人間は必然性という役割に生きることを欲する——福田恆存『人間・この劇的なるもの』を読む
福田恆存(ふくだ つねあり、1912 - 1994)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。日本芸術院会員。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事などを務めた。福田恆存に関する過去記事も参照のこと(『福田恆存:人間は弱い』に関する記事、『人間とは何か』に関する記事)。
冒頭の引用は『人間・この劇的なるもの』からの引用である。1956年(昭和31年)に書かれた芸術・演劇論から人間論にまで及ぶエッセイである。
福田の多彩な活動を貫いていた柱があるとすれば、それは「劇」という観念であり、また「演戯」という観念であった。1950年に書かれた『芸術とは何か』においても、この『人間・この劇的なるもの』においても、人間とは何か、芸術とは何かといったテーマが「演戯」あるいは「劇」という観念を中心に探求されている。
例えば「自然のままに生きる」と人々はいうが、この言葉は誤解されていると福田はいう。もともと人間は自然のままに生きることを欲してはいないし、それに堪えられもしない。誰でも、何かの役割を演じたがっているというのである。私たちは実際に役を演じている。日々の生活、人生の営みとは役割を演じることである。
また「自由」についても同じことである。私たちが真に求めているものは自由ではない、と福田は主張する。私たちが求めているのは必然性、つまり事が起こるべくして起こっているということである。そして、その中に登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感である。なんでもできるような自由の状態を私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を演じなければ、時間が停滞してしまう。そのような責任を伴うような必然性の実感である。生きがいとは、この必然性のうちに生きているという実感から生じる、と福田はいう。
福田は、漠然とした「自由」や、いたずらに主観的な「個性」という自負などは何ももたらさないという。大事なのは、自分の役割をはっきりと選びとることであり、これを意識的に演じきることである。福田のいう「必然性のうちに生きる」というのは、現実そのままに容認や、現状維持のことではない。福田がいう「自分の役割を演じる」ということは、もっと能動的な意味を持っている。福田は「現実拒否と自我確立のための運動」ということも主張する。役割を選びとり、演じきるのは、何よりも意思の作業にほかならない。「ひとつの必然を生きようという烈しい意思」が重要だと福田はいう。
この「生きようという意思」が、そのまま演戯へとつながり、演戯への意思となる。人間はたんに生きることを欲しているのではない。生きると同時に、それを「味わう」ことも欲している。つよく「必然性」で貫かれた生、劇的な生を生きると同時に味わうこと、これが人間の根元的な欲望なのだ、と福田は言い切る。現実の生活と同時に、それと次元を異にした「意識の生活」が成り立つ。これをぬきにしては、人間にとっての幸福は成立しえないのである。
舞台の上の役者はある種の二重性に生きている。すでに台詞が決められており、すでに決められた結末へ向けて演じるという必然性のもとにありながら、その瞬間瞬間ごとに他者が初めて目の前に現象しているかのように振る舞うという二重性である。必然性と制約のもとにありながら、彼には能動的に振る舞うことが求められている。これは現実の人間でも同じことである、と福田はいう。私たちはある種の二重性に生きている。自分に与えられた役割(必然性・制約)の中にありながらも、それを積極的に選びとり、演じきるという二重性である。その二重性においてこそ、私たちは生きがいを得ることができる、と福田はいうのである。