映画 『バニシング・ポイント』 : 北村紗衣の「消失点」
ぬ映画評:リチャード・C・サラフィアン監督『バニシング・ポイント』(1971年・アメリカ映画)
本作に興味を持ったのは、今年(2024年)の1月か2月ごろ、大阪・十三のミニシアター「第七藝術劇場」で、リバイバル上映の本作予告編を見たからである。それまでは、タイトルこそ聞いたことはあったものの、どんな映画だかは、まったく知らなかった。
だが、予告編を見てみると、どうやら「カーアクション」が売りの、しかし「痛快アクション」ではなく「アメリカン・ニューシネマ」に分類される、どこか陰のある作品のようだったので、ちょっと気になったのだ。
で、「この機会に見てみるか」と、その時は思ったのだが、3月の上映の頃には、ほかに見たい映画もなく、この映画1本のためだけに出かけるのが面倒だとなってしまい、結局その時はそのままスルーしてしまったのである。
で、それを今回、DVDで見ることにしたのは、最近、私が批判している「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもある北村紗衣が、この作品を、好意的に評価していたからである。
北村紗衣と言えば、そもそも先方から私に接触してきた人物であり、そのきっかけが、「アメリカン・ニューシネマ」絡みだったのだ。
北村が、『ダーティハリー』を語ったインタビュー記事で、同作が「アメリカン・ニューシネマ」に関係あるのかないのかよくわからないなどという、いささか間抜けな前ふりをしてから、話を「アメリカン・ニューシネマ」にズラして、お得意の「ハリウッドにおける倫理コード」の話に絡めて、「アメリカン・ニューシネマ」を、まるで「暴力とセックスが特徴の映画」ででもあるかのように語った。
その頃の私は、北村紗衣なんて映画評論家は、その存在さえ知らなかったから、この記事のことも、この記事を批判した、映画マニアのブロガーである須藤にわか氏の「note」記事を読んで、初めて知ったのである。
・「北村紗衣というインフルエンサーの人がアメリカン・ニューシネマについてメチャクチャなことを書いていたのでそのウソを暴くためのニューシネマとはなんじゃろな解説記事」
(※ すでに削除され、「改訂版」がアップされている)
で、この記事をざっと読んで、どれどれと思い、上の北村紗衣インタビュー記事を読んでみると、これが「馬鹿丸出し」の、極めてレベルの低いものであった。
それで私は、須藤氏の上記記事のコメント欄に、須藤氏の見解を支持する旨のコメントをし、そこで、北村紗衣が、いかに「馬鹿」かを、根拠を示して語ったのであった。
そして、普通であれば、話はそこで終わったはずだったのだが、それで終わらなかったのは、「北村紗衣という人のメンタリティ」が「尋常なものではなかった」からである。
私が、須藤にわか氏の記事に投稿したコメントは、コメント欄の1回あたりの文字数制限のせいで、7つに分割されたものだったのだが、北村紗衣は、このコメントの最後の部分の、しかも最後の一節だけを「切り取り」、しかもそれを「改変」した上で、まるで私が、北村紗衣の著作について「器物損壊の予告」をして「脅迫」したかのように「書き換え」、それを根拠に、「note」管理者に対して、私のコメントを含む、須藤にわか氏の記事についての「削除要請の通報」を行い、さらにその旨を、わざわざ同コメント欄へ「報告してきた」のである。
ここで、私が、須藤氏の記事に書き込んだコメントの最後の部分と、北村紗衣が書き込んできた「管理者通報した旨の報告コメント」を紹介しておこう。
そのデタラメさが、ハッキリとわかるはずである。
見てのとおり、私が、
と書いたのを、北村紗衣は
と、故意に「書き換え」て、「管理者通報によって、自分に不都合な記事を削除させようとした」のである。
無論、北村紗衣の「5万人弱」もいるという「Twitter(旧「X」)」のフォロワーなら、私の文章を読んで「北村の本を、物理的に切り刻む(器物損壊をする)」と読む者もいるのかもしれないが、北村紗衣は、仮にも「武蔵大学の教授」であり、自称「シェイクスピアの研究者」なのだから、まさか本気で、私が「器物損壊をする」という意味で書いていると読解して、こう書いてきたわけではあるまい。
ということは、「故意の誤読による誣告で(管理者を騙し)、私をハメようとした」ということである。
また実際、そうであるからこそ、私から何度この「姑息な書き換え」を批判されても、約2ヶ月が過ぎた今に至るも、北村紗衣からは、一片の「謝罪」もなければ、「誤読であった」という釈明すらないのである。
はたしてこれが、須藤氏に対して『それが弁護できることだとでも思っているのでしょうか。(〜)逃げようとしても無駄です。』などと、居丈高に迫った人間の、することなのでだろうか?
そもそも、上のコメントもそうなのだが、北村紗衣は、私のコメントを理由に「管理者通報」をしておきながら、私には、ひとことの反論も批判も、今に至るまで、一度もしていないのだ。
あのコメントは、見てのとおりで、あくまでも須藤氏宛てなのである。
しかし、仮にも「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもあり、腐っても著作が4冊もある「言論人の端くれ」が、批判された内容については、いっさい反論も批判もしないまま、いきなり「脅迫されました」と偽って、「note」管理者に「削除要請の通報」をするなどということが、常識で考えられるものだろうか?
