北村紗衣 『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』 : 子供騙しな子供向けフェミニズム
書評:北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房)
著者が嫌いだから貶しているのではない。
本稿のサブタイトルどおり、本書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(以下『お砂糖とスパイス』と略記)の中身が「子供騙しな子供向けフェミニズム」エッセイ集にすぎないと評価するので、そう書いたまでのこと。
私情を交えるまでもなく、本書は、少なくとも私の基準からするならば、単なる「ゆるいクズ本」でしかなかった、というだけの話なのだ。
私のこの「酷評」が、私情からのものではなく、昔からしばしば表明している「駄作は駄作としか、評しようがない」(読者のためにも、心にもない提灯持ちなどできない)という批評家的良心に基づくものだという「客観的な証拠」を、最初に示しておこう。
私は、今年(2024年)2月に、社会学者・岸政彦の著書『断片的なものの社会学』のレビューを書いている。
この本は2015年に刊行されて、「紀伊國屋じんぶん大賞2016」の大賞受賞作となり、ベストセラーにもなった本だから、読書家の方ならタイトルくらいはご存知だろう。
この本の増刷分の帯には、上野千鶴子、高橋源一郎、星野智幸、千葉雅也、平松洋子など、錚々たるメンバーの推薦文が並んでおり、このことからもわかるとおり、世間的には極めて評価の高い本である。
だが、今年になって、この「世間的名著」を読んだ私は、これを「酷評」した。
推薦文を寄せた方々には申し訳ないが、この程度の本を褒めるのは、書籍に対する期待水準が低すぎるのか、あるいは、日頃あまり良い本を読まれていないのか、さもなくば、推薦も(出版)業界政治のため道具でしかなかったということなのではないかと、そんな調子の、「根拠を示した酷評」を書いたのである。
事実、ただの悪口ではないからこそ、私のレビューとしては、比較的評判も良かった。
で、この『断片的なものの社会学』についての私の評価が当たっているか否かは、ここでの問題ではないので、気になる方はそれぞれにそちらをご確認いただくとして、要は、私の場合、「紀伊國屋じんぶん大賞」大賞受賞作であっても、必ずしも満足できないほど、書物に対する期待水準の高い人間だ、ということなのだ。その「事実」が重要なのである。
つまり、そんな私が、
という程度の本に、「満足できるわけがなかろう」という話なのである。
したがって、『砂糖とスパイス』の著者である北村紗衣のことが、好きであろうと嫌いであろうと、著者が大学教授であろうがなかろうが、あるいは、美人であろうがブスであろうが、そのような「非本質的な属性」は、この程度の本の評価においては、まったく考慮の外でしかない。
つまり、「ぬるい世間でさえ、その程度の評価しか受けられない本では、狷介辛辣な私を満足させられなくて当然だ」と、そういう話なのだ。
もちろん、良書なのに、世間に見る目がなくて正当に評価されない場合なども、山ほどあるけれど、本書の場合は、褒められ、注目されても、「この程度」なのである。
「高度な内容すぎて」とか「一般人には難解すぎて」評価されなかったというのとは、わけが違うのだ。
そもそも「紀伊國屋じんぶん大賞」の候補作とは、
というのだから、高度で難解な「専門書」などは、対象外なのである。
そんなわけで、評判が良いのか悪いのか、いかにも「中途半端」な本書『砂糖とスパイス』を、実際に読んでみたところ、私が「酷評」した『断片的なものの社会学』と同様に読みやすいものではあったものの、内容的には、ずいぶんと「劣る」ものだった。
だから、そんなものを私が褒めたとしたら、むしろ、そっちの方がおかしいのである。
そんなわけで、以下は、本書『砂糖とスパイス』が、なぜ、読むに値しない「子供騙しな子供向けフェミニズム」本なのかということを、根拠を示して紹介していこう。
○ ○ ○
まず、本書を読んでいてすぐに気づくのは、著者の「マンスプレイニング(上から目線)」である。
この「マンスプレイニング」という言葉は、一般には「男が、女性や子供を見下した態度」のことを言う。
これは「男は、女・子供よりも優れている」というのを自明の前提としているところに発するもので、単に「見下す」とか「軽く扱う」ということではなく、例えば「難しい仕事を与えない」とか「過保護」といったことの背景にもなるものなのだ。
「能力が低い彼女らを、強い男が守ってやらねばならない」のだといった「善意」に発するものだとしても、その根本には、自覚されない「優越意識」があり、「女性や子供」が劣っているのは「自明な事実」だと考える「偏見」が隠されており、そうした「偏見」をして、「マンスプレイニング」と呼ぶ。
