C.G.ユングを詠む(009)-神は死んでいない:『死者への7つの語らい(1916)』から
『死者への7つの語らい(1916)』
『死者への7つの語らい』の邦訳は、「ユング自伝2」の付録として収録されていて、これはユングの死後に発表された著作になる。
今回はその第Ⅱ章の感想メモになる。
この第Ⅱ章はユング自伝2付録Ⅴに入っていて、2世紀の初期に実在したグノーシス派の教父バシリデスが、エルサレムから帰ってきた死人たちに教えを説く形式で書かれている。
河合隼雄著「ユングの生涯」によるとこうある。
ユングの心理学的基盤が完全に出来上がったものと評されるので、この付録Ⅴを本編より先に読んでいる。
◎ユング自伝付録Ⅴ、Ⅱ章
こんなふうに始まる。
ここで登場する死者とは、ユング自伝2付録Ⅴ、I章で登場したエルサレムへ行ったが、探し求めていたものが見つからず私(教父バシリデス)の家に訪れて教えを請う者たちである。
そして、この神がいるとか、死んでいるとかいうテーマは非常にデリケートで誤解されやすいテーマなので、実存主義とか認識論を可能な限り調べてみた。
そもそも神とは何かが、その人や所属するグループ、地域、国、民族によって違う。Wikipediaの『神の一覧』で調べると数えるのを憚られるほどのリストになる。実際に数えなかった。
CGユングはキリスト教の牧師の子として生まれた身の上であり、キリスト教の神のことを指して神と言っていることは間違いないであろう。
ただ、私はキリスト教の神については皆目知らない。このWikipediaの『神』レベルの理解である。
と言うことで、この章は「神は死んでいない」と言うことが主題に私は受け止めた。ただし、その神はキリスト教の神のことではないようだ。
「神は死んだ」といったのは、哲学者のフリードリッヒ・ニーチェ(1844~1900)。どういう観点から死んだと言ったのか簡単に説明すると、当時の宗教界の教義が現実に合わない人間の作るごとであることに対して死んでいると言った。だんだんユングから離れてしまうのでニーチェはここまで。
死んだという以上は、生きていた。あるいは存在したということになる。
ところが、『純粋理性批判』でイマヌエル・カント(1724~1804)が、神が存在すると証明できないと論理的に説明した。しかし、“存在しない”ともいっていないところに注意。要は結論が出ない問いということ。
カントの主張を私なりの理解であらわしてみると、人間の五感やそれを補う測定機器を超えた領域の対象なので客観的なデータを得ることができない。そのために神の存在を証明できないということに尽きるようだ。
逆説的に説明すると合理的な答えが出せる問いは、思考(カントの言う理性)が生み出した仮説に対して、客観的な説明や証明を、誰が見ても同意できるように「空間」・「時間」の中にあって、人間の五感(カントの言う感性)と脳の感覚野(カントの言う悟性)で認識できる仮説と因果関係があると理解できるものとなる。
ここに課題があったのは、主観というのは自分以外のそれを直接体験できないものと言うことだった。主観である五感と感覚野が認識している事象が、自分と他人で同じかどうかである。この辺りはカントの『純粋理性批判』とカント以降の『主客一致の問題』について詳しい。
カントは、主観を導く感性と悟性は生まれ持って一定の共通の規格(共通のレンズ)を持っていると言う。それは、いわば各人が心に同じ規格のパソコンのO S、オペレーティング・システムをインストールしているようなものだ。だから主観が大きくずれることはなく、共通認識ができると『純粋理性批判』の中で主張している。
これに対して、感性と悟性がうまく分離できるものかと言う疑問。それに加えて主観に至るプロセスは後天的な学習が必要ではないかという反論も後の世代によってなされた。現代の神経科学的な研究で成果からは、生まれてからの学習によるところも多く、カントの説は正しくないと私も思う。
ここで、私論であるが、カントの提示した共通の規格(共通のレンズ)にとって変わり得るものがユングの集団的無意識、元型ではないかと言う気がする。これらは、人類が民族を超えて共通に持っている認識、価値観や物語のようだからだ。
集団的無意識と元型の下に、全ての人類が同一の意識や価値観を持つかどうか、私は自信を持って断言はできないが、例えばミロのビーナスやレオナルド・ダ・ビンチのモナリザを見て美を感じない人は少ないのではないか?そんな共通の規格ではないか?
