今週末、法事があるため土日の2日間お休みいたします。来週の月曜からまた再開いたします。宜しくお願い致します。
パリオリンピックが始まりました。昨晩は埼玉の友人宅で男子バスケと柔道、ハンドボール、サッカー日本代表などを観戦しました。今年の夏はいろんな意味で、暑く(熱く)なりそうです。これからラーメンでも食べて茨城に帰ります。
この地球は水の星であり、水が循環することで生命が育まれる。だから水の流れを止めてはいけないし、水を澱ませてはいけない。澱むとは滞ることであり、滞れば成長が止まる。成長とは進化を意味し、我々が進化をすることで、この宇宙も進化する。全は個であり個は全である。水一滴の性質が全体を表す。
柔軟とは洗練でもある。場面場面に応じて柔軟な対応ができいるということは、たくさんの経験をした上で状況に応じた態度を取れるようになることであり、それは洗練された行為と言い換えることができる。柔軟さは、経験から生まれた哲学を相手に愛のある行為を提供することで生まれる。柔よく剛を制す。
行雲流水には、「空をゆく雲と川を流れる水のように執着することなく事に従って行動する」という意味がある。雲無心という禅語は、「雲が風に吹かれて自由自在に姿を変えても雲である本質に変わりがなない」と語っている。雲は自由な姿の比喩である。我々も、雲のような柔軟さ習得すれば自由になれる。
冷静さの背後には、たくさんの経験が存在し、経験によって得られた知恵が、人を冷静にさせる。知恵とは分析する力であり、分析された知恵を状況に合わせて使い分けることでもある。そういった判断力を得られるようになると、人はどんなときでも冷静に対処できるようになる。冷静さと経験数は比例する。
ひとり一人が太陽のように燦々と輝けば、世界は変わる。自らを光り輝やかせて生きるには、楽しいと感じることをすればいい。人には必ず自分を輝かせる力を持っている。そういった力を活用していくだけで、自然体で輝きを放てるようになる。誰もが燦々と光輝けば、平和で自由な喜びの世界が誕生する。
上善は、自分に対する愛と他者に対する愛のバランスで成り立つ。自分が満たされていないのであれば、まずは自分を満たすことが上善となるし、自分を十分に満たすことができている人は、他者にたくさんの愛を捧げることが上善となる。最高の善は、純真な思いから生まれ、それに従うことで達成される。
水は高いところから低いところへと流れていく。山の頂を目指すより、海に向かって流れていくのが自然の理。水は重力という自然の秩序に従うことで循環を生み出している。我々も、この宇宙の法則に従って生きていけば、無理をすることなく生きていける。宇宙の法則に即していれば、水の如く生きられる。
これからは制限を外していく時代となる。知らず知らずのうちに自分で作り出してしていた制限を取り除き、生れ持った潜在意識を顕在化していけば、我々の可能性は無限に広がる。眠った意識を喚起するには、喜びの意識が欠かせない。喜びから生まれる気づきは無限。新たな気づきが新しい世界を創造する。
今日は、これから地元の友人と静岡県の清水に行ってサッカーJ2の「清水エスパルスVS水戸ホーリーホック」の試合を観てきます。ちなみに僕らは茨城在住ですが友人はエスパルスファンで、僕は特に贔屓にしているチームはありません。そんなわけで、記事の仕込みができないので、明日はお休みします。
弥栄(いやさか)とは、「より一層栄える」という意味で、互いの喜びを提供し合うことで生まれる意識だと思う。我々は、本来、与え合うことで共存共栄できる存在であり、一人ひとりの得意を出し合えば、無限に進化していける。弥栄の精神が、平和で豊で喜びに満ちた世界を生み出すパワーとなる。
好奇心を大切に育てていけば、それが探求心や向上心に変化し、自分の心に火を灯すことができる。明確な理由がなくても、惹かれることにチャレンジしていけば、やがて自分自身を光輝かせることに出会うことだろう。直観という啓示のもとにハートに火をつければ、人生の扉が愉快な方へ開いていく。
何かに没頭し探求できることは喜びである。探求心は知りたいという欲求から生まれるものでであり、探求し続ければ新たな好奇心が次々と生まれ、多くの時間を喜びで過ごせるようになる。自分の好奇心を満たそうと探求し続ける限り、人の精神は老いることもない。探し究めることで、人は幸せを獲得する。
