なぜわたしは空にUFOを探すのか
道徳の根拠を探してもこの世にはみつからない。
道徳は功利主義を超えて、善をおしつける。悪を許さない。
わたしたちが福祉だ福祉だと言ったり、弱者を守れと騒いだりするのは、万が一にも自分が福祉の世話になる弱者になってしまふ可能性があるからだ。
それがなければ、福祉も人権もどうでもいい。
道徳は、無条件で、福祉や人権を守れと命じて来る。
憲法九条などは道徳の典型で、自国民が殺されようと領土が奪はれようと、何があっても、無条件で、絶対に自分たちは戦争はしないといふ法律だ。
なぜなら戦争は悪だからといふのが理由の、まさに道徳そのものの法律である。
悪であることは許さない。
善だったら、どんなに損をしても、場合よっては強姦されたり殺されたりしても実行しなさい。
善なら絶対にやれ、悪なら絶対にするな。
言ひ訳、留保、条件などは、一切、許さない。
ならぬものはならぬのです。
これが、道徳である。
けれども、合理主義的観点からは、やはり道徳律の根拠は必要だ。
それで合理精神の権化、カント先生は、神様に説明責任を負はせた。
丸投げである。
まだ、神が病床に臥せってゐるとはいへ、ニーチェ先生に逝去を暴露される前のことだった。
だが、キリスト者作家の遠藤周作氏の作品にもあるやうに、さういふ、大問題を突き付けられたときの神は、必ず、沈黙する。
いつも黙ってゐる。
寝てゐるのか?
もしかして死んでるんぢゃないだらうなと疑ひだしたのが、牧師の息子で敬虔なキリスト者だったニーチェ先生だ。
まあ、後から分かったことだが、やはり、すでにこと切れてゐたのだから、何も言はないのも無理はなかった。
いまだに祈ってゐる人がゐるが、死んだものからの返事は、おそらく無いだらう。
わたしたちは、では、誰に、何に、道徳の根拠を求めればいいのだらうか?
「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」
「自分が損をしても善をなさなければならないのは、なぜですか?」
「悪をなして栄えてゐる人たちがゐるのは、なぜですか?」
「わたしたちはなんのために生きてゐるのですか?」
「わたしたちは、死んだら、どうなるのですか?」
今となっては、かういふ質問は、江原さんとかバシャールしか、まともに耳を傾けてくれない。
人生相談が大好きな坊さんや心理カウンセラーや精神科医といった人たちも、「きみはどう思ふ?」といふ・質問に質問で答へる回避方法しか知らない。
「それぞれ、自分の答へを見つけよう。それが人生だね」
アホか。
家帰って暦見て、ええ日選んで、目ぇ噛んで死ね。
最近、また、UFOが飛んでゐるらしい。
かつて、わたしはUFOに関してはかなり調べた。当時、『なにかが空を飛んでいる』といふ題名の本があった。
実は、六甲山中の夜明けの空に、金色に光る丸い飛行物体を見たこともあるのだが、わたしは集められるだけの本や論文などを読んだすえに、「目に見えるUFOは、飛んでない」といふ結論に達した。
空には不思議なものは何も飛んでないと思った。
目に見えないUFOも飛んでゐるらしいが、わたしには見えないので、飛んでゐても飛んでないのと同じである。
けれども、最近、また「なにかが空を飛んで」ゐて、今度はレーダーにも映る「物質的飛翔体」であるらしい。内心、毎度のことで、アメリカ人の作ったUFOフェイクニュースだと思ってるけど。
レーダーに映るUFOなら、わたしにも見えるかもしれない。
わたしは、ルーフバルコニーに出るたびに、猫の母娘と三人で、空を見上げてゐる。そこからは、六甲山から広がる空を、マンションの八階の高さから、西東南の三方にわたって見渡せる。
もし、目の前にUFOが顕はれたら、宇宙人たちに、道徳に関する質問を投げかけようと思ってゐる。