だから、これまで一般には、この言葉は「男性」のそれに対するものとして使われてきたのである。
しかし、こうした「一般論」は別にして、「他人を見下す」人というのは、性別に関わりなく存在するというのは、自明の事実である。
例えば、「女性は、他人を見下さないのか」「子供は、他人を見下さないのか」と言えば、無論しばしば、他人を見下している。
わかりやすい例で言えば、「女性が女性を見下す」ことや「子供が子供を見下す」ことなど、当たり前にある。
つまり、「女性」も「子供」も、他人を「見下す」能力があるのだから、現に「見下す」ことは、あるに決まっているのだ。
したがって、「女性が、男性を見下す」ことも、「子供が大人を見下す」ことも、よくある話でしかない。
例えば、前者だと「あのハゲ課長、口ばっかりで、ぜんぜん仕事できないよね。年功序列で、やっと課長にしてもらっただけの無能オヤジ」などと、女子社員たちが陰口するくらいのことは、よくある話だろう。
そして、この時の彼女たちの「ハゲ課長(男)」に対する視線は、はっきりと「マンスプレイニング」なものだと言えよう。
これは子供だって同じで、例えば「太郎のお父さん、平社員なんだって」と言う場合などだ。この子は明らかに、「大人」である「太郎のお父さん」を見下しているのである。
つまり、「マンスプレイニング」の「マン(man)」とは、本来「人」のことであって、「男」のことではない。
しかし、「フェミニズム」が発見したところによれば、男たちは「男こそが、完全な人間であり、女は不完全で劣ったもの」なのだと、そう「男根主義」的に考えた。つまり「女は、人としての完全体である男の、一部欠如体である」のいうように感じていたから、女性を軽んじた、というのだ。
つまり、「子供」が「未熟」という意味において「不完全体」であるのに対し、「女性」は「欠如体」という意味において「不完全体」であり、その不完全性において、完全体たる「男」に劣ると、そんな「偏見」を、男たちは持ってきた。
そんなわけだから、「マンスプレイニング」という場合の「マン」は、歴史的に見て、実質的には「男」のことを指していた、ということになり、「マンスプレイニング」という批判的な言葉も、「男性専用」の批評用語と考えるべきだ、というように考えられてきたのである。
しかしながら、こうした、いささか大掴みな「歴史理解」としてはそれで正しくても、現実には、「女性が男性を見下す」ことも「子供が大人を見下す」こともある。それが個別的なものとして存在する、「現実」というものだ。
そしてそのような性別・年齢を問わない「マンスプレイニング」は、男性の場合がそうであったように、当人としては「当たり前」のことであって、決して「偏見」だと自覚されてはいない。
だから、だからこそ、「マンスプレイニング」という「偏見告発の批評用語」ば、性別や年齢を問わず、現に「差別偏見」を行なっている「すべての人」に対して、平等に適用されなければならないのである。
例えば、本書著者の北村紗衣を、私が知るきっかけとなった「北村紗衣vs須藤にわか」論争における、北村の須藤に対する反論として書かれた、ブログ記事、
・須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について
(2024-08-25)
が、露骨に「マンスプレイニング」である。
(※ なお、北村紗衣はプロの言論人なので敬称を略し、須藤にわか氏はアマチュアのブロガーなので敬称を付する)
北村紗衣と須藤にわか氏の「アメリカン・ニューシネマ」の評価をめぐる論戦は、当然のことながら「アメリカン・ニューシネマ」という映画業界用語の「定義」の問題ともなった。
それで、須藤氏は、これを映画マニアらしく「経験則」的に捉えて「一般論としては、こうだ」というような「ゆるい定義」で持論を展開し、それからすると、北村紗衣の定義は、フェミニスト的な持論を展開するための「恣意的に偏った定義」でしかないと、大筋そのように批判した。
これが、北村紗衣がそのインタビュー記事(下)で語っていた『ダーティハリー』ポンコツ映画論への、須藤氏の側から発せられた、最初の「北村紗衣批判」であった。
・メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た
・「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」
(※ すでに削除され、「改訂版」がアップされている)
だが、これを読んだ北村紗衣先生は、怒り心頭に発して、それへの反論である、前記の
・須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について
