立花氏のこの発言は、典型的な「哲人国家」。 https://x.com/wanpakuten/status/1858592831889436746 国家は賢い人たちに運営してもらったほうがうまくいく、という考え方。プラトンが「国家」という本で提唱したもの。ソクラテスのような賢い人が支配者になった方がうまくいくに決まってるやん、という考え方。しかし私は。 哲人国家は結局うまくいかないと考えている。そのあたりを今回は言語化してみたい。 私が思うに、ブラトンはソクラテスの弟子
私が文章を書くときに気をつけていることとして、プラス2つほど気がついたので、それも言語化してみる。 まず一つ目。私の文章をお読みの方はよくご存知の通り、具体的なエピソードをなるべく盛り込むようにしている。そうした方がかえって普遍的な理解ができるようだからだ。 知性の高さを誇る文章を書こうとすると、具体的なエピソードを避け、普遍的な表現にしようと努めてしまう。しかしこういう文章は小難しくて理解しづらい。このため、普遍を目指してかえって誰も読まない「普遍的でない」文章が出来上
ここのところ、長文でも読んでもらえるコツとは何か、というのを言語化しようと試みて、5つの文章を書いた。なんか言語化できそうな気がしたからだけど。ここで、5つの文章の要約を書いて、自分でも少しまとめておこうかな、と思う。 「なぜ私のツイートは長くなるのか」考|shinshinohara #note https://note.com/shinshinohara/n/n715f42e01c11?sub_rt=share_sb で見えてきたのは、思考を丁寧に丁寧にたどっていくことで
このところ、なぜ私の長文を多くの方が読んでくださるのか、言語化を試みてるけど、その第5弾。 「わかったつもりにならない」ってのも大きいと思う。 自分には知識がある、いろんなことが分かっていると思ってしまう人は、ある水準の難しさを持つ文章を書いてしまうようだ。 「この程度の専門用語くらい、オレの読者ならわかってくれなきゃね」とか、「このくらいの難しい言い回しも理解できなきゃオレの読者になる資格はないよ」とやってしまうらしい。それもこれも、自分には知識があり、それを人に教えてあ
(長文を書くことは昔から苦ではなかったか、長文を書く訓練はしたか、という質問に対し) 私は子どもの頃、作文が超苦手でした。何を書いたらいいのかわからなくて、「弟が僕のチョコを食べた」って文句を書いたら家族から「なんて恥ずかしい」と総スカンでした(笑)。それをきっかけに、「僕は作文が苦手」というのが刷り込まれました。 それに変化が起きたのは、高校2年生のとき、国語の先生が、課題の要約を書け、って言ったとき、私の要約をほめてくれたんですよね。クラスメートが最初失笑したりしたん
私の文章が「長文なのに読みやすい」と言ってもらえる理由の一つに「難しい言葉を使わない」というご指摘をよくいただく。確かに私は専門用語や漢字ばかりの音読み熟語などをなるべく用いないようにしている。理由がいくつかあって、1つには「聞き慣れない言葉は戸惑う」という問題がある。 例えば 農業の分野だと「肥効」という言葉がある。しかし 一般の人はこの2文字を見て、しばらく固まってしまうだろう。「肥料の効き、と書いてあるから、肥料を吸って効き目が出てきたってことかな?」と思い当たるのに
みなさんご存知の通り、これまでバズってきた私の文章、長文がほとんど。みなさんよく読んでくださるなあ、というのが正直なところ。私はツイッターでは長文を読まない。だから、長文書いてる私が言うのもなんだけど、みなさんの忍耐力に驚かされる思い。なぜ長文なのに読んでもらえるのだろうか? 実は、私は文章をできるだけ短くしようとしている。ここで「ウソつけ!」と総ツッコミくるだろうけど、ホンマ。つぶやきは140字しか入らない。で、私は1つぶやきに1つの「気づき」をこめることにしている。とな
フォロワーの方はよくご存じの通り、私のツイートは長い。2000字で済んだら短い方。このため、「もっと短くできないのか」と文句を言われることが多々。実は私、短く要約することは比較的得意な方、と自分では考えている。なのになぜ? 二つほど理由がある。一つ目。私のつぶやきは、私自身が言語化を試みたことがないテーマが多い。いったいどこに落着するのか自分でもわからないままスタートする。いったいどんな話になるのか自分でも予想できないから、要約しようがない、というのが正直なところ。吐き出し