だが、その常識では考えられないような「キャンセル(排斥)」行為を行なったのが、北村紗衣という「武蔵大学教授」なのである。
そして、北村紗衣が(言論によらない)「キャンセル」を行ったのは、何もこれが初めてではなかったことを、すぐに私は知ることになるのだ。
○ ○ ○
そんなわけで、いったんは興味を失いかけていた『バニシング・ポイント』を、また見ようという気になったのは、そんな因縁のある北村紗衣が、この作品を、映画評論を中心としたエッセイ集『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房)で「褒めていた」からである。
前述のとおり、北村紗衣は、「アメリカン・ニューシネマ」を、フェミニズム批評(あるいは、フェミニスト批評)とやらの立場から「暴力とセックスが特徴の映画」だと否定的に評価していた。
そして、この『バニシング・ポイント』も、一般的には「アメリカン・ニューシネマの傑作」と評価されている作品なのに、「どうして北村紗衣は『バニシング・ポイント』を、例外的に高く評価したのだろうか?」という、当然の「疑問」が湧いたのである。
前記『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』での、北村紗衣による『バニシング・ポイント』論の結論は、次のようなものである。
と、「男性同性愛者に対する、紋切り型の偏見に由来する、蔑視的な描写」には注文を付けつつも、全体としては、このような「大絶賛」なのだ。
だが、すでに北村紗衣のこれまで公刊された批評書4冊をすべて読んで、北村紗衣の「力量(実力)」を知ってしまった私としては、この「大絶賛」は、まったく信用ならないものでしかない。
殊に、北村紗衣には「哲学」などわかるはずがないのだから、『とても哲学的で、人生における自由意志という一生かけて考えるべき問題を深く探求している』作品だなどという評価は、北村紗衣には「不可能」だと、そう合理的に推認し得るのである。
では、どうして、北村紗衣には「哲学」などわかるはずがないと断じられのかというと、4冊の著者のレベルの低さもさることながら、それを裏付ける、北村紗衣自身の証言一一自分は「発達障害」があり、子供の頃から「他人の気持ちがわからない」人間で、そのために誤解を受けてイジメられてきた、という趣旨の「自己申告」があるからだ。
要は、「他人の心の動きに鈍感な人」が、「文学」や「哲学」などわかるわけがない、ということである。
もちろん、「他人の心の動きに鈍感(わからない)」とか「文学や哲学がわからない」というのは、「同情すべきこと」ではあっても、別に「悪い」というわけではない。
だが、そうした「能力を欠いている」というのが事実なのであれば、可哀想だけれど、必然的に「文学や哲学が、わかるわけない」ということにもなるのだ。
もちろん、ウィトゲンシュタインのような「天才」レベルなのであれば、「論理」哲学なら可能かも知らないが、北村紗衣の場合は、そもそも、その「論理性」をも欠いているのである。
では、そんな「感情理解能力も論理的思考能力も欠いている」ような北村紗衣が、「シェイクスピアの研究家」だというのは、一体どうしたことなのか?
「他人の心の動きがわからない者に、どうしてシェイクスピアの文学が理解できるのか?」というのは、北村紗衣のことを知る多くの人の抱いた「疑問」であり、私も同様に思っていた。
だが、その「謎」については、シェイクスピア研究の博士論文を元にした北村紗衣の主著『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社)を読むことで、あっさりと「氷解」した。
要は、北村紗衣の「シェイクスピア研究」とは、「シェイクスピアの文学」や「シェイクスピアその人(人物)」についての研究なのではなく、「シェイクスピアの女性ファン」の研究であり、要は、当時の「オタク文化の社会学」的な研究だった(でしかなかった)のである。
だから、「シェイクスピアの文学」がわからなくても、「シェイクスピアの精神(心)」がわからなくても、ひとまず、当時の、シェイクスピアをめぐる「周辺資料を渉猟して、これまで誰も注目しなかった事実を、うまく掘り起こす」ならば、それは一応のところ「シェイクスピア研究」の「内」だと、そういう話だったのだ。
一一つまり、北村紗衣は、「シェイクスピア文学の研究家」だったのではなく、「シェイクスピアをめぐる、文化消費の研究家」だったのであり、それならば、元「腐女子」の北村紗衣には、若い頃からの馴染みのフィールド(自分の土俵)だったのである(Q.E.D.)。
そんなわけで、北村紗衣には、「文学」はわからないし、ましてや「哲学」などわかろうはずもない。
北村紗衣は、以前から「中学時代に教師からいじめられて、不登校になった」と、いかにも「同情を買う」ような「自己申告」をしており、私は、この「自己申告」の信憑性を疑っていた。
なにしろ北村紗衣は、私が、
と書いたのを、
と故意に書き換えて、自分の気に入らない相手を、ハメようとするような「嘘つき」なのだから、この「中学校の先生」の場合だって、真相は、同様のことなのかもしれない。
つまり、この先生や当時の同級生たちに事情を聞けば、
