ここ「note」には何故か、「ニーチェ」の「神は死んだ」という言葉の解釈を間違っている人が多い。言葉通りに「神は死んだ」「神を全否定した」と理解している若者が多い。書物が読めていないではないか。わざわざ、彼らのために記事を書いた。https://note.com/jean_fr/n/n5be4f1506e8b
ニーチェは正しかったのか? 有名な「神は死んだ」の言葉がこの目で見られるとは https://news.yahoo.co.jp/articles/6c7eda3c21a634d08a263222c7db6ac5b43b42b6
キリスト者にとっての「神は死んだ」とは「善は死んだ」「愛は死んだ」つまり「生きる目的は死んだ」ということなんだろうな。キリスト教徒ではないがその絶望感は察して余りある
認めることで始まり、 認めようとすることで滞る。 物事は自然に始まり、始まったままである。 終りは永遠に訪れない。終りは意識的な終りである。 これは永遠だ。これは生きている。 「これは永遠か?」そう言っている間も永遠だ。 「これは生きているか?」そう言っている間も物質は回る。
人間がひとたび群れを成せば、鬼を狩るのですら容易い。 ニホンオオカミが絶滅したように、鬼も天狗も絶滅した。 人間が殺したのだ。 人間は、必ず崇拝対象を勢い余って殺す生き物だ。 「狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし,集団・党派・民族・時代にあっては通例である。」ニーチェ
自然環境を守りたい =何でもいいから守りたい =何かしら守ってないと気が済まない =本当に守りたいのは自分の心 =傷つけないで欲しいのは自分のモノ =壁のシミみたいな自分を消さないで欲しい =【自然の力に守ってもらいたい】 =自然崇拝=加持祈祷=自然科学=哲学 =神学 神はご存命
本居宣長が説いた「やまとこころ」は、究極的には熱意であり、それは即ち愛である 仏教は愛が執着であるして否定し、儒教は形式主義によって愛を否定した 「愛をとりもどせ!!」の「北斗の拳」は、「やまとこころ」がテーマだったのだ ニーチェ「神は死んだ」 鎗崎「儒教は既に死んでいる」
【空が晴れた】 青空が割れ、隙間から深海が覗く。 肉体はデバイス、身体はメディア。 ゆえに認知は『実物と仮想を区別できない』 仮説を持つことが科学的だといわれる。 彼らは先入観(バイアス)を肌身離さず所持し、 疑心暗鬼に依存し、イドラに胡坐をかいている。 科学者が科学を殺した!