(2024-08-25)
を書き、その後、2人はTwitter上でもやりとりし、「北村側の外野」がそこへ大挙して押し寄せ、須藤氏をヤジりまくるという展開になったので、須藤氏は、議論にならないと、これを打ち切り、その状況を「togetter」にまとめたのである。
・「北村紗衣さんとツイッターでニューシネマのお話をしたのでまとめました(編集なしの完全版)」
で、私は、須藤氏の最初の「北村紗衣批判文」である「note」記事「北村紗衣というインフルエンサーの人が(※ 以下略)」のコメント欄に、須藤氏を支持するコメントを書き込み、その根拠として、北村紗衣の前記の反論が、あまりにレベルが低いからだと、その論拠を説明したのだが、「武蔵大学の教授」である北村紗衣先生は、このコメント欄にまで押しかけてきて、須藤氏の批判が「人格攻撃」だとか、私のコメントが「器物損壊予告の脅迫」だなどと、それこそ須藤氏ではないけれど、『メチャクチャなことを書いて』きたので、『そのウソを暴くため』に私も反論記事を書くと、北村紗衣は、私にはひと言の反論もしないまま、その私の記事を「管理者通報」で削除させるという、言論人にあるまじき暴挙に出たのである。
・私の記事「北村紗衣という人」(2024年8月30日付)が、通報削除されました。
で、まあ、こういう経緯を、ぜんぶ追うのは大変だろうから、ここで、北村紗衣が著書では絶対に見せない、その「本性」を露わにした、須藤にわか氏へのコメントを紹介しよう。
『私が「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。』だとさ。
ここを見てだけでも分かることだが、須藤氏は、北村紗衣の発言を読んで、「お姫様になることが女性の権利向上と考えているフシがある」と「解釈」したわけだが、北村紗衣は、それは違うから「人格攻撃」だと言うのである。
だが、そもそも、須藤氏の「解釈」が当たっているか否かは、誰にもわからない。
北村紗衣本人だって「当たっているからこそ、認めたくないし、腹も立つ」ということだって、十分にあり得るのだ。
人間というのは、「自分のことは、自分が一番よく知っている」とは限らない。
一一これは、「心理学」の初歩の初歩であり、だからこそ「他人の客観的な目による評価」としての「精神分析」というものもあれば、「診察・診断」というものもあるし、もっと一般的な「批評」というものも、人間生活のなかで必要となってくるのである。
つまり、冷静で自省的な人間であれば、「自分ではそうは思わないけれど、他人にはそう見えるのかも知れない。だとしたら、その点は、自分でも反省してみる必要があるかもな」と、そう考えるだろう。
だが、北村紗衣先生には、そんな「謙虚さ」が、カケラもない。
私はこのことを、須藤氏の「note」記事である「北村紗衣というインフルエンサーの人が」へのコメントとしても書いていたのだが、これが北村紗衣 武蔵大教授のお気に召さなかったようで、私が、そんな短いコメントにはとどめず、そのうち北村紗衣の著作を買って読み、その中身の酷さを細切れに、懇切丁寧に批判してやろうと、
と書いたら、その「言葉尻」を捉え、さらに都合よく「書き換え」て、
として「管理者通報」し、まるで私が、北村紗衣の著作に対する「器物損壊予告」の脅迫をした「犯罪者」であるかのように書いて、「誹謗中傷」したのである。私を「犯罪者呼ばわり」したのだ。
だが、私が実際に書いたのは、次のような文章だったのだ。
この文章を読んで、私が北村紗衣の本を物理的に切り刻むと言っていると考えるのは、「武蔵大学教授」で『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書)という著書まである、北村紗衣くらいではないだろうか。
北村紗衣教授の授業を受けると、あの文章を「本を物理的な切り刻むという意味で書いている」と「読解」するようになるのだろうか?
しかも、北村紗衣教授は、『批評の教室』の帯にも描かれているとおり、「精読」することが批評の基本だとおっしゃっているし、本書『お砂糖とスパイス』でも、同じことをおっしゃっている。
だとすれば、北村紗衣教授のおっしゃる「精読」って何? ってことにはならないだろうか。
まあ、「精読しなさい」と言うだけなら、自分が出来ていなくても、厚顔無恥でさえあれば、堂々と言い切ることも出来るだろう。
また、そんなことだから、歴史学者で評論家の与那覇潤に批判された際、与那覇が書いていないことを「書いた」と批判して、与那覇に事実を持って逆捩じを食らわされると、謝罪することもなく黙り込んだ、というような醜態を晒すことにもなるのだ。
だが、こんなことで、武蔵大学の学生さんたちは、本当に大丈夫なのだろうか?