今年もシェアさせていただきます。辻由起子さんは普段、母子支援活動を中心に行っておられますが、その中で、少年院に入っている少年たちが、スイーツを食べた経験がほとんどない、という現実を知りました。少年院の中の話ではなく、少年院に入ることになる前の話です。 https://note.com/share_link/n/nd9f22f35cd33?sub_rt=share_sb 少年院に入る子どもたちは家庭に恵まれなかったり、金銭的に苦しくて、スイーツを食べる機会が非常に少なかった子
マスメディアやSNSで入り乱れる情報に対してどのように向き合えばよいか。その基本姿勢を作ることになった原体験を紹介したいと思う。 阪神大震災が1月17日に起きてその半月後の2月頭、私は東灘区役所に救援物資をとりに行った。 すると、ミネラルウォーターのペットボトル数本と使い捨てカイロ数枚しかない。「うちの避難所だけで1500人いるんですよ。とてもじゃないけどこれじゃ意味がない。食料と飲み物はないんですか?」と尋ねると、区役所の人は「もうこれで全部なんだよ」と言われて、私たちは
今回の兵庫県知事選で、いろんな人が既にいろんなことを言っているので、そこは言及しないでおく。私が特に気になったのは2点。「動画」と「既得権益」。この二つについて、私なりに気がついたことを言語化してみたい。 今回、みなさんご存じの通り、新知事に対して私は否定的な立場をとってきた。それに対して、多くの人たちから反論を受けた。そしてその反論の多く(多分ほとんどすべて)が、動画を重要な情報源として捉えていた、という点が、私の気になったところ。 正直、私は動画に情報源としての価値を
子育て系の雑誌からインタビューを受けたとき、「どうやったら子どもが本や図鑑を読むようにできるでしょうか?」と質問を受けた。私は「読ませようとするから読まんのと違いますかね」と答えた。どうやらその雑誌は、子どもに本や図鑑を読ませたい教育熱心な親御さん向けに記事を書きたい様子だった。 でも私は不思議に思う。なぜ本や図鑑からしか知識は得られないと思い込んでいるのだろう?と。マンガやゲームからでも知識は得られるのに。 すると、そのこと自体は否定しないけど、本や図鑑は知識の密度が違う
子どもの読書について、少し言語化を試みたい。 子どもが読書するようになるには?という問いには、「親が本を読む姿を見せる」という回答が非常に多い。親が本を読むなら家には本があるだろうし、親が読んでる姿を見て子どもも自然に本を読むようになるだろう、と。でも私はこの答えが気に入らない。 なぜなら、私の両親は本を読む人だったが、何を隠そう、私が本を読まない子どもだったから。母はやたら本を読むよう勧めてきたが、私はそのたび逃げていた。押しつけがましく感じて。だから、「親が本を読めば子
朝イチで面白い実験が行われた。いくら注意しても交差点を飛び出してしまう子どもたち。その子どもたちに「君たちの親はこれから目隠しします。あなたが交差点の向こうへ安全に親を渡して上げてください」と伝えた。するとどの子も左右を念入りに確認し、親の手を引いて渡った。 親御さんたちはみんな一様に驚いた。「いくら注意しても左右も注意せず、飛び出してしまうのに」。 なぜ親が注意してる間は左右を確認しなかったのだろう?それは「してあげる」からだろう。交差点に近づいたら親が先回りして、左右を
教育書や上司本、ビジネス記事なんかでは「してあげる」という語尾が目立つ。先日、インタビューを受けた時も「何を部下にしてあげたらいいでしょうか?」と質問された。私は「『してあげる』という意識をまずやめておいた方がいいかもしれませんね」と答えた。 「してあげる」って、親や上司が、子どもや部下に恩恵を授けるという意識があるから出てくる言葉なのだろう。そして恩恵を授けるからには、尊敬なり感謝なりが得られるかも、という意識が芽生えやすい。「してあげる」は、子どもや部下に対して恩恵を授
(「嗤い」が権力者をも従える強力なツールであるならば、否定するのはマズいのではないかという意見に対し) いいえ。「嗤い」以外にも手法があるから、「嗤い」を肯定的に捉える必要はありません。 晏嬰が斉の使者として楚を訪れると、正門は閉ざされ、犬の門だけ開け放たれていました。「国に入りたければその門を通れ」と。仮にも国の使者として訪問した人間が犬の門をくぐれは、それは祖国の屈辱。 さりとて、怒って戻れば、使者の使命を果たせません。普通ならここで自縄自縛となり、追い詰められるとこ