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「黙示録」に存在の矛盾と両義性をみたロレンス——D・H・ロレンス『黙示録論』を読む

なぜなら、黙示録とは、これを最後にことわっておくが、人間のうちにある不滅の権力意志とその聖化、その決定的勝利の黙示にほかならないからだ。たとえいまは殉教の業苦を忍ばねばならないとしても、そして、この目的実現のためには全世界が壊滅されねばならぬとしても、おお、クリスト教徒たちよ、なんの怖れることがあろう、君たちだけは王者としてこの世を統べ治らし、かつての暴君たちの首根っこを土足にかけることも出来るというものだ!
これが黙示録の御託宣である。
そしてイエスが己れの弟子のうちにイスカリオテのユダをもたねばならぬ宿命にあったように、新約のうちに黙示録一篇の紛れこむこともまた不可避の運命であった。
なぜか?それは人間の本性がそれを要求しているからだ、これこそいつの世にも変ることなき念願でなくしてなんであろう。

D・H・ロレンス『黙示録論』福田恆存訳, 筑摩書房, 2004. p.47-48.

デーヴィッド・ハーバート・リチャーズ・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence, 1885 - 1930)は、イギリスの小説家・詩人・評論家。ノッティンガムシャー出身。1908年にノッティンガム大学を卒業した後、小学校の教員となり、1911年に小説を出版。1912年から1914年にかけてドイツに渡り、1914年イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い『黙示録論』(1930年)はロレンス最後の作品である。

本書『黙示録論』には巻頭に批評家・福田恆存の「ロレンスの黙示録論について」が収載されている。福田は若き頃、ロレンスの『黙示録論』を「聖書」のように読んだという。

ロレンス畢竟の論考にして20世紀の名著とされる『黙示録論』であるが、それは新約聖書の最後にある「ヨハネの黙示録」について、ロレンスが彼の文学的人生のいわば総決算として書いたものである。
「黙示録」は抑圧が生んだ、歪んだ自尊と復讐の書であるとロレンスは語る。それは長きにわたり抑圧を受けたユダヤ民族の情念が、キリスト教徒の思想にも入り込んだものである。それは「救済」されるという預言が決して成就することのない「弱者」の引き裂かれた欲望の反映である。自らを不当に迫害されていると考える「弱者」の、歪曲された優越思想と劣等感とを示す黙示録は、西欧世界で長く人々の支配欲と権力欲を支えてきたとロレンスはいう。

また人には、純粋な愛を求める個人的側面のほかに、つねに支配し支配される欲望を秘めた集団的側面があり、黙示録は、愛を説く新約聖書に密かに忍び込んでその両義的欲望を反映したものである、とロレンスは言う。
福田の解説によると、「黙示文学」というものは蹉跌と救済、絶望と信仰の両極性の場に生じたものであった。ロレンスの内的世界が、愛と憎悪の両極性、反合理・反近代の「悲調」と異教的古代への憧憬的な傾斜の両極性のあいだで、危うくも均衡を回復しうるのかいなかという緊張をあらわしていたことを読み取ることができると、福田はいう。

ロレンスが人生ほとんど最後の時点に立って「黙示録」を取り上げたのはなぜだろうか。それは、「黙示録」の中で、彼の精神をもっとも強く、少年の頃から持続的に刺激しつづけてきた種々の特性や要素、つまり、「存在の矛盾や両義性」がくりかえし黙示録のなかで炸裂していたからだったと思われる。

ロレンスを悩まし続けた「存在の矛盾/両義性」とは何か。人間は肉体と精神からなっている。本能と意識、環境と教育からなっている。この意味でロレンスは環境と教育の結果として、キリスト教が彼の意識と精神に入り込み、身についてしまっていた。その身についたもの、というよりすでに己れの本質の一部分にさえなったものをかくも激しく嫌悪し、批判もしなければならなかったのがロレンスである。それを彼は、以下のように表現している。

「おそらく、聖書中もっとも嫌悪すべき篇はなにかといえば、一応、それこそ黙示録であると断じてさしつかえあるまい」

ロレンスにとって「黙示録」の本質は何であったのか。ロレンスは黙示録の著者を、使徒ヨハネとは別の「パトモスのヨハネ」であったに違いないと推測する。それほどに「ヨハネの黙示録」は異様なのである。そしてロレンスは「黙示録」の中に、人間の両義性を見い出す。それは「強きイエス」と「弱者パトモスのヨハネ」の両極性であり、また「個としての人間」と「集団としての人間」の両義性である。

人間のうちには孤独と諦念と自意識にふける純粋な個人的な側面と、他人を支配し、あるいは英雄に臣従しようとする集団的側面の二つがある。ところがイエスはつねに個人であったし、純粋なる個人にとどまっていた。これに対して、現実の人間は純粋な個人にとどまることはできない。社会や国家の中で生きていくときに集団的側面が必ず現れる。それを表現しているのが「黙示録」なのだ、とロレンスは言う。

福田恆存は次のように問う。ロレンスが私たちに提出した問いは何か。それは「現代人ははたして他者を愛しうるか、個人と個人とはいかにして結びつきえようか」という問いである。そしてロレンスの答えは「個人はついに愛することができぬ」というものであった、と。しかし、異教の壮大を歌い、近代の卑小を嫌忌するロレンスの声のうちにも、いつのまにか近代の嘆きがかよい、キリスト教の愛の思想が忍び込んでくる、と福田は言う。ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』の終末において到達した救いは、もはや激しい情熱ではなく、キリスト教的な「あたたかい心」「やさしい心」であったのである。



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