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空港

 私は空港職員をしている。年齢は56才だ。  私が空港職員を志すきっかけになったのは、二十代の頃、当時付き合っていた彼と一緒に行った海外旅行だった。もっとも、私の旅行は、旅立ちの空港でほとんど終わっていたと言った方がいいだろう。  私達は空港に行った。私は空港で、夕日を見た。大きな通路を歩いている時、滑走路の向こうで輝く夕日を見た。つまらない事に思われるかもしれないが、私はその風景にひどく感動した。彼は、じっと夕日を見つめている私に「何してるんだ、急がないと」と言った。私

    • 何故、文学作品の主人公の多くが異常者や犯罪者なのか 〈聖者と犯罪者〉

       タイトルにした問題というのは、私の中ではずっと疑問だった。それが、一つ前のエッセイ「愛と罪との関係」を書いた事で、はっきりとわかった。    正直言うと、私の中では小さなコペルニクス的転回が起こったような感じで(ああ、そうか。それでか)と腑に落ちたわけだが、腑に落ちるという感覚はなかなかに人に伝えにくいに違いない。    タイトルに書いたような問題というのは私の中ではずっと疑問だった。何故、偉大な文学作品の主人公は大抵は異常者か犯罪者なのか。これはずっと考えていた事だ。  

      • 愛と罪との関係 ~人気のある東野篤子と人気のないショーペンハウアー~

             自分は坂口安吾を読みだしたのは遅かった。太宰治を坂口安吾の上位互換と勝手に思っていたので、安吾は読まなくていいと考えていた。実際読むと太宰とはまた違って面白い。自分は坂口安吾のエッセイが好きだ。    それで、坂口安吾のエッセイをぱらぱら見ていたら、阿部定について書いたものがあった。阿部定というのは「阿部定事件」というのがあって、衝撃的な事件なので有名だ。これは阿部定という女性が、恋人の男と性交中に相手を殺してしまい(そういうプレイの最中だったらしい)、男の性器を切

        • つまらないと思うテレビ番組について語ってみる

           今回はゆる雑談です。テレビについて話します。    私は普段、諸事情でテレビ番組が目に入る生活をしています。家にテレビはないんですが、さる事情のおかげでテレビ番組を見る事ができています。ありがたいですね。    テレビのひどさについては言わずもがなという感じですが、まあとにかくひどいです。ダントツでひどいのは日テレで、今だったらホリエモンなんかが日テレ買収しようとしても、そんなに反対がおこらないんじゃないかなと思います。    若い人は知らないでしょうが、昔、ホリエモンがフ

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          東野篤子と小学生の私

           東野篤子という学者を知ったのは暇空茜という人について調べていた時で、暇空茜が東野篤子にいきなりネットで突っかかった、という情報を先に知った。    それで東野篤子という人が、今のウクライナーロシアとの戦争においてウクライナ側に立っており、その関係で名が売れた学者だとわかった。その時はそれ以上調べる気もなく、(ふーん、そういう人がいるんだ)で終わった。    その後、與那覇潤氏の文章を読んで、東野篤子という人が「ファンネル使い」の一人だとわかった。「ファンネル」というのはガン

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          自らの声として他者を聞く (フランク・ターナー・ホロン 「四月の痛み」)

           図書館でこの本を手に取った時、私はすぐに(ああ、これは文学だ)と思った。そして著者が何が言いたいか、何を言わんとしているか、手に取るようにわかった気がした。    その後、私はこの本をアマゾンのほしいものリストに放り込んでおいた。新品はもう販売しておらず、売っているのは中古だけ。値段が高騰としていたので買う気にもなれなかった。安くなったタイミングで私は買った。今は値段は上がっている。    例えば、ある本を読んで、あるいはある音楽を聴いて(ああ、これは自分の事だ)と思う事は

          自らの声として他者を聞く (フランク・ターナー・ホロン 「四月の痛み」)

          北村紗衣は"批評家”ではない

           北村紗衣の批判の続編を書こうかと思ったが、年間読書人さんの「北村紗衣 『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』 : シェイクスピアの研究書ではない。」を読んで気持ちが変わった。    というのは年間読書人さんの論考は「北村紗衣批判の決定版」と言ってもいいもので、権威主義者・北村紗衣のおそらくは一番の拠り所の「シェイクスピア研究者」という肩書の芯の部分を真っ向から否定しているからだ。    もっと言えば、年間読書人さんの批判は、北村紗衣という人物にとってはあまりにも贅沢な批判と

          北村紗衣は"批評家”ではない

          対自性について2

               私は優れた文学者にも哲学者にもなれなかったが、考えるという事は続けている。最近は本もあまり読んでいないが、考えている事について少しだけ文章を書いておこう。    私は「対自性」という事を重視している。これは「自己と対峙する」という意味であり、この対峙は、自己と自己との葛藤として近現代人には現れる。    この対自性というのは、自己意識というものの複雑な形態、その本質であって、本来は誰にも存在するはずのものだが、今の大衆社会はこれを無に帰そうとしている。また、それ故に

