山田宏一 『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』 : 殉教者と転向者
書評:山田宏一『友よ映画よ、 わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(話の特集 1978年、増訂版1985年/ちくま文庫 1992年/平凡社ライブラリー 2002年)
一昨年(2022年)10月に、予備知識なしで初めてジャン=リュック・ゴダールの映画を見て以来、この人が、あるいはこの人の作品が、どうして「別格」扱いされ、あるいは「神格化」されているのかという疑問を抱いた結果、日本のゴダール研究の第一人者であろう、映画評論家の蓮實重彦の著作に導かれるようにして、ゴダール自身の作品は無論、ゴダールら「カイエ・デュ・シネマ」派の批判対象であった「古いフランス映画」までも含め、それまで見たことのなかった古いモノクロ映画やひと昔前の映画まで見るようになった。
そして、朧げながらも映画の歴史というものが少しは見えてきたので、そろそろゴダールとともに語られる「ヌーヴェル・ヴァーグ」なる、1950年代から60年代のフランスを中心に勃興した映画の革新運動についても、その基本知識を仕入れることにした。
これまでそうした「映画史」的なものを読まなかったのは、歴史の教科書と同じで、登場人物に関する知識が皆無では、単なる丸暗記にしかならず、その理解が浅いものにならざるを得ないと考えたからだ。
そんなわけで、自分としては、およそ2割がたほどの知識を仕入れられたと感じたので、いよいよ本書を読むことにした。以降は、その映画史的な知識に沿って、さらに関連するところを押さえていけば、ある程度は体系的な把握ができるはずだと考えたのである。
もちろん本当は、見るべき映画をもっとたくさん見てからの方が良かったのかもしれないが、あいにくなことに私の興味は「映画」が中心というわけではないし、「映画」が特に好きというわけでもない。今に至っても、やはり私の興味の中心は「文学」であって、「映画」については、あくまでも「ジャン=リュック・ゴダール」という「存在の謎」を解くための、娯楽を兼ねた「資料漁り」みたいな感じなのだ。したがって、そればかりをやる気はなく、おのずとそれに割ける時間も限られるから、完璧を期するというわけにもいかない、という次第である。
だがまあ、どんなジャンルであれ、「マニア」というのは、片っ端から作品に接しているわりには、意外に勉強していない(得た知識を、検討整理していない)から、そのジャンル理解も、意外に大したことはないものだ。このことを私は、これまでの「文学」畑での経験から知っていたので、映画マニアや映画評論家ほどの「ジャンル的な知識」はなくても、ここ2年間ほどの勉強だけでも、こと「作品理解」や「作家理解」ならば、さほど遅れをとることもあるまいと、そう高をくくって考えたのである。
ともあれ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」に関する入門書というのは、意外にない。日本人が書いた本で「ヌーヴェル・ヴァーグ」をタイトルに冠した(含めた)ものというのは、本書ほか数冊くらいしか見当たらないのだ。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」最大のスターであり、映画ファンではなかった私の耳にすら、その高名が届いていた、そんなゴダールの名を冠した本ならばいくらかはあるのだが、それとて両手で十分なのではないだろうか。
まして、ゴダールと並び称されることの多い「ヌーヴェル・ヴァーグ」のスターであるフランソワ・トリュフォーとなると、本書著書の紹介書か翻訳書くらいしかないのではないか。
つまり、ことほど左様に、「ゴダール」「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、「映画」の世界においても、決してメジャーな話題ではなく、一部でなされるマニアックな「史的重要性」における議論の中でしか語られないもののようなのだ。広く「映画ファン」の中において、そのあたりまで興味のある人は、100人に5人もいないのではないか。「映画は楽しく見るための娯楽であって、何やら小難しい議論をしている、エリート臭プンプンのそのあたりの話には興味がない」という人が多いように見受けられるのだ。
実際、日本人の書いた「ヌーヴェル・ヴァーグ」に関する入門書が、本書くらいしか見当たらないとすると、翻訳書とて数冊というところだろう。翻訳しても、たいして売れないのは目に見えているからだ。