我々は、日々、天の恵みを受け取って生きている。生活環境も食べ物もすべて天の恵みであり、この身体も天の恵みといっていいだろう。天恵とされることは、当たり前と感じることも多いけれど、そういった当たり前なことに感謝して生きることができると、天とひとつになって幸せに生きられるようになる。
鼓動は、今の自分の感情を教えてくれる。鼓動が早くなるときは、プラスとマイナスの作用がある一方で、リラックスしているときや何かに集中できているときは、落ち着いたものとなる。普段から鼓動を意識していると、精神に落ち着きをもたらすことができる。心身は常に一つ。鼓動は常にいまここにある。
私は字が下手。 親に習字に通わせてもらっても、無駄金だったと反省。 ただ、この下手なおかげで、私の筆跡を真似できる人がほとんどいない。 また、字が下手なおかげで大学当時、ワープロや一太郎の取り扱いができた。 オーストラリア、さらに私のサインは偽造できない様子。 短所を長所に
知らないことを知りたいという思いを持って行動するとき、好奇心が湧き上がる。好奇心には、これから楽しんで過ごしていけるという期待感と目的が達成したときの喜びの感情が含まれていて、それがワクワクという思いを生み出す。瞳を光り輝かせて生きるとき、人の心は純粋になり透明度を増していく。
静謐とは、「静かで安らかなこと」「世の中が穏やかに治まること」という意味がある。この世界は「私」の投影であるから、「私」が静かで安らかになれば、世の中が穏やかに治まることだろう。もちろん、世界は喧騒に満ちている。しかし、私が静かになれば、そういった喧騒と距離を置くことができる。
今日は夏至。一年の折り返しの日となる。今年のはじめに蒔いた種が、春分に発芽し、それらがぐんぐんと成長していくのが、この夏至の時期。これからはたくさんの太陽光と水を浴びながら秋分の収穫に向かっていく。我々も、自然の恵みを享受して迷わずに歩んでいけば、喜びの中で実りの秋を迎えられる。
雨降りの後、新芽がぐんぐん伸るこの季節。春から夏の強い雨と陽射しが、秋の実りを加速させる。乾いた喉を潤すように、たくさんの水をその身に取り込み、太陽の陽射しで身体を乾かす。植物にとって、この季節は成長する喜びを味わう時期だ。我々も、この時期の新芽のように、いつものびのびと生きる。
生命には、全く同じものは二つとない。この世界は、一つひとつが異なるのが前提で成り立っている。だからこそ、それぞれの違いを認め、その違いを伸ばしていけるような社会が健全な社会といっていい。誰もが同じような道を歩むのではなく、一人ひとりが不二の道を歩む時代がもう間もなく来るだろう。
人生の分岐点にさしかかったときは、自分の成長をさせるチャンスとなる。選択したことが成功と感じても失敗と感じても、それは自分を知る機会であり、実質的には成功しか残らない。このため何かを選択するときは、失敗してもいいという思いで飛び込むといい。分岐の先にあるゴールは、ひとつしかない。
未知の世界の中に未知の自分が存在し、未知の自分との出会いが人生に深みを与える。我々は無限の可能性を持っている。未知なる世界に身を投じていくことで、新たな可能性を開いていけるようになる。生きることは未知を既知に変える旅であり、未知があるから人生を楽しめる。未知がある限り人生は続く。
丁寧に目の前のことに向き合えば、その対象と心を通わせられるようになり啓示を得られるようになる。啓示とは気づきであり、小さな気づきの蓄積によって大きな啓示が訪れる。丁寧な暮らしは、内なる神と繋がりを太くさせ自己信頼と自己愛を習得させる。日々啓示を得て過ごせば、人生が楽で楽しくなる。
知りたいと欲求が人を前に進ませる。好奇心があるからこそ、人はいろんなことに挑戦できる。知りたいことは、何をすれば喜びを感じて楽しんで生きていけるようになるかだ。頭を働かせ身体を使い心で感じて、すべての感覚を使うことで知欲は満たされる。そんな知欲は人生を通じて満たされることはない。
日本は、豊穣な自然のある場所。こういった豊穣な土地に住むからこそ、我々の感性は豊かなのだ。日本の土地は、世界の雛型ともいわれている。つまり、地球そのものが豊穣な場所なのだ。これからは、我々が人類の雛型になる。我々が日々の豊饒さを感じ喜びで生きるとき、世界を変えることになるだろう。
未踏は未到であり、人生は常に道半ば。やりたいと思うことがある限り、終わりを見ることはない。一つの目標に到達できたとしても、すぐに次なる目的が湧き上がる。一つのことを知ったと思うと、まだまだ知らない世界があることに気づく。無知の知の道には限りがない。自分を知る道は永遠に続く。