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#翻訳
山の記憶、「山」の記憶
今回は、川端康成の『山の音』の読書感想文です。この作品については「ひとりで聞く音」でも書いたことがあります。
◆山と「山」
山は山ではないのに山としてまかり通っている。
山は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通っている。
体感しやすいように書き換えると以下のようになります。
「山」は山ではないのに山としてまかり通っている。
「山」は山とぜんぜん似ていないのに山としてまかり通って
小説の執筆をライブで観る
今回は、以前に投稿した記事を加筆および再編集してお届けしております。長い記事なので、下の目次をご覧になり、興味のあるところからお読みください。盛りだくさんな内容になっています。
*小説の執筆をライブで観る
小説はどのようにして書かれるのでしょう? ただし、書店や図書館に置かれている小説に話を限定します。
作家さんが原稿用紙に向って、またはパソコンの画面に向って手と指を動かして書いているに
壊れる、崩れる(文字とイメージ・06)
「こわれる、くずれる(文字とイメージ・05)」の続きです。
コワレル、クズレル
壊れる、こわれる、コワレル。崩れる、くずれる。クズレル。
こわれる。コワレル。kowareru――「a」と「k」のせいでしょうか、どこかかん高い。
くずれる。クズレル。kuzureru――「u」が二つで「z」があるせいでしょうか、どこか低い響きが……。
イメージは個人的なものです。なかなか人には通じませ
壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)
今回は「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」の続きです。
「散文について」という連載を始めます。私は一般論やなんらかの分野の専門用語や学術語には疎いです。そんなわけで、ここでは私にとっての散文と小説について書きます。
*最初から壊れている
文学史的なことは知りませんが、私にとって散文とは最初から壊れているものというイメージがあります。
何をどんなふうに書いてもいい形
「やま」に「山」を当てる、「山」に「やま」を当てる(言葉の中の言葉・02)
今回は「あなたとの出会い」で見た詩を、違った視点から見てみます。
*翻訳された詩
上田敏訳の「山のあなた」(『海潮音』より)というカール・ブッセ(上田敏はカアル・ブッセと表記しています)の詩を見てみます。
この詩は青空文庫でも読めますが、だいぶ下のほうにあって、探しづらいかもしれません。
*
まず、訳詩です。
以下は、ドイツ語の原文です。
残念ながら私はドイツ語に
続・小説にあって物語にはないもの(文字について・04)
今回は「小説にあって物語にはないもの・03」の続きです。前回は、小説にあって物語にはない、空白とまっくろ黒なページについてお話ししました。
「小説にあって物語にはないもの」とは、たとえば音読すると伝わりにくかったり伝わらないものだとも言えます。小説は視覚芸術だと考える私にとって、小説では目で鑑賞できる部分にはできるだけ目を注いでやりたいという気持ちが強くあるのです。
ただし、小説の朗読やオ
顔(散文について・02)
再掲です。
*「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」
*「壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)」
今回は、上の記事の続きですが、以前に散文――「何をどんなふうに書いてもいいもの」と私はイメージしています――を模索=模作していたときに投稿した文章を再投稿します(少し加筆してあります)。
散文は眺めるものだ、とも私はイメージしているので、
敬体小説を求めて(散文について・04)
「敬体・常体、口語体・文語体(散文について・03)」の続編です。
*敬体と常体
あれは「です・ます調」で書かれていた、とはっきり記憶している小説があります。童話や昔話を除いての話です。
どんな文体だったかを覚えている小説はそんなには多くないのですが、敬体で書かれた小説として、それがとくに印象に残っているのは、お手本にしたからなのです。
私はエッセイのたぐいはだいたい「です・ます体」で書