自分だけの神を持て
聖書は、何世紀にもわたって多くの著者により書かれた文書がまとめられた、アンソロジーだ。
「聖書」と聞いて、キリスト教の聖書だけを思い浮かべた人には、読んで意味があると思う。
飽きずに読み続けられるよう、工夫して書いてみる。
※今回の文章内で、旧約/新約という言葉をテキトーに見たり読み間違えたりすると、おそらく一気に混乱する。そこは注視してほしい。
ユダヤ教の聖書は Tanakh タナクという。
本当はヘブライ文字。発音をできるだけ近づけてカタカナにすると、タナクやタナック。
3つのカテゴリー:法(Torah)・預言者(Nevi'im)・諸書(Ketubim)にわけられ、全24巻からなる。
この頭文字 T N K に母音を足して、タナクと。
Torah トーラーは、「モーセ五書」とも呼ばれる。創世記・出エジプト記・レビ記などの5巻。
前預言者4巻には、ヨシュア記やサムエル記が含まれる。後預言者3巻には、イザヤ書やエゼキエル書が含まれる。
ヨブ記やダニエル記は、諸書に区分されている。
○○記・△△書など、よくわかっていないまま見聞きしてきたという人もいるだろう。そういう人は、少しスッキリしたのではないだろうか。
時系列的に当然なのだが(後で詳しく書く)、キリストについては言及されていない。
初期キリスト教がヘブライ語の聖典を流用するよりも前、聖書は、中東のある人々に対する神の配慮と介入の物語だった。
キリスト教は、自分たちの神学史であるというような見方をして、これを旧約聖書と呼んでいる。
新約聖書。
キリスト教聖書の中で、複数の異なる書物は(繰り返すが、アンソロジーである)、神による世界の創造・人間の楽園からの堕落・神の子による人類の救済という物語を語るために、今日見られるような順序で並べられている。
しかし、実際は、その順で書かれたわけではない。
パウロは、新約聖書を構成する書物の多くを書いた。それらが、後の福音書に影響を与えた。
「書簡」と呼ばれているのは、見てのとおり、彼の全ての書物が手紙の形式をとったため。
正直、パウロは大作家だ。
福音書と使徒言行録は、イエスの死から数年後に書かれた。
福音書:キリストの言行をその死まで述べる4文書。マルコによる・マタイによる・ルカによる・ヨハネによる(全員使徒)福音書の4つ。
使徒言行録:福音書の後に配置されている。キリスト教の最初期の様子を語るもの。とは言え、ペテロとパウロの活躍がメイン。
これは12世紀のものだが。本?金銀財宝じゃなくて?という感じ。
キリストの死後に回心したパウロは、イエスとは面識もない。
当然、十二使徒には入っていない。しかし、広義として、使徒に入れられている。 そのように、重要な役割を果たしたためだ。
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』で見ても。
左から: バルトロマイ・アルファイの子のヤコブ・アンデレ・ユダ・ペテロ・ヨハネ・イエス・トマス・ゼベダイの子のヤコブ・フィリポ・マタイ・タダイ・シモン。
パウロはいない。
聖書の何割かは、本人に会ってもいない人物が書いたもので構成されている。という事実。
会ってもないんか〜いと、ツッコミたくなるかもしれないが。別にかまわないだろう。私たちもみんな会っていない。そんなことを言うのなら。まさか、織田信長や高杉晋作に会ってもいないくせに好きな人なんていないよね?と言いたい。
キリストの人柄に光を見たのだろう。心うたれたのだろう。それはそれでいい話じゃないか、と私は思う。
ちなみに。七十門徒という、キリストの70人の弟子たちを表す言葉がある。人気者だったのだから、フォロワーはたくさんいたのだ。
後で詳しく書くと述べた、時系列に関して。
聖書を構成する諸々の書物が書かれた年代を、正確に特定することは難しいが。
モーセ五書は紀元前10世紀から6世紀のものであり、タナクは紀元1世紀よりかなり前に聖典として成立していた。これが、学者たちの一般的な見解である。
福音書の成立年などと、比較するまでもない。
旧約聖書の最初の書である「創世記」は、宇宙と世界と人類の創造・エデンの園での人間の堕落・人類の悪に対して神が起こした大洪水の物語だ。