しかし、それなら、手軽に読める本書は、少なくとも「ヌーヴェル・ヴァーグ」に興味のある「映画マニア」ならばみんな読んでいるのかというと、またそうでもないようなのだ。
というのも、Amazonの本書(各版)のページを確認してみると、お手軽な点数評価だけの投票でさえ5つにも満たず、レビュー投稿は皆無だからである。つまり、あまり読まれていないし、ましてや、褒めるにしろ貶すにしろ、積極的に論じられてもいないということである。
本書を読むとわかることだが、1950年代、映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に集った若い論客の中で、のちに映画監督としての最も成功した2人として、ゴダールとトリュフォーの二人の名前が「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代名詞のごとく並び称される。
だが、当初「フランス映画界改革の同志」だった二人は、のちに決裂して、対照的な道を歩むことになる。
簡単に言えば、ゴダールは「映画における作家主義」を原理的に追求し続けたが、トリュフォーは評論家時代の先鋭な改革主義を捨てて「大衆路線」に転向したのだ。
で、本書の著者は、1950年代末から60年代初頭にかけての数年間、フランスに留学して、「カイエ・デュ・シネマ」派を含む、フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の面々と直接交流した人で、もちろん、ゴダールとトリュフォーの両方にも面識があったのだが、いささか気難しいゴダールには親しみきれなかった反面、トリュフォーの方には、ある種の「恩義」もあれば、なによりその接しやすい人柄において、その後、明らかに「トリュフォー派」となった人だと、そうここで断じておいても良いだろう。
今の日本では、蓮實重彦(あるいは、松浦寿輝、四方田犬彦、浅田彰など)の「ゴダール推し」などもあって、圧倒的にゴダールの方が「神格化」されているので、トリュフォーの肩を持つ傾向のある本書著者は、その点で「ヌーヴェル・ヴァーグ」に興味を持つ、日本の「映画マニア」層から、あまり信用されていないのではないかと疑われるふしがある。
そうした疑いの根拠の一例が、本書の最新版にあたる「増補」版(平凡社ライブラリー版・2002年刊行)のAmazonページを見るとと、評価はたった2つで、しかもそれは、「5点満点」と、最低の「1点」が投じられているだけといった具合なのだ。
つまり、日本において「ヌーヴェル・ヴァーグ」全体を語れる人が、ほぼ本書著者一人に限られるにも関わらず、本書著者は、その「トリュフォー派」バイアスを疑われて、あまり信用されていないのではないか。むしろ積極的に、本書著者を嫌っているゴダールファンが少なくないのではないかという、そう疑われるのだ。だからこそ、貴重な「語り手」であるにも関わらず、意外に読まれていないのではないだろうか。
ちなみに、日本でのゴダールの「権威」と呼んで良いだろう蓮實重彦は、本書著者のように、「ヌーヴェル・ヴァーグ」派と広く直につき合いがあった人ではなく、むしろ、映画評論家としては先輩に当たる本書著者に「個々に繋いで(紹介して)もらった」という立場のようだ。
だからこそ、共著もあれば、蓮實が選考者となった「第1回Bunkamuraドゥマゴ文学賞」を、本書著者の『トリュフォー ある映画的人生』に与えたりしている。
この文学賞の面白いところは、選考委員が1人だけであり、それが毎回変わるという方式を採っているところだ。「平均点の高い、無難な作品が受賞する」という協議性の弊を排するための選考方式だが、言い換えれば、選考委員が好き勝手に選べるということだし、蓮實重彦ならコネをつけたり恩義のある人への「土産」がわりにこの賞を贈るくらいのことは平気でするだろう。だから、本書著者の同賞受賞も、そうした「政治的なもの」だと考えて、まず間違いない。要は、それが許される賞なのである。
だが、こうした「著者の立ち位置」に由来する、各種の「バイアス」を計算に入れて本書を読むならば、本書は十分に役にたつ資料である。
「評論」と思えば突っ込みが浅いし、前述のとおりポジショントークの気味もあって、信用ならない部分も多々あるのだが、それでも、それなりに妥当な「事実」を掘りおこすことは可能だからである。
言い換えれば、私はそのようにして本書を読んだ、ということだ。そして、その上で言えば、本書は、読む価値のある「資料」だし、十分に興味ぶかく面白い一冊だと評することのできる好著となってもいるのである。