武蔵大生の保護者ではなくても、日本の将来を憂う者として、また心配要因が増えたと、そう言わざるを得ない。
それにしても、こんな北村紗衣教授の著書を真に受けている「一般読者」や「紀伊國屋書店員」や、本書の版元である「書肆侃侃房の編集者」は、本当に大丈夫なのだろうか?
一一などと、読めば読むほど、心配になってくるようなシロモノなのだ、本書は。
○ ○ ○
「読める人」にとっては、本書の「酷さ」は、その冒頭からして、明らかだ。
どういうことかというと、いきなり冒頭から「自慢話」をカマして来るのである。
『おかしいですよね。』とご本人も書いているとおり、よほど暇じゃないと、これだけの量の、映画や演劇や本を、きちんと鑑賞することや、ましてや「精読」することなどできるわけがない。
だからこそ、他人の批評を「斜め読み」しては、トンチンカンな反論をし、そんな議論では勝てないから、スラップ裁判に訴えたり、「管理者通報」したりするのだろう。
きっと子供の頃から、「子供同士のケンカ」に「親」や「教師」を、被害者ヅラして引っ張り込んだクチなのではないだろうか。
そう言えば、北村紗衣先生は、インタビュー記事の中で、
とかおっしゃっているが、こういう「被害者ヅラの自己申告」というのは、あまり真に受けてはならない。
みんな「私の方が被害者です」と申告するものなのだ。
それに、なにしろ北村紗衣先生は、フェミニスト批評家であり、「女は男に虐げられている」ということを前提とした立場で批評をなさっている方だから、自身を「被害者の立場に身を置くことのうまみ」を、十分にご承知なさっている。
私の目の前に積まれている未読本の山の中には『犠牲者意識ナショナリズム 国境を超える「記憶」の戦争』というタイトルも見えているが、似たような話だろう。
だから「先生にいじめられて不登校になったと言えば、同情される」と、こう考えて、一方的な昔語りをしているだけかも知れないわけで、北村紗衣先生の「先生」だった人の言い分を聞いたり、同級生の言い分を聞いたりすれば、北村紗衣先生の描いてみせた図式が、ガラリと逆転するなんてことも、十分に考えられるのだ。
なにしろ、須藤にわか氏が北村紗衣先生を批判するきっかけとなったインタビュー記事、
・メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た
では、北村紗衣は「ミステリー小説を読んで、論理的に緻密に作られたものに慣れている私としては、『ダーティハリー』のようなご都合主義的な作りでは、ぜんぜん楽しめなかった」という趣旨のことを話していたのだ。
つまり、そんな「ミステリマニア」であると自慢したがる北村紗衣先生ならば、それこそ、初歩の「叙述トリック」くらいは、駆使して当然なのではないだろうか。
そう言えば、本書『お砂糖とスパイス』にも「信用できない語り手」という「叙述トリック」にかかわる「ミステリ業界用語」への言及もあったし。
閑話休題。
要は、いきなり冒頭から「鑑賞本数自慢」「読書冊数自慢」なんてしますか? 恥ずかしい…。
一一という話である。
私としては「そんな幼稚な自家宣伝は、noteのクリエイターさん方だけにしてくれ」と言いたいところなのだ。
それに、そういう人たちの中には、北村紗衣先生よりもずっとたくさん見てる読んでいる、と自己申告している人が山ほどいる。
だが問題は、「本数・冊数」ではなくて、「読み取り能力」であり、そこで得た情報を活かす「思考力」なのだ。
たくさん鑑賞してれば、鑑賞能力・思考能力が高いなんて保証など無い、というのは、普通に生きていれば分かることでしかない。
まあ、たくさん読んで、それを暗記して、型通りの形式に当て嵌めてまとめる能力があれば、学校の成績は良いだろうし、東大にも行けるだろう。
だが、所詮それだけでは、蓮實重彦流にいうと「紋切り型の凡庸」でしかないのである。
そんな人の書くものといえば、あれこれをたくさん引用してきて、その「衒学」で読者をビビらせ、最後は、偉い人の意見をまるで自分の意見の如く、しれっと書くくらいが関の山。
つまり、読める人が読んだら、何のオリジナリティも無ければ、才気のカケラも感じられない、「くだらない作文」ということにしかならないのだ。
で、本書『お砂糖とスパイス』が、まるでそうなのである。
そもそも、冒頭からいきなり、あんな「つまらない自慢話」を書きますか、という話なのだが、一一あれは、「馬鹿を騙す」ためには、けっこう有効なのだ。
馬鹿というのは、たいがいは「権威主義」的だから、「肩書き」だとか「数字」だとか、そういうわかりやすいものに弱く、そうしたものに騙されやすい。