大洪水の後、ノアの子供たちが地上で再繁殖したと。要するに、今いる人間は全てノアの子孫であると。
創世記10章には、このように、誰の子が誰の子でーーというのが(ガチめに)羅列されている。
旧約聖書の2番めの書である「出エジプト記」は、こう説明する。ヘブライ人は、カナンの地からエジプトへわたり、そこで奴隷となってしまった。しかし、偉大なモーセが、自由へと導いてくれた。
「ヨシュア記」などを経て。カナンの地は自分たちが神から約束された地である、と主張。
一旦かなりざっくりとで、申し訳ないが。
ヘブライ人:東地中海岸で活動した、セム語族に属する民族。自らはイスラエル人と称していたが、まわりからはヘブライ人と呼ばれていた。後に、ユダヤ人と呼ばれるように。
セム系の民族には、他に、フェニキア人やアラム人が存在した。
フェニキア人は海上交易・アラム人は陸上交易と、経済的側面で、統一国家の前提をつくった。
対して、ヘブライ人は、オリエントではじめて一神教信仰をつくった。精神的・文化的な面で、統一国家を準備したということ。
余談
紫色の染料が、ギリシャ語で、フォイニケスと呼ばれていた。その染料を生産していた人々は、ギリシャ人から、フェニキア人と呼ばれていた。
フェニキアという名前の由来は、ギリシャ目線による「紫色の人々」説。これが有力と思われる。
Born in the purple. 王族に生まれたことをこう言っていたらしい。紫染めの原料が不足してしまってから、変えたのだと。Royal Blue は代替だった (?) のか。日本も含め、さまざまな文化で、紫は高貴な色なんだな。
この貝から赤・紫・赤紫色が出るそうだ。不思議すぎてピンとこない。すごいね。
かつてヘブライ人(自称イスラエル人・後のユダヤ人)が、神との約束の地であるとしたカナンは、現在のレバノン・シリア・ヨルダン・イスラエルのレバント地方に位置する古代国家だった。
「乳と蜜の流れる地」に住んでいた人々として聖書に描かれている、カナン人。古代の中東にいたカナン人は、古代ヘブライ人(自称イスラエル人・後のユダヤ人)に征服され、歴史から姿を消した。
(こういう話を書く時、毎回、書き添えるが。一斉に殺害されたりして、全員が死亡したなどという意味ではない。血筋として途絶えたのではない)
2020年に、このカナン人のDNAを調べた最新研究が、発表された。カナン人の遺伝子は、現代のユダヤ人とアラブ人に受け継がれていることが、判明した。
前者は予想の範囲内。征服した時に、混じりあって共になったはずだからだ。
科学的には。カナンの地は、ユダヤ人のものともアラブ人のものともいえることに。だが、この場合。科学的にはーーといっていてもしょうがないだろう。英語の方がニュアンスが適切だな。It can’t be helped.
必要性の問題であったり、「約束の地」などと言い出すかどうかの話であったり、するのだから。紀元前〇世紀から言われている。リアル「古文書に書いてある!」で。そりゃあ、そう主張したくもなる。
しかし、こうなってしまう。うちらの古文書だ・いいやうちらの古文書だ・ちょっと待ったうちらの〜。で、わぁぁぁとなる。
途方もなく長い話で大変。
さすがにドライすぎる言い方だが。昔にさかのぼるほど、本なんて少なかったのだから、とりあいになって当然だとも言える。“1冊の” 偉大な本に大勢が群がっているのだ。
〜日本の外交官、杉原千畝と妻の由紀子。杉原千畝は、1940年7月31日から8月28日までの29日間、リトアニアで何千人ものユダヤ人の通過ビザを手書きで書いた。その行為に、18時間から20時間/日を費やした。
由紀子は、リトアニアでの最後の日々をこう語った。彼はとても疲れきっていて、病人のようだった。ベルリンに行くように命令された。彼は、ベルリンには行けないとずっと言っていたが。私は、出発前に、ホテルに行って休むことを提案した。ホテルに着くとユダヤ人が私たちを探しにきたので、ホテルでもまたビザを書いた。
翌日、私たちが駅につくと、彼らもそこにいた。発車まで、ホームでさらにビザを書いた。列車に乗り込むと、複数のビザが窓にかけられていた。列車が動き出し、もう書けなくなった。みんなが手をふっていた。その中の一人が、「杉原さん、ありがとう。私たちはあなたに会いに行く!」と叫んだ。涙が止まらなかった。今でも、思い出すと涙が止まらない。