さて、「私とゴダールとヌーヴェル・ヴァーグの関係」の説明は以上として、ここからは「ヌーヴェル・ヴァーグ」というもののアウトラインを紹介しておこう。それをしないと、多くの人にはチンプンカンプンな話になってしまうからだ。
いつものように「Wikipedia」を引用しても良いのだが、それだけでは、ある程度の事情を知っている人でないと、きっとピンとこないはずなので、映画のド素人から勉強し始めた私の説明の方が、きっと分かりやすいものになっているはずだ。
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「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」というのは、1950年代から60年代かけて、フランスを中心に巻き起こった「映画の改革刷新運動」のことであり、また、それによって生まれた映画作家や作品の総称である。
もちろん、この「ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉は、あとから付けられた便宜的な名称なので、どの範囲を指すのか、その明確な「定義」があるわけではない。また、その意味で、「広義のヌーヴェル・ヴァーグ」と「狭義のヌーヴェル・ヴァーグ」があると言って良いだろう。
「広義のヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、フランスを中心に巻き起こった「映画の改革刷新運動」と時を同じくし、相互の影響関係などから発生してきた、西欧を中心とした諸外国の「新しい作家たち」までをすべてを含めた考え方であり、「狭義のヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、そうした運動の「発火点」であり中核を担った、フランスの「映画の改革刷新運動」と、その成果を指すと、そう考えて良いだろう。
したがって、本稿で語られるのは、後者の「狭義のヌーヴェル・ヴァーグ」つまり、1950年代に始まる、フランスの「映画の改革刷新運動」の帰趨である。
1930年代半ばまでの映画というのは、今と違い、「新作しか見られない」というのが「当たり前」であった。
今のように、古い作品を上映する「名画座」があるわけでもなければ、まして個人所有のビデオテープだのDVDなどがあったわけではなく、映画というのは、映画館に掛かっている「新作」のことだった。
言い換えれば、上映期間の過ぎた映画のフィルムは、用済みとして廃棄されていたということである。一般公開がなされて、見る人たちが見れば、あとはもう上映の機会がない「ゴミ」にすぎなかったのである。
ところが、そうして捨てられたフィルムを拾って帰る「映画マニア」が現れ、そうしたフィルムコレクションの上映会を始めだした。いまなら著作権がどうのという話になるけれども、当時は、すでに使用価値のなくなったフィルムのことなど、映画関係者は誰も問題になどしなかったのである。
そして、こうした「映画オタクによる、映画フィルムコレクションの上映会」が、いつしか「文化遺産保護」という観点から、公的な補助を受けるようになった。これが「シネマテーク」というものの始まりである。
そして、こうした「シネマテーク」のフィルムコレクションが充実し、公的扶助もあって低価格で見られるようになると、若者たちは「新作」だけではなく「旧作」までも、すべて網羅的に見ることが可能となってくる。なにしろ、映画が発明されたのは1900年ミレニアムの数年前であり、商業映画が作られ始めるのは1920年代からなので、残っているフィルムのほとんどぜんぶを見ることも可能だったのだ。
で、そういう「シネマテーク」に日参するフランスの映画オタクの若者たちの中から「昔の映画の自由さに比べて、今の映画界はあまりにも制度化して硬直している」という不満を持つ者が出てきた。
この当時のフランス映画界は「助監督を20年務めて、やっと映画を撮らせてもらえる」というような、大手映画撮影所における「徒弟制度」的なものが、確固として出来上がっており、映画の作り方も「職人的な伝統的規範」に縛られたものであって、およそ「自由」というものがなかった。また、作られる作品の多くが「文芸作品」のような優等生的なものばかりで、若者を満足させるものではなかったのだ。
映画監督というのは、与えられた素材(文学作品)などを、いかに巧みに映像化するかという職人芸の世界であって、自己を表現するといった、現代的な「表現芸術」などではなかったのである。