          対自性について2

          北村紗衣の問題点

           前回、「"現象"としての北村紗衣」という文章を書きましたが、長いし、哲学的すぎるし、わかりにくく、全部読まなかった人も多くいるだろうと思います。今回はもっとわかりやすく簡潔に描きます。    言いたい事は北村紗衣のどのあたりが問題か、という事ですが、前もって言っておくと、私は北村紗衣という個人をすべて否定する気はありません。ただ、私が問題だと思う点を抽出するだけです。    例えば、北村紗衣の友人からすれば、北村紗衣にはもっと良いところがある、あなたの批判は言いすぎだ、とい

          北村紗衣の問題点

          "現象"としての北村紗衣

             目下、年間読書人さんが闘争中の北村紗衣について文章を書こうと思います。北村紗衣は批評家という肩書になっていますが、私は北村紗衣という人を批評家とは思っていません。今流行りのインフルエンサーと呼んだ方が正当だと感じます。    さて、北村紗衣について文章を書き始めましたが、困った事に、この人物は自分に対する批判を弾圧する事で知られています。「弾圧」と呼ぶのはアンチの言いがかりだ!と怒る人もいるでしょうし、それでは何と言えばいいでしょうか。誹謗中傷に対する正当な力の行使、と

          "現象"としての北村紗衣

          祖母の俳句を読む

           母親が祖母の作った俳句を送ってきました。祖母は既に亡くなっています。    私の祖母への印象は「田舎の口やかましいお婆さん」というもので、実際に、それ以上の人ではありませんでした。祖母は田舎の人らしく迷信が好きで、とても知的とは言い難い人でした。要するに、ごく普通の人でした。    そんなわけで、祖母の作った俳句に良いものがあるなんて、私は全く予期していませんでした。しかし、母が送ってくれたコピー用紙の上の俳句の中にはいいものがいくつかあって驚きました。私の事前の祖母への印

          祖母の俳句を読む

          溶景

           夏は過ぎ去り ほのかに風が  木々を揺らす 肌は   微かな熱を感じていた  自転車に乗る小学生達はいずこへ行くとも言わずいずこかへ行き  我が眼は下方の蟻をじっと眺めていた  ああ、この脳髄はあらゆるものを眺めて決断しようとする  しかし風景はそれ自体一つの景物として存在し  そしてこの無痛の脳髄もまた  秋の風の中にしとやかに溶けていった…

          時矢

           夏の真昼時 僕は  麒麟淡麗を喉に流し込んでいた  年は古代の頃の老齢に近づいていたが  精神は未だ幼児のままだった  未だ遥か遠く小学生の頃の夏休みを生きている途中  孤独を共に一人酒を飲む  経済と戦争が空中戦をしている間  土中の土偶は一人酒を飲む  ああ、何もない人生だった  それでも「時」だけが我が身を貫いていった

          中庸について(+お知らせ)

             孔子は、狂狷よりも中庸の方が大切だと考えていた。狂狷とは情熱に憑かれて、一途に努力したり、何らかの理想に向かっていく人物の事だ。中庸はそうした「狂」に囚われず、極端に走らずに自己を治めているような人物の事だ。    ネットで見つけたその部分の訳を下に引用しておく。「論語普及会」というサイトのものだ。    「中庸の道を歩む者と行動を共にしたいと思うが、それができないのであれば、せめて狂狷の者と行動を共にしたい。狂者は高い目標に向かってまっしぐらに進もうとする者であり、狷

          中庸について(+お知らせ)

          ポリコレと芸術が相性が悪い理由

           最近、「ポリコレ」という言葉がよく使われる。これは「ポリティカル・コレクトネス」を省略したもので、ウィキペディアには「人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や用語を使用すること」と説明されている。    要するにグローバル社会に対応した、誰も傷つかないような表現を目指すというものだろう。化粧品のCMで、意図的に白人、アジア系、黒人といったいくつかの人種が入っているのをよく見る。    一方で過剰なポリコレを気にしすぎて、表現が不自由になってい

          ポリコレと芸術が相性が悪い理由

          全てが無常なら、瞬間は永遠になるのか

           ドストエフスキー『地下室の手記』にリーザという娼婦が出てくる。当時のロシアの娼婦というのは、今の「風俗嬢」とは全く違い、地位が低く、悲惨な人生の人たちだった。    リーザは、自分を買った客である主人公の男に、自慢をしたくて、ある手紙を見せる。それは彼女に思いを寄せる学生からのラブレターだ。    彼女が主人公に手紙を見せたがったのは、自分は今はこんな風に落ちぶれた身分だが、かつては決してそうではなかったと証明する為だ。彼女はかつては、きちんとした身分のきちんとした男性に恋

          全てが無常なら、瞬間は永遠になるのか