杉原は言った。「許してくれ。もう書けない。幸福を祈る」杉原夫妻の行動によって、約10万人の命が救われたといわれている。
戦後、杉原は辞職を余儀なくされ、電球の訪問販売をしていた。1968年にイスラエルの外交官が彼を見つけ、彼は、ようやく正当な評価を得た。それまで無名のままだった。
杉原は、戦争中に自分が何をしたのか、誰にも話さなかった。親しい友人さえ知らなかった。「私は政府に背いたかもしれないが、そうしなければ、神に背くことになった。人生において、正しいことは正しいからするのであって、“それ” は放っておけばよい」〜
杉原夫婦の魂は、今、改めて涙を流してやいないか……。夫婦は、「人命」を救いたかったのだから。
新約聖書は、人類の罪をあがなうためにつかわされた神の子の、生涯と教えに焦点を当てている。
ーーイエスは、処女マリアから生まれた。30歳頃、神との直接的で個人的な関係を説く宣教をはじめた。従者の1人に裏切られ、反乱を扇動した罪で、ローマ人によって十字架につけられた。死後3日で墓からよみがえり、父なる神の右の座で統治をするため、天に昇った。ーー
そして、ヨハネが語ったこの世の終わり(「黙示録」)で、しめくくられる。
私はキリストが好きだ。
聖書の中に見られる、処女から生まれてみせたり・死んでもよみがえってみせたりするキリストが、好きなのではない。そんなお飾りはいらなかった。(主観)
ユダが伝えてくれたキリストの人柄。それは、ありのままで、じゅうぶんに魅力的なものだった。現代の日本の若者からだって、「推せる」といわれるような存在かと。
フォロワーどおしの推しからの寵愛をめぐる嫉妬バトルが、紀元頃からあったことは、本当に興味深く。人のサガを思う。
考古学者が ①メソポタミアの文明 ②エジプトの文明を発見するまで。新約聖書の物語は、基本、歴史的に正確なのだと考えられていた。
福音書の物語には、原型が存在した可能性。
それは、紀元前2千年頃のメソポタミアの文学だ。
有名人 (王など) を主人公にして、人類と神々の関係を語る形式だったのだが。
実際に起こったことを説明したのものではなく。人間が、宇宙の中での自分たちのあり方を間違った場合に、どんなことが起こり得るかについて説いた物語だった。
人生において大切なことが、一人称形式で、描かれていた。ということだ。
4つの福音書は、キリストの地上での働きについての目撃証言であると、信じられているが。
先に書かれたのはパウロによる書簡で、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネによる福音書は後に書かれた。これは、科学的に検証された動かぬ事実である。
ところが。新約聖書は、その順で構成されていない。福音書は、書簡よりも前に配置されている。
レトリックのようなものだ。それも、極めて単純な。
誰がそうしたかって?想像力を働かせてみるしかないよ。パウロがそれで得をする?しないよね。誰が得をする?わかるよね。
この順番により、多くの人々が、出来事が起こり → その記録が残され → 格言的なものもたくさん生まれたと信じるように。
先述した内容を繰り返す。パウロの書いた多くの文章(彼が書簡と銘打った文章)は、福音書の内容にかなりの影響を与えた。
パウロが、キリストの人格などをフルシカトして全てをでっち上げたーーという意味ではない。ただ、「目撃証言」ではない。これも繰り返しになるが。パウロは、キリストに一度も会っていない。
ついでに、もう1つ。
死んでもよみがえる神という概念は、当時、なんら珍しいものではなかった。イシス信仰など。
かつて、全エジプトで行われ、シリアやギリシャやローマにも伝わったイシス崇拝には、処女受胎と死からの復活の物語がある。
シュメールの文学は誰にも知られていなかったのだし、ジャン・シャンポリオンが解読するまでエジプトの象形文字を読めなかったのだから、仕方ない。
時は流れ。
いつしか、人々は、宗教に対する疑問や批判を口にするようになった。哲学などが、信仰に代わるものとして、受け入れられ出した。
ダーウィンの『自然淘汰による種の起源』が、神による人類の創造という伝統的な信仰に挑戦した(結果的にだけどね)のは、1859年だ。
