、不倫相手についてはきちんと描く事ができなかった。彼は三角関係の二者しか描けませんでした。この事は、吉本隆明によって言及されています。
ただ、島尾の心情を考えればこれは当然でしょう。というのは、妻との関係は現在進行系で続いているのに、妻と不倫相手を等価のように描く事は、今続いている妻との関係をも破綻させる事になりかねません。たとえそれが文学的には必要だとしても、不倫された妻の方からは許せない事でしょう。
これは仕方ない事だと思いますし、島尾敏雄にそれを徹底して描けというのはあまりにも酷な話です。個人的生活という点から見れば、島尾敏雄やロレンスがした事は間違っていません。ただ、文学というものを徹底して考えるのであれば、やはりこの三角関係は徹底的に描かれなければならない。
ロレンスが、フリーダとロレンス自身を無意識的に肯定して、フリーダが結婚していた大学教授、その位置にあたる存在を悪いようにしか描けない、それは彼の生活を考えれば納得できます。島尾敏雄もまた同じです。しかしこれは文学的には問題だと思います。
逆に、三角関係を徹底して描いた漱石は、不倫をしませんでした。漱石は大塚楠緒子という既婚女性に密かに好意を抱いていた、というのが漱石研究ではよく取り上げられます。ただ、ここでは漱石が不倫をしなかったという事実の方が重要だと思います。漱石は不倫をしなかったからこそ、冷徹に、徹底して男女の三角関係を解剖できたのだと思います。
※
本来的にはコニーとメラーズの関係はもっと悲劇的な方向に持っていくべきでした。しかし、ロレンスがそうする事ができず、クリフォードを悪役にして、メラーズを正しい存在として描くというのは、作家としてのロレンスの視線が、彼自身の経験に囚われてしまった為だと私は考えます。
ロレンスがクリフォードを悪に描き、メラーズを善に描いたのは、ロレンスの作家としての未成熟故だと私は考えます。これは、別の観点からすれば、現代的な価値観が、既にロレンスを蝕んでいたという事ではないか、と思います。ロレンスは、作品内では現代社会を徹底的に批判していますが、その彼の脳中に現代の悪弊は密かに浸潤していました。
その悪弊とは、今、多くの人が行っているように「自分(達)」を善、正義とみなして、「相手」を敵とみなす二項対立です。正義と悪、味方と敵の、わかりやすい二項対立です。このイデオロギーの構造が既にロレンスの作品の中に忍び込んでいます。
「チャタレイ夫人の恋人」はそうした構造の下に書かれています。本来的には、クリフォードにも一人の人間としての尊厳を与えるべきでした。それができなかったのは、ロレンスが自分とフリーダとの恋愛を自己の中で無意識的に正当化していたからだと思います。本来、この作品はもっとはっきりした悲劇にすべきでした。
悲劇というものについての私の意見を言うならば、その根底には「人間は神ではない」という認識があったと思います。人間は、神のような完全さを持たない、それ故に、自己の限定された宿命を受け入れなければならない。そこに悲しい人間の人生が現れ、それを受け入れるところに人間の尊厳があった。
ですが、神なき世界がやってきて、人間だけの世界になると、神というものに付与していた絶対性を、人間に与えざるを得なくなった。そこで、「自分は正しく、相手は間違っている」という強烈なイデオロギーが現れた。
もちろん、このイデオロギーは神がいる世界においても現れていました。そういう世界においては「自分達の神は正しく、敵の信じている神は間違っている」という形で現れた。ですが、神を完全に失って、人間を絶対視する世界においては、人間の限界を描き出す視点というものが決定的に失われてしまった。
それ故に様々な形での自己弁護が現れ、自己正当化が現れた。というよりも、神を信じる事も自己正当化の一部に他ならないのですが、そうした自己正当化が現代になると、剥き出しの形で現れるようになった。
ロレンスは悲劇的な近代人として、性行為という儚いものに神の絶対性を付与しようとしています。ロレンスはその悲劇性をある程度は理解しています。ある程度は理解しているからこそ、「チャタレイ夫人の恋人」には古典になる価値はあるのでしょう。とはいえ、それは徹底されていないからこそ、現代の通俗作家や、現代の自己肯定の哲学と一致するものが出てきてしまっている。
近代の優れた小説においては、恋愛という主体の感情の高揚は必ず、悲劇的な終わり方をしています。
この悲劇性というのは、恋愛感情という欲望を、彼らを死に至らしめるまでに彼らを蝕んだ病とみなす、そうした批判だと見る事ができます。
恋愛という主体的な行為をやっているから、まわりが目に入らず、破滅にまで至ってしまうのだ。「マノン・レスコー」という名作恋愛小説はそういう視点で書かれています。これは、社会性を重視する点からの個人の批判です。
ただ、同じ事は裏側から見る事もできましょう。
コニーとメラーズとの愛のような、恋愛それ自体は、現代においても過去においても普通のカップルがやっている事で、私は特別な事だとは思いません。作品を読めばわかりますが、結局は二人はそれが「気持ちいい」からやっているに過ぎないのです。それは、動物的本能の延長でしかない。
動物的本能というのは、自らの生存を何よりの第一目的としています。現代の全てはこの動物本能の延長として作られているので、やたら金を貯めたり、生き延びたり、幸福になる事だけが素晴らしいとされているのです。
ですが、恋愛というものを悲劇的な、破滅的な物語構造にして、更にその渦中にあるキャラクターにその事を自覚させる。すると、どういう効果が生まれるでしょうか。一つには彼らは死に至るまで、つまり自己を否定するまでに自己の中の感情を高め、それを実行した、そうした心理と行動が生まれてくる。
