
INFJと”悪”
1.始めに
INFJは基本的に消極的で受動的な傾向が強い人が多いのではないでしょうか。そのようなINFJが積極性や能動性を身に着け、人間としての完成を目指して進んでいくためには、生において不可避な”悪”を、言い換えると加害性を引き受けなければなりません。
以下では人間が生きていくということに付きまとう”悪”を如何にして受け入れるのかを考えていきます。
2.自己利益は”悪”か?
INFJは一般的に理想主義者で共感性が高く、深い洞察力を持ち、高い目標を持つ(達成できるかは問わない)などの特徴を持つとされています。また、周りを良くしたい、社会を良くしたいと考えているとも言われます。このような特徴からINFJはおそらく、欲望や情欲、競争、損得勘定、自己主張、自己肯定感、無根拠な自信、利己心、自己利益といったものを”悪い”ものだと考えている傾向にある人がいると思います。少なくとも、”善い”ものだと肯定的に捉えている人はあまり多くないでしょう。大半のINFJは以上のようなものに何かしらの恥じらいや後ろめたさを感じやすいのではないでしょうか。
しかし、実際の生活の中でそういった自己や他者のエゴイズムを見て見ぬ振りをするのは難しいでしょう。もしそれらから目を背けるのならば、不遇な扱いを受ける又は間もなくニヒリズムに陥ることでしょう。実際にそれで損をしているINFJは多いのではないかと思います。色々なことを考えた結果、結局何もしないことが最も”善い”ことなのではないかと思われるかもしれません。
以上のような結論に至ったならばもはや人生においてやることなど何もなく、そもそも自己が存在していること自体が加害性を持ち、”悪”であるため、もはやこの世から去るしか選択肢がなくなります。その勇気があるかどうかは別ではありますが。
しかし、そのようなことを実行する度胸などINFJにあるはずもなく、自己に対する"悪"感情に苛まれつつも、図太く生きてしまっていることでしょう。そうなればその矛盾を解決するためには自己や他者のエゴイズムを肯定するしかなくなります。此処に来てようやく人間の持つエゴイズムに目を向ける準備が整い始めたと言えるでしょう。エゴイズムについては以下の動画が参考になります。
3.人間本性の”悪”
現象学的な見方でもって、つまり現象学的に人間一般のエゴイズムについて内省してみると、”善悪”という”価値”は内的意識における構成物ー「ノエマ」ー「超越」として既に与えられていることがわかります。
さらに内省を進めると、与えられる感覚与件が異なれば、構成されるその”善悪”という”価値”もまた異なったものになることがわかります。
つまり、”善悪”という”価値”には普遍的な基準はなく、その人の価値観や環境から与えられる感覚与件によって相対的にならざるを得ないわけです。
しかし、そうであるならばそれを相対的なままで処理することは難しいでしょう。ある人のエゴイズムは”善”で、ある人のエゴイズムは”悪”であるとした場合、それは自分の内的なものに過ぎず、相対的なものであると思うとき、とんでもない迷路に迷い込んでしまったような感覚に陥ります。そうなると、”善悪”というものは結局、力と数の勝負になるほかにありません。強者こそが”善”であり、弱者は”悪”であると。”善悪”の”価値”などというものは馬鹿馬鹿しいものと考えられるようになります。
が、人間はそれで納得できるでしょうか?それが”現実”だといって納得させようとして、本当に完全にそれを遂行することができるでしょうか?