北村紗衣は詐欺師ではない、のだが、詐欺師の手口として、最初にガツンとカマすというのは、下品だが効果のある常套手段である。
頭の悪い人は、ブランド品の服を着て、ブランド品のバックなどを持って、雑談の中で、有名人の誰それと先日あれをしたとかこれをしたなどと聞かされると、もうそれだけで「この人は、すごい!」と、イチコロで騙されてしまう。
一一カート・ヴォネガットではないが、「そういうもの」なのだ、世の中は。
ちょっと勉強をしている人なら、本当に才能のある人はそんな「くだらない自慢話」などしない、というくらいのことは、常識として弁えているのだが、不勉強な人は、そんなことすら知らず、ペテン師の大言壮語を鵜呑みにしてしまうのである。
そもそも、何万冊読もうと「馬鹿は馬鹿」だということくらい、まともな読書家なら知っているので、そんな「間抜けな自慢話」による「マウンティング」など、恥ずかしくてできるものではない。
まあ、北村紗衣先生は「おかしなほど読んでいるが、自分はそれを学生と世間に還元しているのだ」と、ご自分でフォローなさっているが、それもまた、自分で言っているだけの自己申告。これを世間では「マッチポンプ」とも言うのである。
さて、北村紗衣先生は、先ほど引用した部分で「作品を鑑賞し終えて、ただ、面白かったー、だけでも悪くはないけれど、もう少し深い楽しみを得る方法として、批評というのがあるよ」とそう書いて、批評的な読み方のススメをしている。
すでに紹介した、先生自身の著書『批評の教室』の帯にあるとおり、「精読して・分析して・書く」というのが「批評」の基本だというわけで、それはもちろん間違いではないのだけれど、しかしそれは「面白い批評」「鋭い批評」の書き方ではないので、そういうものが書けるようになると思ってはいけない。
「精読して・分析して・書く」というのは、じつは「批評の書き方」と言うよりは、「研究論文の書き方」と言う方が、正確なのだ。
その意味では、今や日本では絶滅危惧種たる「シェイクスピア研究家」である北村紗衣先生らしいご意見なのだが、文芸評論家や哲学思想系の批評家などが、北村紗衣先生のご意見を読むと、きっと「こんな顔をするだろうな」と、そんな顔が目に浮かぶようである。
実際、いちおう、実作を持って「批評の書き方」を示していらっしゃるらしい本書は、批評書を読んできた私には、単なる「クズ本」でしかない。
わかりやすいから、初歩のことしか語っていないから「つまらない」のではなく、書いていることが、型通りの通り一遍で、薄っぺらい内容だから「つまらない」のだ。
本書所収の映画評は、しごく凡庸なもので、要は「男の視点で描かれている」という「型通りの注文」以外には、何も新しいところはない。
だからこそ「紋切り型」なのだ。何を論じても、同じパターン。「どこを切っても金太郎」だということである。
そりゃあ、昔の作品は「男中心主義」の社会の中で作られているから、そういう難点はあるだろうし、そうした難点に対する指摘は、決して無駄なものではないだろう。
だが、それは、批評としては「フェミニズム的な男性批判の、使い古された紋切り型」でしかなく、そのパターンさえ身につければ、誰にでもできる程度のことでしかない、とも言えるだろう。
北村紗衣先生の「フェミニスト批判」とは、わかりやすく喩えれば、「泥鰌すくいのザル」のようなものだ。
古い沼にでも入ってそれで掬えば、水や泥はザルの網の目からから抜け落ちて、「男の女性蔑視」という泥鰌だけが残るという、そんな便利な、誰にでも使える道具(紋切り型)なのである。
さて、北村紗衣は、自身にとっての「フェミニスト批評」が、どういうものなのかを、次のように語っている。
そうなのかも知れない。
しかしながら、ここで考えなくてはならないのは、世の中の「(思考の)檻」とは、北村紗衣が入れられていたものだけでもなければ、「女性」だけが入れられるものばかりではない、という当たり前の事実である。
例えば、「部落差別問題」「在日差別問題」「米軍基地の集中という沖縄差別問題」などは、「フェミニズム」でも「文学」でも、解決解放することはできない。
つまり、北村紗衣が『私を檻から出してくれたのは、フェミニズムと文学でした。』と、いかにももっともらしく屈託なく書けるのは、「女としての被害者である私」のことしか考えていないからに過ぎない。
「差別されている人」「弱者」のことを本気で考えるのなら、問題は「男女の性役割(ジェンダー)の問題」だけで済まないのは、わかりきった話なのだ。