これは、恋愛というような、本能に根ざした行動が、いわば近代が否定した宗教における「殉教」のような意味を持つ、という事です。
殉教とは、自らの中にあるより高い存在の為に、自己の生存本能並びに、その源である自己自身を殺す事です。私は人間が人間である所以は、理性によって自らの欲望を否定できる事にあると考えています。これは大脳新皮質が他の種よりも発達した人間だからこそできる事なのでしょう。
恋愛感情そのものは動物本能の延長ですが、この行為を、彼らを死に至らしめるまで主体的に貫く事は、かえって、恋愛の根底にある自らの生、生の欲動を否定する事になる。
しかし、「それでも」恋愛を実行する事に、近代の偉大な恋愛小説の本質はあったのではないでしょうか。そしてこの事は、近代が否定していた殉教的な宗教性、崇高さをこれらの作品に付与する事になった。
つまり、近代の偉大な恋愛小説というのは、恋愛を否定する要素と、恋愛を肯定する要素が融和していた。そしてそれは何よりも「悲劇」という構造を取らなければならなかった。また、この構造を取る事により、人間というもの存在が、多面的な形で読者に理解できるように現れた。そのように私は考えます。
そうした視点から振り返った時、「チャタレイ夫人の恋人」は作者の自己弁護の要素が強く、それ故に三角関係はいびつとなり、コニーとメラーズの二人を肯定的に、捨てられたクリフォードを否定的に描く事になった。
偉大な恋愛小説においては統合されていた肯定と否定の要素が、この作品においては分割されてしまっている。作品内において分裂してしまっている。
その帰結として、本来はもっと悲劇的に終わらなければならないメラーズとコニーの関係が、それなりに落ち着いた終わり方になってしまっている。私はこれは、文学作品としては大きな欠点だと考えます。
※
以上に挙げた点が私の「チャタレイ夫人の恋人」への批判です。この欠点は重大な問題だと私は考えます。
それと、作品を最後まで通読すると、結局、この三人は、それぞれ自分の事しか考えて生きていないのがわかります。コニーとメラーズは互いに愛し合い、その愛は崇高なものとされますが、それは現代の我々が恋愛というのをやたら素晴らしいものと考えるのとそれほど違わない。
要するに、実際にはそれぞれのエゴイズムが互いに共鳴しているに過ぎないのに、そうした感情や行為が、互いが互いを想っているという利他性に偽装されるのです。
実際、コニーにはそういうシーンがあります。そのシーンを露骨に描写する事はできませんが、作品序盤で、最初の愛人、ミケイリスと愛し合う場面がそれです。コニーはミケイリスとの行為に満足せず、一人で心地よくなろうとします。
コニーとミケイリスとの関係は、作者は、メラーズという理想の愛人と出会う一つ手前の踏み石のような関係として描き出しています。
ミケイリスはコニーの理想に見合わない人物として出てきます。しかし、本当にコニーはそんなに立派な理想を持っているのでしょうか。また、コニーの理想への跳躍は、彼女が密かに蔑んでいるミケイリスのエゴイズムと大きく違うものでしょうか。
こうした点を徹底的に解明したのが、ドストエフスキーだと思います。ドストエフスキーは自らの理想が実は他者のエゴイズムと同じだとある地点で気がつきました。そのあたりは、ルネ・ジラールの評論や、ドストエフスキー研究者の萩原俊治氏が論じています。
今まで書いてきたような点で、私はロレンスという作家には問題があると思います。作品そのものはもっと悲劇的な終わり方にすべきだったと思います。
ただ、ロレンスの「アポカリプス論」という評論は非常に面白かったです。ロレンスはどっちかと言うと、小説よりも評論の方が向いていたのかもしれません。評論においては思想の二項対立は、どちらかと言えば、作者の思想を伝える上では強みになります。
ですが、小説というのは二項対立を止揚し、それ自体が矛盾であるような形で描く事ができるのであり、その単一性の中に、読者はそれぞれの要求に応じて、自らの望む側面を作品から引き出してくる。それこそが作品内部に仕込まれた多様性というものなのでしょう。
そういう意味ではロレンスの思想の明快さは、小説表現においてはマイナスになったように思います。いや、それ以前に、ロレンス自身のフリーダとの恋愛から既に、ロレンスの作品の問題が始まっていたのでしょう。
もっともこう書きながらも、私自身も小説よりも評論の方が向いている人物な気がします。思想によって世界を二分し、自らを正しい立場に置くという現代的な病が、私の中にも浸透しています。その事実を、今この文章を読んでいる読者は、私がこれまで書いてきた文章がまさにそういう構造になっていると容易く発見するでしょう。
ロレンスが抱えていた問題は、今を生きる我々自身の問題なのだと思います。そしてこの問題は人間が人間を絶対化するところから始まったのではないか。自我というものに対する信仰が、自我の内容がどれほど高級だろうと、低級だろうと、その構造自体が根源的には、文学という領域で問題となってきます。
私はそういう意味で「チャタレイ夫人の恋人」という作品に不満を持ちました。またそれは、私自身の問題でもあるだろう、という気がしています。
「チャタレイ夫人の恋人」という作品には明確な問題があります。私はこの点を、「「チャタレイ夫人の恋人」は名作だ」という形式的な物言いで終わらせるべきではないと感じたので、このような文章を書きました。
「チャタレイ夫人の恋人」の感想はこれで終わりたいと思います。
(この文章内では、「チャタレイ夫人の恋人」の「欠点」である二項対立を私は「現代的なもの」と言いましたが、ルネ・ジラールはそれをロマン主義的なものと呼んでいます。私自身は現代人なので、現代に引きつけて読みましたが、歴史的に見ればジラールの方が正しいかもしれません。)