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大日本名将鑑 北条氏康

戎光祥ヒストリカルセミナーvol.41「北条氏康と上杉謙信」を開催します

【歴史の話】【お金の話】戦国時代の宅配便の料金はいくら?

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密約 ―『恋愛栽培』前日談―

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難攻不落の堅城を攻めてきました

日本の100名城制覇!(東京都編/江戸城、八王子城、滝山城、品川台場)

歴史用語コラム 甲相駿三国同盟とは

《一代目》姉ちゃんの嫁ぎ先のもめ事、解決しに わざわざ上京しに来たよ 《二代目》伊勢という名字やめて北条にしたよ 《三代目》いちばん骨折ったよ(税政と民政と和睦ってハグして統べったよ) 《四代目》秀吉(ヒデヨスィ)に命あげたよ。 《五代目》小田原攻めの翌年ごートゥーヘブンしたよ。

番号〜♪ イチ!(北条早雲 そーうん) ニッ!(北条氏綱 うじツナ・うっじぃー) サンッ!(北条氏康 うじやす・ヤス!) シー!(北条氏康 うじまさ・マサ!) ゴッ!(北条氏直 うじNao・ちょく!) # 前に並んでいても 後北条(ごほうじょう)氏 # …だまれよ(*´∀`)

静岡県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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「里見の歴史を知る会」講演会 里見の拠点・久留里-もっとも長く愛された城下町

眠っていた企画「フェニックス小田くん」

【古文書訳】武田晴信文書(天文十七年(1548年)三月七日【村上義清に大勝したよ(嘘)】

【エッセイ】下野③─佐野城と佐野家の歴史─(『佐竹健のYouTube奮闘記(23)』)

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滅び飯

元亀2年(1571)10月3日は前年8月頃から病だった北条氏康が小田原城で死去した日。河越夜戦では山内上杉・扇谷上杉氏を破り、今川義元・武田信玄と三国同盟を結んで上杉謙信とも戦い関東に領国を拡大した。12年前に家督を氏政に譲った後も氏康が実権を握り政策や軍事の多方面で舵取りした。

永禄7年(1564)7月23日は太田資正が息子により岩付(岩槻)城から追われた日。資正は太田道灌の曾孫で河越夜戦で主君上杉朝定が討死し扇谷上杉氏が滅亡後も北条氏と戦った。一時的に北条に降るが上杉謙信の関東侵攻で再び反北条となる。北条氏康の娘を妻とし親北条だった息子氏資に叛かれた。

日本の100名城制覇!(埼玉県編/鉢形城、川越城、忍城、杉山城、菅谷館)

天文19年(1550)4月1日は北条氏康が領内の村々に公事免除などの文書を発給した日。百姓の公事を免除するかわりに懸銭を新設した。また逃亡百姓の借銭・借米を免除したり領主による迷惑な公事の禁止なども。これまで雑多だった制度を領内広く改めた。一方的な徴収では成り立ちませんからね。

戦国時代「三大奇襲作戦」のひとつ河越夜戦!北条氏康の逆転劇とその後の伝説【後編】

永禄4年(1561)3月18日は北条氏康が伊勢の回船問屋に家臣安藤良整と兵糧売買の相談を指示した日。反北条派を糾合して小田原城を包囲した上杉謙信との長期戦に備えてか。紀伊半島と関東は海運による結びつきが強かったとか。海の道で繋がっているとは関東という視点では気付けないものですね。

天正3年(1575)3月16日は今川氏真が上洛し相国寺にて父の仇・信長と会見した日。戦国大名今川氏滅亡後は北条氏と家康を頼った。信長に所望され20日には蹴鞠を披露。和歌にも通じた文化人で子孫は江戸幕府の朝廷や公家との交渉役に。自分が好きで得意なことの世界で生きればいいと思えます。

天正15年(1587)5月6日は相模国玉縄城主だった北条綱成が73歳で死去した日。今川家臣の父親が戦死したのち小田原の北条氏綱を頼る。氏綱に気に入られて娘を娶り一門に迎えられ北条綱成と名乗る。河越城の戦いでは半年も籠城戦を耐え抜き味方の夜襲に呼応し大勝利に導くなど武勇で知られた。

永禄12年(1569)5月17日は今川氏真と正妻早川殿が北条領へ逃れた日。家康と和睦成立により2日前に掛川城を開城した。早川殿の実家を頼りこの日に蒲原城へ。小田原に移り早川殿の兄・氏政の嫡男・国王丸(氏直)を猶子として駿河を譲ることを約束。これで実質的に戦国大名今川氏は滅亡した。

戦国時代「三大奇襲作戦」のひとつ河越夜戦!北条氏康の逆転劇とその後の伝説【前編】

また収穫だ。

天文6年(1537)2月10日は武田信虎の娘定恵院(信玄の姉)が今川義元に嫁ぎ甲駿同盟が成立した日。義元は前年の家督争いを制し外交方針転換。これで北条との駿相同盟は破綻。三者の利害関係一致で甲相駿三国同盟成立は天文23年のこと。立場的に仕方ないとして利害だけの関係は疲れそうです。

天文15年(1546)4月20日は北条氏康が河越夜戦で山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍を破った日。北条綱成が籠る河越城を救うため10倍といわれる敵陣に夜襲をかけた。当主朝定が討死した扇谷上杉氏は滅亡し、憲政と晴氏は逃亡し関東における北条氏の地位を確立した一戦。

旧暦に31日は無い。天文23年(1554)3月は甲相駿三国同盟による善得寺の会盟があったとされる。武田信玄、北条氏康、今川義元による婚姻同盟。三者が一堂に会した可能性は低いとされる。この後を知っていると婚姻結んでも利害関係が変わったらあっという間に崩れるものだとわかりますよね。

三増峠: 北条VS武田 激突の地 ♣山と歴史の連なる道♣(0007)

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【大内家の野望 新生】 第20話:相模国平定戦 〜鎌倉の戦い

永禄7年(1564)1月8日は北条氏康が第2次国府台合戦で里見義弘、太田康資、太田資正の連合軍を破った日。康資は江戸一帯を失い里見氏は安房・上総南部まで後退することに。しかし3年後義弘が北条を破り房総は膠着状態となる。北条が関東を制覇したといえど一方的に全てが進んだ訳ではないと。

なぜ二代目後北条当主、北条氏綱は有名じゃないのか。 「マイナー武将記」

【大内家の野望 新生】 第19話:関東進軍戦 〜小田原城の戦い

元亀2年(1571)10月3日は北条氏康が死去した日。河越夜戦で山内上杉・扇谷上杉を破り武田信玄、上杉謙信とも争い関東に覇を唱えた。1年ほど闘病中だったが12年前飢饉の責任をとる形で家督は氏政に譲った後も氏康が主導してきた。リーダー交代に失敗は至る所であるので時間は必要ですよね。

天文10年(1541)7月19日は北条氏綱が死去した日。後継に5か条の遺訓を残した。勝って兜の緒を締めよの由来はこの遺訓。戦国乱世で敢えて1つ目は義の大切さを説く。義に背き国を取っても後ろ指さされ、人の道外れ利を得た者は天罰から逃れられぬと。今の私が守るべき義とは何か?考えよう。

31日は旧暦にはない。天文23年(1554)7月は北条氏康の娘と今川氏真の婚姻が行われた月。この後12月に信玄の娘が北条氏政に嫁ぐことで武田北条今川の甲相駿三国同盟が成立。それぞれ目指す方向のために後顧の憂いを断ったということですね。今、前に進むために気がかりな事といえば何だろ。

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