だが、「自分のことしか考えていない」のであれば、手に入れた武器としての「フェミニズム」を振り回してさえいれば良いだけだ。
自分の対決すべき現実を、その武器の射程範囲内に限っておけば、そのかぎりにおいては無敵でもあり得よう。
だが、その場合、その範囲の外で苦しんでいる人たちの存在については、「無視」なのだ。そんなものは「同じ人間ではない」とでも感じているから、例えば、
・須藤にわか氏のような、アマチュアは「専門家に従え。それが当然だ」などと言ってみたり、
・「精読が前提だ」と言いつつ、批判者の文章は、斜め読みの誤解で、反論したりしても平気、
だったりするのである。
一一要は、ナイーブなお客さんには「良い顔」をして見せるけれども、それ以外には「差別者」としての「マンスプレイニング」を使って平気なのだ。だから、
なんて、「何様のつもりだよ」と、いっそこちらが笑いたくなるほどの「上からの物言い」だって、恥ずることなくできるのだ。
ひと昔前の「警察ドラマ」で、よく「立てこもり犯」に対し、警察が「無駄な抵抗は止め、武器を捨てて出てきなさい!」なんて言ってたのと、まさにそっくりな物言い。
いや、「警察」よりも、「女王様」か「スケバン」(古語)くらいに、上からの物言いではないだろうか?
北村紗衣は、その昔、祖父が「治安維持法」で捕まっており、親から「警察は信用するな」という教育を受けてきたから、警察は嫌いだと、先の『ダーティハリー』ポンコツ映画論でも語っていたのだが、その割には、自分の悪口を書いた人物をスラップ訴訟にかけるという、あからさまな「権力利用」には、まったく抵抗が無いようだ。
祖父を捕まえた「警察」は嫌いだが、そもそもそれを「治安維持法」で裁いた「裁判所・裁判官」は嫌いではないから、せいぜい利用させてもらいますというのは、なかなかの「ご都合主義」ではないだろうか?
それとも、「警察は、権力機構の中では下っ端だが、裁判官は上等だから好き」だとでも言うのだろうか。
北村紗衣は、「名誉毀損民事訴訟」で、勝った勝ったと自慢したようだが、勝った方が「正義」だと言うのなら、戦時中に「治安維持法」で「思想犯」を捕まえて有罪にした、「警察」や「裁判所」や「国家」こそが、「正義」だった、ということになるのだか、それで良いのだろうか?
・「武蔵大・北村紗衣教授を「ツイッターで名誉毀損」男性に220万円の支払い命令 東京地裁」
それとも「私の勝った判決は正しく、私の意に沿わない判決は正しくない」とでもいうのだろうか? 一一たぶん、そう言うのだろうな。
なにしろ、
なんて、臆面もない「上から目線の決めつけ」を、恥じることもなく口にし、
という言葉を、
と、平気で「書き換える」ような御仁なんだから、そりゃもう自己中も極まれり、なのである。
つまり、北村紗衣は、「フェミニズムと文学」で「女性差別の檻」から出たつもりなのかも知れないが、実は、その「小さな檻」は、「自らのエゴと偏見」というもっと「大きな檻」の中に収まっていたのであり、北村紗衣は、その「大きな檻」からは未だ出ていないどころか、その中にいることにも気づかず、その中に安住したままなのである。
だから、「女性への差別」にはうるさくても、「他の差別」には、とんと興味がない。
というか、他の「差別問題」にまで視野を広げてしまうと、自分の武器である「フェミニスト批評」が役に立たないというのを知っているから、その「既得権益」を手放さないためにも、自分の守備範囲を限定して、その外にいる人たちのことは、見殺しにすることにしたのであろう。
北村紗衣が、本書で語っているのは、いかにも古くさい「紋切り型のフェミニズム批評」だけだと、そう言ってよく、それ以外は、せいぜい「クィア批評」の名が挙がるだけ。
しかも、その「クィア批評」たるや「腐女子的な視点で作品を見れば、男同士のあれこれが読み取れて楽しい」とかいった程度の、素人くさいものでしかない。
だから、こんな北村紗衣が、「男女二分に収まりきらない存在であるが故に、変態(クィア)と呼ばれる人たち」の、「男女」双方から向けられる差別的視線による苦しみを、理解しょうともしていない、というのは明白だ。
そもそも、「女であること(自分は男ではないと言い切れる立場にあること)を自明として、男の専制を責める」という古典的な「党派利益追求型のフェミニズム」を採用しているかぎり、北村紗衣が「男でもなく女でもない人たち」のことを真剣に考えたりはしない、というのは、理の当然なのである。
そして、こうしたことは「フェミニズム」の世界では、もはや自明のことなのだが、それを知らない人たちは、北村紗衣の「フェミニズム」を、オーソドックスなものだと「錯覚」してしまうのだ。
