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もっとも衝撃的だった読書体験
物質的恍惚 - 岩波書店 (iwanami.co.jp) ル・クレジオ 著
19歳でこの本を最初に読んだときの衝撃が忘れ難く、その後55年たった今も折に触れては引っ張り出してきて、読み返してみることがあります。
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自分が #シェイクスピア を読むなら、 #バルザック 、 #ジョイス 、あるいは #フォークナー は読まないのだと承知して、そうしてほしいのだ────そのことのために、他の何千ものことを犠牲にしているのだと承知していて欲しい。
まったく謙虚な気持ちで、自分が人間の魂のごくわずかな、取るにも足らぬ切れはじを、不完全に知ることになるだけなのだと、意識していてほしいのだ。
そして、その人間たちの精神の産物たる #哲学 や #芸術 よりもはるかに重要なものとして、人間たちの生きているこの世界があるということ。
我々人間が生きてあるということは、我々人間の #精神 にではなく、我々人間の #肉体 に依存しているのだということ。
これは確かだが、もし我々の肉体に我々の精神の怯懦さがあったなら、今この瞬間にも我々は腐敗して崩れ落ちてしまうだろうからだ。
だが我々の肉体は強い。それは戦う。不屈の意思をそなえており、この意思は理性のそれではなくて、 #生命 の流れそのものの意思なのだ。この意思たるや、七十年、八十年ものあいだ、弱ることなく死に抗して戦う能力があるのだ!
生命の美、生命のエネルギーは、精神のものではなく、 #物質 のものなのである。
はたして、我々人間の何やら考えらしきものとか、欲しいものとか、意識とか、そんなものには語られるだけの値打ちがほんとうにあるのだろうか?
我々人間は謙虚であらねばならぬ。
自分が小さく、憐れむべきものであるということ、我々はそれをいつまでも承知していねばならず、我々が何であるかを忘れようとして反抗したりする代わりに、毎日そのことを、口にし、くり返さねばならぬ────我々は何ものでもない、我々は何ものでもない、我々は何ものでもない、と。
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52p~57pの大雑把な要約
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#カフカ の「 #変身 」や #ニーチェ の「 #神は死んだ 」や #サルトルの 「 #嘔吐 」や #カミユの 「 #ペスト 」「 #異邦人 」「 #シジフォスの神話 」等々もそうとう衝撃だったが、当時(60年代後半)の #実存主義 #文学 礼賛傾向のなかでも #ルクレジオ の「物質的恍惚」は一際強烈でした。