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死んだミューズ

 福田恆存の「批評の悲運」というエッセイにこんな文章がある。
 
 「もし近代日本の作家たちのうちに美を探ろうとするなら、それはミューズへの情熱そのものの美しさ以外にありはしない。」
 
 福田はこの文章に続けて、近代日本の作家の作品それ自体は美ではなかったが、少なくとも美への渇仰はあった、と説明している。
 
 私は福田の文章を読んで、嘆息せざるを得ない。2024年の日本という国で「ミューズ」なんて言葉を言えば、誰でも失笑するだろう。まあせいぜい石鹸の商品名として思い当たる程度のものだろう。
 
 ※
 noteというサイトで「九段理江さん外伝「小説家には99.9%の人がなれない」」というエッセイを読んだ。
 
 エッセイの中身は「小説家になりたいけど、なるのは難しいよね」といった程度のものだ。どうやらこのエッセイの書き手の言う「小説家」とはプロの商業作家の事を指しているらしい。
 
 しかしそれなら生前無名で、死後に有名になった作家は生前は「小説家」ではなかったという事になる。彼は死後に急に「小説家」になったのだろうか?
 
 何を言っているんだろうな、としか私には思われない。小説家になりたければ勝手になればいいし、書きたければ勝手に書けばいい。それが世に認められるかはまた別の話だ。そして小説家とは、自分が小説家だと決めて書き始めた瞬間、小説家になる。それだけだ。
 
 しかしまあ、そういう事もどうでもいい。勝手にやればいいし、やらなくても、どうでもいい。
 
 ただ私が思ったのは、こういう人達にとって見えている小説家への道とは、「編集者」や「出版社」、「読者」といった極めて世俗的で、平明なもので固められていて、そこには「ミューズ」など一切入る余地がないという事だ。
 
 他にもnoteというサイトで、元編集者の文章を読んだが、それこそ「美神」や「ミューズ」などと言えば笑われてしまうだろう、といった風だった。
 
 今はこうした人達の天下だし、私も真正面から批判したいという気持ちは湧かない。巨大な岩石に卵をぶつけて、だからどうなのだ、と思ってしまう。
 
 ただ私は過去を振り返り、昔の作家がミューズだとか美とかいうものを本気で信じていて、金は濫費する一方で、肺結核になったり、あるいは、貧乏、酒、女、病気にうんざりして首を吊ってみたり…そういう彼らが何か遠い存在に思える。
 
 彼らは一様にロマンティストだったわけだが、ロマンティストが厳しい現実と出会った時、葛藤が生まれる。そこに日本近代文学の独特な形が現れた。
 
 今ではロマンティストは嘲笑われるのみだ。今の人達は利口で、ミューズなんてわけのわからないものは最初から捨ててしまっている。そんなものは嘘であり、朝になれば消える夢でしかない。
 
 現実を見よ。現実とは何か。出版社であり、編集者であり、暇潰しに本を読む大多数の読者である。今はみんな、現実主義者だ。彼らは現実を掴もうとする。何よりの現実とは「金」だ。
 
 その為に彼らは努力する。そうして不思議に、もっとも甘く、感傷的で、現実から遊離した物語を作り出す。なぜならこの社会における現実とは、現実というものを厳しく認識できない多数者が支配した社会だからだ。
 
 彼らはこうして一周する。彼らは現実を見据え、へたに理想を唱えたりしない。彼らは現実の、出版社、編集者、読者の意向に沿うように運動していって、その結果、実際に存在している現実から遊離した、人々の甘い認識に合致した作品を作り出す事になる。
 
 ※
 現代では、作品を生み、作品を享受するサイクルのどこにもミューズや美神が入る余地はない。全ては有機的な繋がりとして透明化されている。
 
 神というのも、人間が生み出すものである以上、生まれたり死んだりするものらしい。現代においては神はいない。神は死んでいる。美も美神も存在しない。ただ、売れるか売れないか、それしかない。
 
 こんな状況では優れた小説は生まれないだろうと私は思う。無理だろうなと思う。葛西善蔵や嘉村磯多といった連中の馬鹿馬鹿しい努力、貧乏と女と酒と美神との入り混じったくだらない文学とやらーーそういうものは決して生まれないだろう。
 
 しかしまあ、葛西だの嘉村だの、あいつらは鬱陶しい厄介者だったから、いなくなってせいせいする、と言われたらその通りだ。文学とかいう暗い連中の趣味もなくなればそれでいい、と言われればまあその通りだろう。
 
 もっとも私はそんな清潔な世界で生きたいとは思わない。作家志望、作家、編集者、広告業者、読者。こうしたサイクルで全ては終わる。作品は人々の俗情から俗情へと流れていくだけだ。それが全てだ。そこには高いものに対する希求はどこにもない。
 
 芥川の「ぼんやりした不安」もなければ太宰の「老爺の辻音楽師」もない。美神が去ってしまえば、芸術も存在し得ない。仕える存在が神ではなく低俗な読者であれば、作品もその水準に見合ったものとなるだろう。こういう世界では文学は存在不可能ではないか。
 
 …とはいえ、美神、ミューズなるものが完全に息の根を止められたかどうかはわからない。意外にそうしたものが歴史のどこかで潜伏していて、また蘇る時が来るかもれしない。もっとも、その時にはそれは人々に見やすい形になっているかどうかはわからない。

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