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オタクの大切なものが失われたとき

「全部冗談であってくれ」と願った。

地下アイドルオタクのかべのおくです。


このnoteは、2023年9月30日、Jams Collectionからの体制変更の発表に寄せた内容となっています。

アイドル(グループ)が今までの姿を保てなくなるとき、オタクはそのままいけば経験できたであろう未来の思い出も失ってしまっていると言えるでしょう。そんなとき、僕たちはどう向き合う必要があるのでしょうか?普段どんなに綺麗事を並べたとしても、無意味になってしまうかも知れません。この一件を受けて、思ったこと、考えたことをまとめておきます。


※2023年8月19日に、「『最強!』のニーチェ入門」の内容と感想を追加しました。

オタクの宗教観

アイドルオタクにとって、応援しているグループがなくなる、ないし大きく変わってしまうということはアイデンティティの危機です。このようなときには、オタクの宗教観が問われていると言えるでしょう。この「宗教」とは仏教、キリスト教、イスラム教みたいなものではなく、「人間の認知・理性を越えた領域のものを信じること」です。

極限状態での人間の振る舞いは、その人が「何を善いとするか」に大きく影響されると言われていて、いわゆるトロッコ問題がその典型です。 

あなたは線路の切り替えポイントにいます。ポイントを切り替えると多くの人を救えますが、その代わりに自分の手で本来は奪われなかったはずの1人の命を奪う選択をしたことになります。この問題に正解はなく、どちらを選択するのかは信じる正義によるわけです。

このような極限状態において、何を拠り所にするのによって人間はざっくり2つ、「善いことなんて考えなくても分かるでしょ?」という人と「いや、ちゃんと理詰めで合理的に考えるべきだろ!」という人に分かれると思います。この前者、すなわち正義の拠り所を超越的なものに委ねるのが「宗教的な人」になるわけです。ちなみに今日では「全てを超越した善なんてないし、『ある!』っていう人もその考え自体、なんかの思考の枠組みに囚われた発想だよね?」という感じで、後者の考えが最も確からしいことになってるらしいです。


じゃあオタクにはどんな宗教が宿っているのでしょうか?おそらくどのオタクも推しメンの中に、各々が思う「全てを超越した理想のアイドル」を無意識に探そうとしているように思います。僕はそれがアイドルオタクの宗教的側面ではないかと思うのです。目の前の推しメンに理想のアイドル像を見出そうとする一途なオタクの姿というのは、敬虔な信者そのものです。多くの場合、そういったオタクやオタクの行為は「ガチ恋」と表現されるのでしょう。

そう考えると、ショッキングなニュースを見たときに酷くダメージを受けるオタクはアイドルに狂信的すぎるのかもしれません。アイドルは皆、理想的な姿に向かってひたむきに努力すべきだと考えていることになります。しかし完全無欠なアイドルなんてのはあくまでもその人が産み出した幻想にすぎません。そんな人は「アイドルも所詮人間だったんだな」と思い直し、もう少し現実を見ると良いのでしょう。

一方で、そういう報せを受けてもケロッとしている人もいます。余裕ぶって「まあ○○もこんなもんだったか」「まあ知ってたし、別にノーダメ」とツイートしてみたりする人です。しかしそういった批評家気取りのオタクは信仰心が薄すぎるのではないでしょうか。僕もどちらかというとこっちのタイプで、度重なる卒業発表、脱退発表を経験するうちに間隔が麻痺してしまったのかもしれません。だから「もうアイドルに期待することはやめよう」と。しかし、理詰めでオタク論を語ることはあまりにもつまらず、どこかしらで破綻をきたします。アイドルというコンテンツを楽しむ以上、オタクはどこかで宗教的にならざるを得ないのでしょう。

先ほどのトロッコ問題のように、このオタクのスタンスにも正解があるわけではありません。ただしオタクはアイドルに対して適度な信仰心を持った方が良いとは言えると思います。