少し寄り道。
私の座学のメインはこれ。宗教学はメインではない。Noteの初期はこういう話を多く書いていた。第1回目は信仰について書いたが。
多くの人たちがわかっていない。
ダーウィンは、evolution(進化)と言っていなかった。descent with modification (世代を超えて伝わる変化)と言っていた。進化進化言っていたのは、ハーバート・スペンサーだ。後に、ダーウィンもこの言葉を用いたが。
だって、みんなが、進化の方がいいとあまりにも言うから。
「進化」の方は大衆に大ウケだ。“進化論” の内容として、スペンサーの方が広まっているきらいまである。スペンサーも他の学者らも、進化は進歩だと思っていた。進化は進歩とは限らないと示したのは、ダーウィンがはじめてだった。
「最も強い者が⽣き残るのではなく、最も賢い者が⽣き残るのでもない。唯⼀⽣き残ることができるのは、変化できる者である」これも、ダーウィン自身の発言ではない。彼の著作を読んだ別の人物が、こう、サマリーしたのだ。わかりやすく表現しようか。パクツイのがバズった、だ。
ダーウィン以外の2人は、なんというか……口がうまい人。
本書の完全な題名は、"On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life" である。
自然選択による種の起源、あるいは、生存をめぐる闘いにおいて好ましいとされる種が保存されることーーこんな感じ。
先生!これではわかりにくいですから!と、改題された。ダーウィンの実直さが伝わっただろうか笑。
いや、マッド・サイエンティスト系では全くなかった。とてもまともな人で、コミュ力もすごく高かったけどね。
あなたの個性は、誰かより上だとか下だとかじゃない。勝ち負けじゃない。ヒトという、同種内のことなのだから。
誰が優越の基準をつくるというのか。神か?
AIでもない。……これも、改めて長文で書くような話がたんまりとある。少なくとも今あり得る現実は、「ターミネーター」とは違う。……
ランキングづけなんかするとしたら、人間だろう。偏差値とかGDPとか。
綺麗事かどうかじゃない。私が何をどのくらい信じているのかでしかない。
聖書は、神が人間を天使より少し低くつくったと主張した。
ニーチェは、" The Gay Science "『悦ばしき知恵』で、「神は死んだ。我々が神を殺した」と主張した。
ちなみに。宗教に対する反抗として、文脈を無視して、受けとられることのある言葉だ。彼は、テクノロジーなどの進歩が神という概念を使いものにならなくした、といっているに過ぎないのだが。
彼の発言で、本当にコントラバーシャルなのは、それルサンチマンやでと言い放ったことの方だろう。
分解していけば。宗教を構成するのは個々人の願いであること、それら願いは苦しみや悲しみからもきていることは、間違いない。ニーチェはとても聡い人だ。それを理解していなかった可能性は、ほぼない。
解っていながらルサンチマン呼ばわりするのは(そう聞こえさせるのは)、さすがにどうかと思う。私は、彼のこの発言が嫌いだ。
話を元に戻す。
聖書の物語を立証する物的証拠を見つけるために、考古学者らが、メソポタミア地方に派遣されたことがある。
揺らぎはじめた人々の信仰心を、回復させようとしたのかもしれない。
発見されたのは、むしろ、古代メソポタミアの豊かな文学遺産だった。
キリスト教聖書の物語には、既出の類似作品があった。
一方、エジプトでの発掘調査では。へブライ人が奴隷にされていたということや、出エジプト記に見られるその他の詳細について、何の証拠も見つからなかった。
モーセの律法だって、似たようなものだ。それよりも前に、ウル・ナンム法典やハンムラビ法典があった。
逆効果みたいな結果が出てしまったのだ。
旧約/新約の話はもういい。
たしかに。現代における「聖書」の解釈は、考古学者などによって解き明かされるよりも前のものとは、違ってしまったのかもしれない。
しかし。調査だとか立証だとかをぬきにして、もはや、個人の理解によるところが大きいともいえるのではないだろうか。
むしろ、原点回帰したのではないか。
「あなたには、わたしの他に、他の神々があってはならない」