カントの感性・悟性をパソコンのOSに例えたが、ユングの集団的無意識と元型はクラウド・データといったイメージを私は持つ。
そして加えて、人間の脳の中には俗に言う「ミラーニューロン」と言うのがあって他人の感じている感情を共有することができているとのこと。遺伝的にはミラーニューロンの機能を果たす脳組織は発生する。
しかし、生後12ヶ月までによくトレーニングしないと他者の感情や意図を汲み取りが十分できるようにならないらしい。蛇足だが重度の自閉症を発する人のミラーニューロン組織は薄いという報告もあるようだ。
と、言うことで多くの人が共有できる主観があると、完全とはいかないが、そこそこ正しいと言えよう。繰り返すと同じ主観を持って、解釈も同じなら理解しあえて合意もできてといくということだ。
さて、ユングの『神は死んでいない』に戻っていこう。
ユングは、『C.G.ユングを詠む(008)-プレロマとクレアツール』で紹介したように聞きなれないプレロマとクレアツールと言う用語を神についての説明に使う。
だから、プレロマとクレアツールについてもう少しわかりやすい言葉に置き換えてみよう。
C.G.ユングを詠む(008)の説明を別な言葉で置き換えたものを文末に掲載しておく。私自身は言葉を置き換えることで、ユングの多分言いたいことがずっと腑に落ちた。
プレロマとは一見矛盾というか、相反する概念を包含した存在、あるがままの状態と捉えたらいいというのが、目下の私の解釈。「ありのままの存在」ということにする。なんだかんだ言っても対立や矛盾を含み混乱・混沌とするのが現実。それを「ありのままの存在」という。
プレロマを「ありのままの存在」と言い換える。
ここであなたの心の中にしかないイメージや空想・妄想・誤解釈もあなたの中にあるということで「ありのままの存在」とする。
で、次はクレアツールは「考える実存」と言い換る。
クレアツールは言語ではCREATURで生物のこと。ユングは生物とは言い切らず訳のわからない説明をしている。ただ、実存主義の「実存」に近いように見受けられる。
実存主義者の実存という言葉に対する説明は各人で色々と違っているが、私の感じる共通のイメージは、意識があるとか、意志があるとか、心があるとかいった存在にとれる。
例えばミドリムシやミミズでも生きようとする意志があるので実存と思う。実存と言ってしまうと、これまでの「実存」と区別がつかないので、わざわざ「考える実存」とした。
石ころや金属の塊のようなものは意識や意志や心があるようには見えないので、「ありのままの存在」になる。
さて、神は?
再掲する。
続けてこうある。
「考える実在」と「あるがままの存在」についての説明で禅問答のようなところがあった。
だから、神も「あるがままの存在」自身になる。
ここで、「あるがままの存在」の特性としての「対立の組」は、“神と悪魔”が出てくる。
神は全能ではなく、悪魔という「考える実存」がいなければアダムとイヴに罪を犯させ楽園を追放されるシナリオを実行できなかったことや、神父である父親が盲目的に教義を信ぜよという姿勢に疑問を持ったことから派出している。
『C.G.ユングを詠む(003)-少年期』に引用した所を再掲する。
ユング自伝付録Ⅴ、Ⅱ章の中であらためてこう書いている。
これは一神教徒にとっては受け入れ難い天地がひっくりかえるような話だろう。私にはわからない感覚だ。ユングは続ける。
彼らの信じる神は、アプラクサスの下位の神にされてしまい騒然となった訳である。
このように、ユングは神のようなものを否定しているわけではない。この点はカントも同じで既存の宗教の説く神が神なのかと感じていたように思える。
ここから第三章に移り、死者たちからアプラクサスとはどんな神かの質問に対して、太陽の神と比較したりして答えている。さらに第四章では悪魔との関係性について説明されている。
今回の本編はここまで。
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『C.G.ユングを詠む(008)-プレロマとクレアツール』で紹介したプレロマとクレアツールの説明を、それぞれ「ありのままの存在」と「考える実存」と言い換えて見た。
「ありのままの存在」という概念は、陰陽論とか太極論的なものである。禅問答のようなところもある。
次に「考える実存」という概念が出てくるCREATURとつづるのでドイツ語では生き物のことのようだが、もっと広い意味で使っている言葉のようである。
何を意味しているかよくわからないが、我々は時間的、空間的に有限のサイズと寿命のある存在であって、我々を構成する広く宇宙を構成する物質のように永遠ではないということとでも理解しておくとする。
この説明からすると、「考える実存」は生物より上位の概念のようである。そして、「考える実存」である人間は区別する。要は分析してアレとこれは違うものだと本来存在していない「ありのままの存在」の特性を定義していく輩だと言っているようである
区別しないことは、「考える実存」にとって死であるとも言っている。「考える実存」の本質の原理は、「個性化の原理」(PRICIPIUM INDIVIDUATIONIS)と言われる
例えばこんな「対立の組」が例示される
+と−の電荷が打ち消しあっているのに無理に分離して、区別をつけていると例えればよさそう。そして、片方のみを追求したくても「対立の組」の相手側を無視することはできないと言いたいようだ。
電荷よりも磁極の方がより良いメタファーだろう。N極だけS極だけ単独で取り出すことはできない。必ずセットで現れるのが磁石のN極とS極であるように、「対立の組」の対極はふるまうようだ。
以上で言い換え終わり。
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<参考文献>
・西研著 NHK「100分DE名著」ブックス カント 純粋理性批判 答えの出ない問いはどのように問われるべきか?
・西研著 NHK「100分DE名著」ブックス ニーチェ ツァラストゥストラ 君の手で価値を育てよ
・松波新三郎著「実存主義」岩波新書
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私自身は強いて言えば仏教徒の無神論者。宇宙を何か動かしている人智を超えた何かが存在することは感じる。それは「考える実存」だろうか?カントに言わせれば答えの出せない問いになる。
全くの想像であるが、ユングのいう「アプラクサス」とは、梵我一如のレベルのことではないかと。私は梵我一如の境地に死んでも達しないだろう。
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こころざし創研 代表
ティール・コーチ 小河節生
E-mail: info@teal-coach.com
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