問題は、後半の部分だ。
つまり、女性の「参政権」を得るためには、言い換えれば、その一点で「男と対等になる」ためには、『収入や人種・民族による差別』は、意識的に後回しにする、「平等に弱者の味方、だというわけではない」女権運動家も出てきた、ということである。
つまり、ひとことで「フェミニズム」と言っても、実際にはいろいろ立場や考え方があって、決してひと色ではない。
「差別されている人たち、すべてと連帯して、すべての問題を、可能なかぎり公平に解決していかなくてはならない」と考えるような立場もあれば、『主流階層の女の参政権獲得をまず求めようとする』立場もあった、というようなことであり、女性の権利獲得運動は、その初期から『すでに(※ 今のフェミニズムの分裂対立状況を)予示していたと言えるだろう。』ということなのだ。
つまり、北村紗衣が語っているような「フェミニズム」は、「オーソドックスなフェミニズム」というわけではなく、むしろ「女権至上主義」的なフェミニズムにすぎない。須藤にわか氏が指摘したとおり「お姫様扱いを要求」するフェミニズムに過ぎないということなのである。
だからこそ、
というような「専制的」な物言いもできるのだ。
そして、もうひとつ付け加えて指摘しておけば、北村紗衣が「フェミニズムと文学に救われた。」と言いながら、「フェミニズム批評」とは言わずに「フェミニスト批評」と名乗っている「不自然さ」は、たぶん、自身の批評が「フェミニズム」の中でもごく偏頗なものでしかない、というのを自覚しているからではないだろうか。
つまり、本物の「フェミニズム研究家」とは、「フェミニズム」の話はしたくないのである。だから「フェミニズム批評」とは名乗らず、「フェミニスト批評」と名乗っておけば、いちおう「無難」だという計算を働かせているのではないか。
どんなに偏狭偏頗であろうと、北村紗衣が「フェミニスト」であること自体は、否定できない事実だからである。
また、こうした「予防線」なり「逃げ」は、サブタイトルの「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」の、「不真面目な批評家」という自己形容にも感じられる。
本書の内容には、決して「不真面目」なところはない。ただ、「凡庸で浅い」だけである。
この立場は、決して「不真面目」なのではない。単に「俗ウケ」狙い(俗情との結託)であり、小狡く「打算的」なだけなのだ。
それは、悪い意味で「真面目」なのである。だから『不真面目』ではないし、そうは言えない。
ならばなぜ、北村紗衣は、自身を「不真面目な批評家」と形容したのかと言えば、これはたぶん、
「本書は入門書だから、薄いことしか書いていないけれど、これを私の実力だと思ってもらっては困る。私の実力は、もっと凄いのだ」
と、暗にそう言いたかったのではないだろうか。
つまり、その意味で、本書は「大真面目に本気で書いたものではないから、本書の私は、不真面目な批評家にすぎないのだ」と。
○ ○ ○
あと、北村紗衣の「ひねった自慢話」好きというのをよく示しているのは、本書第5章に含まれるエッセイ、
・愛の理想郷における、ブス 一一夢見るためのバズ・ラーマン論
である。
このエッセイは、バズ・ラーマンという映画監督は、その作風として、過剰なまでに煌びやかな世界を描くくせに、なぜかヒロインだけは「美人」ではなく、凡庸な容姿の女性だ、と指摘した上で、どうしてもバズ・ラーマンは、あえて「ブス」を選ぶのかと、そのように論じた作家論である。
で、その作家論としての当否は置くとして、このタイトルからもわかるとおり、北村紗衣が力点を置いているのは、「ブス」という言葉なのだ。
要は、バズ・ラーマンは「私たちのようなブスのために、映画を作ってくれているのだ」というほどのことなのだが、それを語るのにどうして「ブス」という、男なら、普通はとても口にはできない(書けない)言葉を使ったのかと言えば、それは北村紗衣が「女性」だから、「自分たち」を指して「ブス」と言うのなら、それを口にすることも許されると、そう考えたからである。
だから、北村紗衣は、このエッセイのなかで、男子から「ブス」呼ばわりされたことのある一人だと、さも自分を「ブス」だと思っている「かのように」書いている。
まあ、普通に「文章が読める人」には、北村紗衣が「ブス」という言葉を、使いたくて使いたくて、しようがなかったというのが、ハッキリと読み取れるはずだ。
もちろん、北村紗衣は、ここで自分を「ブス」の一人だと表明することで、「ブス」という言葉を使用する「権利」を得たつもりでいる。