そこで、1950年代初頭に創刊された映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に集った若き映画マニアたちが、こうした「古い映画界」の旧弊を批判し始めた。
「映画はもっと自由なものであるはずだ。昔の映画監督は二十代で映画を撮り始めたのに、今の映画監督は年寄りばかりで、若者にチャンスが与えられないから、おのずと映画も死んでしまったのだ」と、要は「今の映画は古い! 封建的で権威主義的な年寄りは去れ!」という論陣を張り始め、さらにはそうした若い評論家たち自身が、相互扶助的に低予算映画を作り始める。その結果、従来の型にハマらない、その自由な斬新さにおいて耳目を集め、やがて絶大な支持を集める作家たちが出てきたのである。一一その代表格が、ゴダールやトリュフォーだったというわけだ。
もちろん「カイエ・デュ・シネマ」の同人だけが「新しい映画」を撮ったわけではない。
彼らの影響を受けた同時代の若者たちの中からも「新しい映画」を撮る才能は出てきたのであり、そうした人たちを総称して「ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ぶのだが、ただ「ヌーヴェル・ヴァーグ」の発火点となった「カイエ・デュ・シネマ」の同人だった映画作家たちのことを便宜的に「左岸派」と呼び、それ以外のフランスの作家のことを便宜的に「右岸派」と呼んだりする。彼らの群れ集った場所が、セーヌ川の左岸か右岸かで区別したもので、もちろん厳格な区分ではないし、両者には交流もあった。彼らは皆「ヌーヴェル・ヴァーグ」なのだ。
ただし、「カイエ・デュ・シネマ」派(左岸派)のメンバーには、俺たちが新しい流れを作ったのだという自負があった。「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、「古い映画界」を理論的に攻撃することでこそ切り開かれた道なのだから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは「批評意識」があってこそのもの。したがって、それを無くして、ただ何となく時流に乗って作られた「新しい映画」は、真の意味での「ヌーヴェル・ヴァーグ」ではないと、おおよそこのような自負があったようで、「カイエ・デュ・シネマ」派こそが「ヌーヴェル・ヴァーグ」の牙城であり中心だと自己主張することもあったから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」と言えば、まず「カイエ・デュ・シネマ」派(左岸派)のことだというイメージが醸成され、日本でものそのように理解する人が多かった。「本物のヌーヴェル・ヴァーグとは、カイエ・デュ・シネマ派(左岸派)のことだ」という、いささか「権威主義的」かつ「原理主義的」な考え方が、それである。
ともあれ、そんな経緯で、ゴダールに代表される「カイエ・デュ・シネマ」派は、「作家主義」を標榜した。
映画は「物語を映像に落とし込む職人芸の娯楽作品」などではなく「作家が、自分の個性を表現するための(小説や絵画と同様の)メディア芸術だ」というような考え方である。だからこそ、彼らの作品は、それまでのフランスの「古典的な映画」や、あるいは「ハリウッドの娯楽映画」とは違って、独創的かつ「わかりにくい」作品が多いということにもなった。
「文学」との比較で言うなれば、フランスの「古典的な映画」は「お上品な大衆小説」であり、「ハリウッド映画」は「SFやミステリーなどの娯楽通俗小説」だが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画は「純文学」あるいは「前衛文学」的な映画だということである。彼らは、観客に娯楽を提供するために映画を作るのではなく、自己を表現する、自分にしか作れない映像表現を求めたのだった。
だが、こうした「芸術至上主義」的な「理想」は、「映画」固有の特性によって、本質的な困難にぶち当たる。それは「制作に金がかかる」と、きわめて現実的な困難だ。
小説や絵画なら、さほど金もかけずに、一人で勝手に作れるけれども、映画はそうはいかない。
彼ら自身が理想としたような映画を撮ろうとすれば、それはそれなりに金がかかってしまうので、その資金調達という面で、理想どおりにはいかず、不本意な妥協を強いられる部分も出てくるのである。