それを止揚するためには人間のエゴイズムが総じて全て”善”であるとするか、そうでなくては”悪”であるとするかのどちらかが必要でしょう。つまり絶対性を持ち出す必要があります。そのどちらを選択するのかは主観によりますが、ここではキリスト教という先人の教えを参考にすることにします。
キリスト教において人間のエゴイズムは全て”悪”であると見做されました。何故なら、人間は「原罪」を背負っており、その本質として”悪”であるからです。ここにおいて全ての人間の存在が”悪”であると考えられました。人間本性の”悪”としての「原罪」という概念については以下の記事をご覧ください。また、福田恆存先生から引用します。
私は天を信じます。その意味で私は理想主義者です。だから天の裁きといふのは必ずあると思ってゐます。さういふことを信じなければ人間はやりきれません。何をするにもこの世で勝負をつけなければならないとあつては、もうかなひません。生きることを止めるだけです。
4.エゴイズムの引き受け
キリスト教において全ての人間が”悪”とされたことは何を意味するのでしょうか。それは自己の生がそれ固有の理由で否定されるのではなく、人類全体の生が否定されることで返って、自己の生の、また人類の生の”悪”が容認されるということです。つまり、人類が皆”悪人”であるので自己が持つ”悪”も仕方ないとされることです。人間が総じて”悪”であるならば、自己もまた”悪”であるより他になく、人類の持つ「原罪」に絶望して自死を選択するのでなければもはやそれを受け入れるしかないということです。このように考えることを欲することもまた「原罪」に由来すると言えます。ヘーゲル的に言えば、自己の対象化・外化された人間本性としての”悪”を止揚することによって再びそれを自己の内に回帰させるというような弁証法的な解釈ができます。そして、それを受け入れるということは人間のエゴイズムを引き受けるということになります。
5.「行動する良心」
「原罪」という概念の元でエゴイズムを引き受けるに至りようやく人間は自らの行動を正当化し得るようになります。自らの行動がつまり加害が如何なる結果を齎したとしても、その行動は”人類悪”というものへと還元されるという安心感を、つまり、免罪符を大義名分を手に入れたことで人間は加害性を引き受け、積極的、能動的な活動を志向するようになるのではないでしょうか。
誤解される可能性があるので説明しますが、ここで主張しようとしていることは世間一般で犯罪とされる行為を肯定しているわけではありません。人間の放縦を認めているのではなく、飽くまでも自らの些細な言動に対して反省を加えた結果、自己嫌悪や自己否定に陥ってしまいがちな傾向を緩和することを目的としています。
ここまで来たとき、エゴイズムを”悪”と見做していたINFJは認識を改めざるを得なくなり、止揚されます。自己の一挙手一投足の”加害性”、”攻撃性”を過剰に気にするあまり、消極的、受動的に留まらざるを得なかったINFJは行動によって自らの”善”を吟味する場へと開かれることになります。人間の行動が100%の”善”性をもって現れることが不可能であることを、つまり”偽善”であることを引き受けた上で他者からの承認を求めて行動することをヘーゲルは「行動する良心」と表現しています。
おそらく世の中の個人性は、自分だけで、つまり利己的に行動するにすぎない、と思い込んでいるかもしれないが、個人性は、自ら思い込んでいるよりは、善いものであり、その行為は、同時に自体存在的な一般的な行為である。
5.終わりに
ヘーゲルは『精神現象学』中で自らの”偽善”を意識した上で行動するという「行動する良心」と自らの行動の普遍性について疑念を持つ「批評する良心」とが止揚されることで「絶対精神」の本質としての「相互承認」が実現すると考えました。人間がその加害性を引き受けた上で他者と繋がろうと行動することはたとえそれが”偽善”であったとしても人間を理解しようと努力することであり、それが互いを傷つけ合うことになったとしても、その先に人と繋がることの喜びがあるのではないでしょうか。少なくともそれを信じるしかないのではないでしょうか。最後に福田恆存先生の言葉を引用します。
だから私は、よく国家悪や組織悪などについて反対する運動を見ていていつも思うのは、われわれにそれをいうだけの人間が出来ているかということです。どこにだってそんな人間がいる筈がない、しかしそれにも拘らず戦うという自覚、そういう自覚があればいいのです。そうであればいいのだが、大ていの場合は自分は善であって、自分はとても人殺しなんかしないというような顔をしている、そういうことが、私にとっては実に不愉快だし、そこにはなにかとんでもない間違いがあると思うのです。そうでないためには今言ったようにつねに絶対的な悪、人間は悪なしでは生きられないという問題をいつも見つめている必要があると思うのです。