しかし、所詮これは「見え透いたアリバイ工作」にすぎない。
本当に「ブス」という言葉で傷つく女性のことを考えているのであれば、何もここで「ブス」と書く必要はない。普通に「不美人」と書いておけば良かったのだ。
だが、男に対しては、「フェミニスト」であることを盾にとって、見下したようなことは書けても、同性の女性に対しては、「フェミニスト」であればこそ、言葉遣いには慎重にならざるを得ない。
日頃、男たちの言葉遣いの「無神経さ」と、それに潜む「偏見や差別意識」を告発しているのに、その自分が男と同じように、女性に対して「無神経な言葉」を使うわけにはいかないのだ。
しかしながら、禁じられれば禁じられるほど、それをやりたくなるのが、男女を問わぬ「人のさが」である。「王様の耳はロバの耳」の心理だ。
だから、文筆家として、その「レトリック」に自信を持っている北村紗衣は、自分も「ブス」に含まれているというフリをすることで、この使いたくても使えなかった言葉を、「バズ・ラーマン論」の体裁を借りることで、使ってみせたのである。
つまり、北村紗衣自身は、じつのところ、自分を「ブス」だとは、これっぽっちも思ってはいない。
いや、むしろ「美人」の部類だという自負さえ持っていればこそ、自分から進んで、自分も「ブス」の部類だと、そう語り得たのであろう。
それに、北村紗衣は、馬鹿な男子たちから「やーい、ブス!」などと言われたからといって、それで自分が「ブス」だということになるなどとは、これっぽっちも思っていないから、「私も読者の皆さんと同じ、ブスですよ」と、わざとらしく「ブス」だと認め、言うならば「御免状」を得た上で、楽しく「ブス」という言葉を使ってみせたのである。
一一それにしても、なんて嫌な女だろうか。いや、なんて鼻持ちならない「ヒト個体」なのであろう。
実際、こんな北村紗衣が大嫌いな私でも、北村紗衣が「ブス」ではないと、そこは客観的に認めている。
タレントのような美人ではないとしても、まあ、好みの問題は別にして、一般人のなかでは、「美人の部類」に入る方ではないだろうか。
具体的に言えば、ちょっと古風な「日本美人」。わかりやすく言えば、「こけし」のような美人だということである(ところで、若い方は「こけし」をご存知だろうか?)。
だから、北村紗衣が「私はブスですゥ」なんて言えば、頭の悪い取り巻きやファンが「いや、そんなことないですよ。さえぼうは、みんなが認める美人です!」なんて言ってくれるのもわかっているから、北村紗衣は、喜んで、「私もブスのうちです」なんて、喜んで言っているのであろう。
「ブスではない私が、自分でブスだと言ってみるのも、まんざら悪くはない」というわけである。
まあ、以上は、北村紗衣の文章からの、心理分析的な「解釈」にすぎないから、北村紗衣からは、
「年間読書人さん、あなたは私が「自分をブスだとも思っていないくせに、ブスという言葉を使いたいために、あえてそんな言葉を使ったフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。
それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。批評観の違いに逃げようとしても無駄です。」
などと言われるかも知れない。
しかしだ、「解釈による推測や推認」が許されないのなら、「批評」は存在し得ない、というのは論を待たない事実である。
実際、本書でも、北村紗衣自身が、男たちは「こう考えていたに違いない」「ああ考えていたに違いない」と決めつけて書いているわけだが、それは、いちいちご当人に確認してから書いたのか、という話である。
北村紗衣は、男たちが口を揃えて「女性を見下したことなど、一度もない」と、そう「自己申告」すれば、それが「真実」だということになる、とでも言うのだろうか。
そんな「馬鹿っぽい理屈」が通るのであれば、「フェミニスト批評」だけではなく、「批評」そのものが、丸ごと成立しなくなる、ということくらいは、さすがの「北村紗衣読者」でも、わかるのではないだろうか。
いや、わからないかもな…。
ともあれ本稿は、本書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』などより、よほど「スパイス」が利いているし、「爆発的な何か」も含まれていると、私はそう自負するものである。
いや、「爆笑的な何か」かもな…。
(2024年9月15日)
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