つまり、端的に言えば、大衆が理解不能な、客の入らない芸術的映画には、資金が集まらないから、そうした映画は作れない、というジレンマだ。
したがって、「カイエ・デュ・シネマ」の同人として、型通りの映画を批判しきた批評家出身の映画監督たちも、自分たちが映画を撮るようになると、そうそう「原理主義的な作家主義」を唱えてばかりもいられなくなり、金を出してくれるスポンサーとの妥協を余儀なくされるようになる。つまり、これまで言ってきたことと、実際にやっていることの乖離が目立つようになってきたのだ。
そして、そうした「矛盾」が決定的なものとした露呈するきっかけとなったのが、1968年のカンヌ映画祭における「ヌーヴェル・ヴァーグ」たちの行動においてであった。
1968年というのは、世界的な、学生たちの叛乱の年である。
なぜ、この頃学生たちが反抗叛乱したのかといえば、それは戦争からの復興を経て、社会の「保守化」が進み、その一方、世界では「ベトナム戦争」をはじめとした帝国主義の専横が目立ち始めていたからだ。だからこそ、学生たちは「反体制」を掲げて「自由を守れ」という声をあげ始めた。
特に、「フランス革命」の国であるフランスは、なによりも「自由」というものを尊ぶので、「保守化」には強い抵抗を示すわけだが、こうした「心性」があってこそ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」も、フランスから始まったと見て良いのである。
したがって、「カイエ・デュ・シネマ」は、1960年代後半は、明確に「政治化」し「左傾化」していた。「映画芸術と思想と政治」は切り離し得ないものという立場を強めたのである。
だからこそ、叛乱の年である「1968年」において、相変わらず「のほほんと」映画祭を開催しようとしていたカンヌに対して、「カイエ・デュ・シネマ」派を中核とした「ヌーヴェル・ヴァーグ」の作家たちは、同映画祭開催中止の実力行動に出たのである。
そして、その中でも、最も過激だったのが、実はトリュフォーであった。
彼は、批評家時代において「古い作家」たちを徹底的に攻撃したし、そのなかには、作家の「身体障害」を揶揄うような、悪意や敵意を剥き出しにした、暴力的な言説さえ見られた。
要は、当時日本でも流行った「造反有理」ということで、虐げられて反抗する側は、支配者たちを対してなら、どのような攻撃も許されるのだという「極左」的な考え方であり、トリュフォーは、そんな立場の先頭にに立った批評家だったのである。
しかし、すでに彼も映画監督デビューし、その処女長編『大人は判ってくれない』(1959年)は、『第12回カンヌ国際映画祭に出品されると大絶賛を浴び、監督賞を受賞。作品は大ヒットを記録し、トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。』(Wiki)後だった。
つまり、「カンヌの権威の恩恵」に十分浴したはずのトリュフォーが、有名監督になって10年後には「カンヌなんて」という批判を、誰よりも(ゴダールよりも)激しく行ったのである。
だがまあ、それはいい。それとこれとは、本質的に話が別だったのだが、この「カンヌ事件」以降の、トリュフォーの露骨な「転向」が批判を浴びることになる。
カンヌ映画祭中止行動の際には、あれだけ先鋭だったはずのトリュフォーが、その後、「商業主義」に基づく映画祭や、映画界の「商業主義」にも理解を示す、穏当無難な立場を採るようになったのだ。
例えば、前記のカンヌ映画祭においては、最も先鋭であってもおかしくないゴダールが「お祭りイベント的なものだけを中止にし、映画の上映そのものはすれば良い」という穏当な立場だったのに、トリュフォーは「そんな不徹底なものではダメだ。完全な中止でなければならない」という立場を主張し、この映画祭阻止行動は、そちらへと引っ張られていったのである。
「シネマテーク・フランセーズ」とは、前述のとおり、「映画オタクのフィルムコレクション上映会」から始まったもので、その文化的な価値を認められて、公的な扶助を受けるようになってからの名称だ。
そして、この「シネマテーク・フランセーズ」の礎を築き、長らくここの責任者をやっていたのがアンリ・ラングロワだったのだが、要は、お国は「いつまでもオタクに責任者をやらせておくわけにはいかない。然るべき人物を責任者につけて、しかるべき方向性で管理されるべきだ」と考えて、アンリ・ラングロワをお払い箱にしたというわけである。