自己肯定感と承認欲求の違い

何かを推す理由は、「自分に自信を持つため」というのはオタクなら誰しもが経験があるんじゃないかと思います。「群青の世界」の曲にも

本気で推してる時 自分を肯定してあげれた

「最後まで推し切れ」より

という歌詞があります。人は誰かのために貢献しているときに自分に価値を感じられるのはそこそこ真理です。推しメンのためなら、お金を稼ぐために残業してもよい、炎天下でも出番まで待ち続けられるという人もいるでしょう。推しは力です。

しかし推し活を他人に見せびらかしてしまうと、それはもう自己肯定感ではなく承認欲求を求めていることになってしまってとても危険に感じます。なぜなら人気の推しメン、評判のグループを推していること自体が自分の価値になってしまうからです。こういった承認欲求に頼っていると、グループやメンバーの人気がなくなってしまえば自分の価値自体も大きく損なわれたように感じてしまうでしょう。

あ、ちなみに「自分の推しだけは残ってよかった…!」と思ってる人もたぶん同類ですよ。


しかし実際のところ、推しメンがいなくなっても自分に社会的価値がなくなるわけではないですし、刑務所に入れられるわけでもありません。もちろん、この自己肯定感と承認欲求は紙一重です。そもそも承認欲求がゼロな人間なんていませんし、僕だって皆さんからのいいねが欲しいからこうしてnoteを書いています。

理解しておかなくてはいけないのは承認欲求の甘さと苦さです。この世の中は承認欲求を掻き立てるツールで溢れていますし、易きに流れればいくらでもそれに頼れます。しかし、ハシゴが外れたときに自分は一人で立っていられるのか、常にバランスを取りながらうまく付き合うことが求められているのでしょう。


追記(2023.08.19):ニーチェの哲学とオタク観

最近、「最強!」のニーチェ入門という本を読みました。また、ちょうど思うところのあるタイミングだったので、その内容と感想を記します。

本の内容

著者の飲茶さんは哲学作家として数多くの著作を出されています。この本はそんな飲茶さんこと「先生」と、普通の女の子「アキホ」による対話形式で進行します。

  • 本質哲学と実存哲学

  • 背後世界

  • ニヒリズム・末人

  • ルサンチマン

  • 奴隷道徳

  • 永劫回帰

  • 超人

  • 力への意志

これらのニーチェの哲学に関する重要な知識をわかりやすく学びながら、自分の人生を肯定して幸せに生きていけることを目指します。


感想・考察

ニーチェの有名な言葉といえば「神は死んだ」でしょう。

この「神」とは世間から押し付けられている価値観や考え方とも捉えられ、オタクにも押し付けられている価値観があると思います。YoutubeやTiktok、そしてnoteを見れば、「オタクとはかくあるべき」というような、キラキラしたオタクライフが垣間見れます。しかしそれは見てくれのいいパッケージにしか過ぎず、全てのオタクに当てはまることではありません。

とはいえ最近は、「特定の誰か(何か)を熱狂的に応援する人間」への理解が進んで生きやすくなったことも確かです。地下アイドルオタクはそんな世間に根付いた価値観に、ある時は乗っかり、ある時は無視しながら、幸せな生き方を探して行くべきなんだと思います。


ところがオタクはそんな「神」を自ら殺してしまうこともあります。推しの繋がりを見つけてしまったり、SNSや特典会で推しを傷つけるような発言をしてしまったり、勝手に失望して病んでいなくなるといった行為です。推しメンと事務所が揉めて脱退となり、「どうしてこうなるんだ…」と誰を責めるわけでもなく自分を呪ってしまうこともあるでしょう。結局、オタクが追いかけているものは幸福になれることを保証してくれないのです。

ではどうしてアイドルを応援するのか?その答えは皆さんの中にあると思います。自分が夢中になっているものがいつかは無価値になるかもしれない。それを薄々感じていながらも、必死に「今、推しメンを応援する自分」を肯定して生きる。それがオタクの営みの本質なのではないでしょうか?


おわりに

まとめます。

でも、それだけ大切だったということ。

以上です。

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