経典の「色即是空」も、平安時代の「遊びをせんとやうまれけむ」(梁塵秘抄)も、鎌倉時代の「無常観」も、江戸時代の「浮世」思想や「ええじゃないか」も、根っこは同じで、既に生きる意味を考えること自体「空」「無」「仮」であることは昔の人も分かってて「今ここ」志向にシフトしただけなのでは?
【生き方のコツ💬】 自分の心が、魂が向かいたい方向を知りたい それに誘われるままの生き方をしたい 雑音も、障害物もかき分けられる そんな生きる意味に対する「盲目さ」が欲しい
お姉ちゃん。弟くん。お姉ちゃんの子孫ちゃん。弟くんの子孫ちゃん。 30世紀へと向かう日本人へ、声の届きうる誰かへ。 誰がどんなに「大丈夫だよ」と言っても、 「法律で禁じられている」麻薬類に、手を出しちゃいけないよ。 自分を、自分以外の何かの奴隷にしてはいけない。
“memento mori(死を想え)”。 誰かの命を儚み、悼むことは、人として素直な振る舞いだ。でも彼らの死という現実を受け止められず、かえって自分自身を傷つけてしまうことは、おそらく死者たちの本意ではない。 だから我々は、彼らの分も夢を背負い、明日を生き、世界を見よう。😉
ナチスの強制収容所では、死はまるで小さな水たまりが大きな海に溶け込むようでした。生きているようで、実際は魂が死んでいるような状態。私たちは、まるで何者でもない、記号のような存在でした。 このような極限状態から、フランクルは「生きる意味は、生き抜いた結果の中にある」と説きました。
物は、ドアにしろ鍵にしろある目的・目標が先にあってその目的に沿うように実体が作られる。しかしながら人は、実体が生まれてから、その目的・生きる意味を見出すような運命を背負う。人間の進化の過程で獲得された特徴の一つと言えるのかもしれません。結果として脳が進化したとか?