ところが、この「映画オタクのラングロワおじさん」に育ててもらったも同然の「カイエ・デュ・シネマ」の面々は、これに激怒した。「許すまじき国家権力の横暴だ!」と「シネマテーク・フランセーズ擁護委員会」を結成して抵抗運動をはじめ、その最も過激な抗議行動が、フランスのカンヌ映画祭での示威行動だった、というわけである。
要は、若者にはありがちなことだが、正義を掲げて派手に暴れたまでは良かったのだが、その後、自分たちの映画作りに差し障りが出てきた結果、腰砕けになってしまったということであり、特にトリュフォーの場合は、最左翼の過激なアジテーターであったにも関わらず、その後は自分だけ外国資本とうまくやって、「カイエ・デュ・シネマ」派の原理である「作家主義」を捨てまではしないものの、「大衆」重視の態度をとって、無難に商業主義の映画界を渡る道を選んだのである。
一方、ゴダールの方は、「作家主義」の原理を貫き、さらに「反体制」「反巨大資本」を掲げて「政治的な前衛映画」を撮るようになってなっていった。これが、ゴダールが、自分の名前を捨て「ジガ・ヴェルトフ集団」を名の下に行った活動である(1968年 - 1972年)。その後、1980年代に入って「第二の処女作」である『勝手に逃げろ/人生』(1979年)で商業映画への復帰を果たすにしてもである。
そんなわけで、「68年のカンヌ」以降のゴダールとトリュフォーは、修復不可能な決裂関係となった。
さて、ここで問題となるのは、「カンヌ映画祭中止事件」の頃とは違って、明らかに本書著者である山田宏一の、トリュフォーに対する態度が、軟化どころか、ほとんど方向転換して好意的になっている、という事実である。
先にも指摘したとおり、もともと本書著者は、ゴダールよりもトリュフォーに親しみを感じていた人ではあったのだが、さすがにトリュフォーの露骨な「手のひら返しの転向」を見せつけられては、「なんだあいつは!」となるのも、むしろ当然のことであろう。
ではなぜ、いったんは「世間なみ」に、トリュフォーを「裏切り者の転向者」だと非難した本書著者が、いつの間にか「トリュフォー派」に、再転向したのであろうか?
もちろん、これは内心の問題だから、その真相を正確に知ることはできないのだけれども、当たり前に考えれば、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の現地体験をひとつの売り物とし、一方「ゴダール的な前衛映画」にはついていけない「凡庸な評論家」でしかない山田が、それでも自身の「ヌーヴェル・ヴァーグ」体験を、実のある売り物にし続けるには、無難にトリュフォーとの関係を回復した方が「経済的に得策」だったから、ではないだろうか。
つまり、トリュフォーが「映画監督として食っていくために転向した」のと同じように、本書の著者である山田宏一は「映画評論家として食っていくために(わかりやすいトリュフォーの方へと)再転向した」のではないのか。
少なくとも、そうした「常識的な推測」を否定するような事実を、本書に見出すことはことはできなかった。
例えば、上に引用したとおり、山田は「トリュフォーの転向」を正当化する「理屈」として、次のように書いている。
要は、トリュフォーが言うのは「私は、自分の若気の至りを正直に認めて反省したから、寛容になったのだ」ということであり、それに対し「ゴダールは、自身の若気の至りを認められない、意気地なしの、人でなしだ」と、そういう理屈である。
しかし、この程度の「ペテン」で誤魔化されてはいけない。
「本読み(文学ファン)」なら、この程度の「泣かせのレトリック」に、うかうかと乗せられたりはしないのだ。
たしかに「自分の若気の至りを正直に認めて反省し、寛容になる」こと自体は大いに結構なことなのだが、しかし、「自身の若気の至りたる、過去の誤りであり悪行」を認めたのであれば、当然その「責任を取って、罪を償わなければならない」。
つまり、大先輩の映画作家たちを「誹謗中傷」したあげく、その作家生命を奪ったりしておきながら、「あれは間違いでした。反省します」だけでは済まされない、ということだ。
本当に「反省」していると言うのなら、自己の過去の「悪行」の「被害者」たちに対して、当然の「償い」をしなければならない。
誹謗中傷した相手に対し、個々に、公に謝罪して、与えた被害に対しての「弁済」もしなければならない。彼らの「名誉回復」を行い、彼らが以前同様に「映画を撮れるように、環境を整え直さなければならない」はずだ。
自分が映画を撮るのは、そうした「償い」を済ませてからの話のはずなのだが、果たして、そうした「当然の償い」をした上で、トリュフォーはこういう「ご立派」なことを宣い、さらにはゴダールのことを「無反省なやつ」呼ばわりしているのだろうか?
