歴史用語コラム 甲相駿三国同盟とは
こんにちは!戦国ヒストリー編集部です。今回は戦国ヒストリーで公開できなかった記事(既存記事とのテーマ重複など、訳あり)で、上記テーマをnote向けに再編集してみました!
甲相駿三国同盟とは
戦国時代、甲斐の武田氏・相模の北条氏・駿河の今川氏の間で結ばれた軍事同盟が「甲相駿三国同盟」です。
世界的に見ても三国間の同盟は非常に珍しく、日本史をひも解いてもほとんど登場しません。足利義昭が主導した「信長包囲網」を多国間同盟と見る向きもありますが、互いに連携していない以上は同盟とは呼べません。
三国のそれぞれの思惑
ところで三国同盟の裏には、それぞれの大名が抱える事情がありました。
まず甲斐の武田氏は、晴信(のちの武田信玄)が実権を握ったあと、さっそく隣国・信濃に目を付けます。強力な戦国大名がいない地域ですから、独力で征服は可能だと踏んだのでしょう。
ところが越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が立ちはだかったことで事情が違ってきます。景虎を破るには全力をぶつけねば勝ち目はありません。そのためには背後を安全にしておく必要があったのです。
次に駿河の今川氏ですが、かつては尾張の半分を手中に収めていたのですが、台頭してきた織田信秀(信長の父親)によって那古屋城が奪われ、せっかく築いた地盤を失ってしまいます。
そして今川氏内部のお家騒動のあと、家督を継いだのが今川義元でした。かつて今川氏が領した尾張を取り戻すという悲願があり、西へ戦力を振り向けたい義元にとって、北と東の安全を確保するのは大きな課題だったようです。
相模の北条氏も事情は同じでした。北条氏綱の代になって今川氏から独立を果たし、領地争いが起こるたびに敵対関係にありました。また次の氏康の代になると、山内・扇谷上杉氏と大規模な抗争を繰り広げます。
やがて今川氏と和睦した氏康は、河越城の戦い(1545年)で両上杉氏を打ち破ることに成功。しかしながら上杉氏の勢力はまだまだ根強く、関東の北へ覇権を広げるためには背後の憂いをなくすことが肝要でした。ここで武田と今川の脅威を除かねば、思い切った勢力拡大は望めなかったのです。
善徳寺の会盟は創作か
こうした背景があった中、ついに三国同盟が成立します。巷説では太原雪斎の呼びかけで「善徳寺の会盟」が成ったとされていますが、これは史実ではありません。第一、しのぎを削り合う戦国大名同士が一堂に会するのはリスクが高すぎます。これは後世に書かれた軍記物の演出に過ぎません。
実際には天文21年(1552)、まず今川義元の娘・嶺松院が武田晴信の嫡男・義信のもとへ輿入れし、翌年に晴信の娘・黄梅院が北条氏康の嫡男・氏政へ嫁いでいます。
さらに天文23年(1554)になると、氏康の娘・早川殿が今川氏真へ輿入れしたことで同盟が完結しました。三者が同時に示し合わせたわけではなく、おそらく自然な流れによるものでしょう。
ところが三国同盟は15年ほどで破綻を迎えています。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にしたことで、三国間のパワーバランスが崩れました。その間隙を衝いて武田信玄が駿河へ侵攻したことにより、同盟に終止符が打たれたのです。そののちも武田氏と北条氏による甲相同盟が結ばれますが、8年ほどで破綻しています。