これをどうとらえるかについては、過去Note(ユダに関する回)に詳しく書いた。
推し変しないで〜と願ったのは、使徒たちであって(組織の拡大を望み)。神やモーセやイエスには、そんな意図はないのではないかと。
聖書の言葉の美しさと聖書が示す救済の偉大さは、世界中の多くの人々の中で、損なわれていない。
信仰とは信じるとは、そもそも、そういうことであるのだし。私はそう信じてる。
聖書と『デス・ノート』
キリストは弟子の足を洗った。当時、奴隷が主人にやっていた行為だ。足を洗うーーこのままだと、現代人には重すぎる。よりリアルな感覚で、部下をいたわって肩をもんだーーくらいに考えてほしい。
モチーフとして、真っ赤なりんごがたくさん出てくる。アニメOP映像には、禁断の果実をかじる主人公が。
「デス・ノート」の発想自体が、この「命の書」の反転かと。
夜神月はサタンか、とも言われているようだが。いいや、ニンゲンの表現だ。でも、ニンゲンには、Lもミサもいる。松田だっている。
私はこの作品の大ファンだ。Lとレムが好き。
『鋼の錬金術師』と聖書
イシュバアルは、サルエル記に出てくる言葉。
この兄弟がルカの福音書に書いてあることを読んだとて、それだけではダメだっただろう。
そもそも。本を読んだだけで全てを知った気になって、犯してしまったあやまちから、はじまった物語だ。
どんなにつらい道のりでも。自らの足で歩き、自らの目で見て、たどり着いた答え。だからこそ、意味があるのだろう。
「悪魔でも、ましてや、神でもない。人間なんだよ!」錬金術師の無力さを嘆く文脈での、主人公のセリフだが。
そう。娘と飼い犬を犠牲にしてまで、仕事の成功を得ようとした父親も、人間だ。
私は、今、フィクションの話をしているのではないよ。
主人公に激昂され暴力的に責められる父親を、尚も庇おうとする、娘と飼い犬。
私は、今、フィクションの話をしているのではないよ。
上:『鋼の錬金術師』の真実の扉
下:『新世紀エヴァンゲリオン』のOP映像
生命の樹:エデンの園の中央に植えられている木。その果実を食べると永遠の命を得る。創世記に記されている。
生命の樹の天地は逆転している。天に根を広げ、地に枝を伸ばしている。ポジティブな意味もあるのかもしれないが。そこはかとなく漂う、不穏な気配。やはり、禁忌なのだろう。
『エヴァンゲリオン』シリーズと聖書の話は数限りなくあるため、今回は書かない。
そこで主はカインに「兄のアベルはどこにいるのか」と言った。「わかりません」と彼は答えた。「私は兄の番人ですか」(創世記 4:9)
カインとアベルの物語に出てくる、修辞的な質問だ。暗黙の答えはYESである。私たちは、他人に対する自分の行動に、責任がある。
主はあなたがたをへり下さらせ、飢えさせ、そして、あなたがたも先祖も知らなかったマナを食べさせ、人はパンのみによって生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きることを教えた。(申命記8:3)
荒野の時代、神は、イスラエルの民が生き延びるために食物をさずけた。マナとはウエハースのようなもの。人生とは、単なる生存以上のものであり、魂も養われるべきものであるという話。
突然、人の手指が現れ、王宮のランプ台の近くにある壁のしっくいに文字を書いた。王はそれを見ていた。王の顔は青ざめ、恐怖のあまり足がすくみ、ひざはガクガクとふるえた。(ダニエル記5:5-6)
壁に書かれた文字は、その意味を理解できればだが、さしせまった危険を示している。
私は、この歌を宗教ソングとして聴いている笑。勝手な解釈すぎて申し訳ない。
さて、そろそろ、この長い話を終わらせよう。
彼は抑圧され、苦しんでいたにもかかわらず、口を開かなかった。彼は子羊のように屠殺場に導かれ、毛を刈る者の前で沈黙する羊のように、口を開かなかった。(イザヤ書 53:7)
『羊たちの沈黙』より。
彼女自身も沈黙の子羊なのだ。クラリスは、レクター博士に出会うまでずっと、誰にも打ち明けられずにいた。こんな話をする相手(人間)など、いないのだから。あきらめたくはなくとも、永遠に見つからないのだから。
人はたいがい、誰からもこんなレベルで話を聞いてもらわずに、生涯を終える。
たとえば、そんな時なのだ。自分だけの “神” をもって、生きぬくしかない時とは。