そんなことはないはずだ。
本書でも書かれているとおり、トリュフォーは『フランスの五大映画製作配給会社のひとつだったコシノールの社長イニャス・モルゲンステルヌのひとり娘マドレーヌと結婚してプロダクション「レ・フィルム・デュ・キャロッス」を設立し』たとはいっても、その後は「左うちわ」で好きに映画を作っていたというほど甘い話ではなく、現に映画がヒットしなければ、自分の作りたい映画でさえ、作りたいように作れるわけではなかったのである。
つまり、ご当人が「自分のことで精一杯」なのに、過去に「フランス映画の墓掘り人」として葬ってきた人たちの遺体を掘り返し、新たに作った立派な墓に埋め直すなんてことなど、している暇はなかったはずなのだ。
したがって、トリュフォーのいう「反省しました」というのは「口だけ」であり、なんら「行動=償い」を伴ったものではない。
要は「反省していると言ってるんだから、過去のことをいつまでも掘り返すなよ」というのが、トリュフォーの態度であり、その本音なのである。
いずれにしろ、この程度の理屈(擁護論)だけでもって、本書の著者・山田宏一は、トリュフォーの言い分にも「一理ある」と、そう言いたいようだが、私に言わせれば、こんな自分さえ良ければそれでいいというようなやつ(トリュフォー)を信用しろという方が無理だし、また、こんなやつを信用している振りをするようなやつ(山田宏一)も信用ならないと、そう断じておこう。
山田宏一は、続けてこう書いている。
何も難しいことは言っていない。
要は「私は、二人に関して、責任ある判断はできないけれど、トリュフォーって、結局は、愛の人だったんだよ。私はそれを信じる」と、ただそれだけ。
説明責任を回避しつつ、泣き落としで同情を買おうとしているだけ、なのである。
しかし、私はこうした「耳障りの良いことばかり言っているやつ」など信用しないし、まして「愛」などという言葉を、軽々に口にするやつなど、とうてい信用できない。
「愛を語るペテン師」を「愛の作家」だと評して、自分まで「愛の評論家」であるかのごとく美化してみせる、厚かましい奴など、とうてい信用できないし、すべきでもないだろう。
本書「平凡社ライブラリー版」の解説を、音楽家の小西康陽が書いており、その締めくくりの言葉は、本書著者の期待どおりのそれである。
「読めないやつ」とは、こういう人のことを言うのだ。甘ったるい言葉に、まんま酔わされてしまう。
こんなのが、歳をとって「投資詐欺」にでも騙されれば、「信じたのに!」とか言って、自分の甘さを全く反省しないような手合いなのだと、そうも言えるだろう。
それに比べれば、私は、ゴダールの頑固で不器用な生き方の方に、よほどの好感を覚える。
これまで書いてきたゴダール関係の私のレビューを確認してもらえばわかるとおり、私は、ゴダールの「作家主義が過ぎた独善的芸術主義的な作品」が好きではない。
この人は、『気狂いピエロ』や『軽蔑』のような、だれもが感心できる作品だって、撮ろうと思えば撮れる人なのだが、そのストイックな理想主義のゆえに、どんどんと脱俗して浮世離れした変人になっていった人なのだ。
もちろん、私自身は「快楽主義者」を自認する人間だから、ゴダール的な生き方は、意固地な「貧困化」だと思う。もっと、世間並みに「快楽」を求めることもできたはずなのに、彼は自身の「信念」と「美意識」に殉じて、枯死していったのだ。
そして、彼がこのような不器用な生き方しかできなかったのは、結局のところ、「楽しみが、映画を作ることしかなかった」からであろう(女は別にして)。
端的に言えば、「映画」というものが「金のかかるもの」であり、そのために「理想と現実」のギャップに苦しまなければならないのなら、「映画」などやめて、「アート」でも「文学」でも何でもいい、金のかからない「他の表現方法」を追求すれば良かったのである。
だが、不幸なことに、彼には「映画」の代わりになるようなものが、何もなかった。
だから彼は、その映画への「届かない愛」のゆえに、その身を削らなければならなかったのだろう。その意味で私は、ゴダールという人が「不幸不運な人」であり、その点についての同情を禁じ得ないのである。
まさに「映画が、何ほどのものなのか」と、そう言わざるを得ないのである。
(2024年3月26日)
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