「悪いのは北村さんの方ですよ。あの人は自分勝手なことばかり言って、みんなに迷惑をかけてばかりいたから、それで先生が北村さんに注意することもよくあったんだけど、北村さんはそのことを根に持って、当てつけるように学校へ来なくなっただけ。そして、20年以上も経って、大学教授の有名人におなりになってから、ここぞばかりに、先生の悪口を言って復讐してるんです、一方的な言い分で。あの人は、昔からそういう陰険な人で、事情をよく知らない第三者を騙して、被害者になるのが、お得意なんです。だから、彼女をよく知る人からは、むしろ嫌われていたんです」
なんてことにもなりかねないと、そう考えていたのだ。
(ちなみに、北村紗衣の一方的な言い分を掲載して広め、件の先生の評判を落とすことに加担したメディアは、後でその責任を問われかねない。北村紗衣の提訴した名誉毀損裁判における、リツイート問題と同じことだからだ)
そんなふうに思っていると、案の定、前述のエッセイ、
で、北村紗衣は、こんなふうに説明していたのだ。
今だって、キライな他人が大勢いるから、始終、Twitter上で揉めているんでしょうが、という「周知の事実」に関するツッコミは、今は措くとしても、一一北村紗衣は、これまでの39年間(同エッセイ執筆当時まで)『人の気持ちがよくわからない状態で暮らしてきて、それが自分としては平常の状態』だったから、これからも「それでいいや」と、そう言っているのである。
人の気持ちなんかわからなくてもいい。だって、発達障害で仕方がないことなんだから、周囲の皆さんの方で私に配慮してよと、それが、北村紗衣の本音なのである。
当然、自分が「発達障害」だったことに気づいていなかった中学時代の北村紗衣は、自分がどんなに周囲に嫌な思いをさせているのかという自覚もなかったし、それを先生が注意しているということも理解できず、ただただ「先生が私(だけ)をいじめる」と、そう考えていたのかも知らない。一一そうであったのだと、好意的な仮定するならば、それは、「他人の心」や「状況」を理解する能力が無かったのだから、仕方がないことだし、むしろ憐れまれるべきことであろう。
また、先生の方についても「発達障害に対する理解がない」と、そう注文をつけることだって、今となっては可能なのだろう。
だが、20年以上前の中学校の先生に、そこまで求めるのは、いささか酷なのではないだろうか?
したがって、自分が「発達障害」だと知った後の、39歳の「大学教授」である今の北村紗衣に「常識」があるのであれば、当然「もしかすると、あの頃よく先生に叱られたのは、私が変なことばかりして、みんなに迷惑をかけていたからではないだろうか? 悪気はなかったとしても」と、そのように考えることくらいは、できるのではないだろうか?
そして「少しでも、他人の心がわかる人間になって、迷惑をかけないようにしよう」くらいのことだって考えるのではないだろうか。
一一しかし、金輪際それを「考えない」のが、「今の北村紗衣」であり、事実、北村紗衣は今でも「先生にイジメられた」と、もっぱら「被害者アピール」を繰り返しているのである。
自分が、ネット上で、多くの他人をいじめている事実には、頰かむりをして、なのだ。
一一あの牧師さんとか、あの映画評論家さんとか、あの映画館アカウントさんとか、その他もろもろの、北村紗衣被害者たちのことである。
だが、こちらこそが「現実」だとすれば、北村紗衣の「発達障害アピール」もまた、やはり意図的な「戦略」のひとつなのではないだろうか?
北村紗衣が常に、自分を「男社会における、被害者たる女性」の立場において「フェミニズム」を振り翳し、「男は加害者なんだから、女の私に対しては口を慎め」みたいなことばかり言っているのと同様、この「発達障害アピール」というのも、それを言っておいた方が、のちのち「得策だ」という計算からのものではないか、ということである。
これが「邪推」ではないという証拠は、すでに語った、
・恣意的な、他人の言葉の「切り取り・改変」による誹謗中傷に見られる「計算高い狡猾さ」
や、北村の著書『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』を論じた際に指摘した、
・北村紗衣特有の「解釈戦略という言葉の多用」
といったこともあるからだ。
つまり、
・「何が正しいやり方(正攻法)か」を考えるのではなく、「どんなやり方が得策か」ということばかりを考える「計算高さ」
ということである。
だからこそ、北村紗衣の「発達障害」自己申告は、単なる「自分に不利な情報の開示」などではなく、その「不利な条件」を「被害者アピール」とすることで、「同情を惹き」、さらには「批判者を黙らせるための盾」としようとしている蓋然性が極めて高い、ということにもなるのである。
「私は、発達障害なのだから、人の気持ちがわからないような発言をしても、それは仕方のないことなのよ。それなのに、そんな私を責めるあなたは、障害者差別者に他なりません。差別じゃないなんて言い訳は無駄です!」
一一と、そんな自覚的な「恫喝」準備なのではないだろうか?
あとひとつ、私が最近気づいたのは、北村紗衣は「発達障害」を「ステグマ(聖痕)」として利用しようとしているのではないか、ということである。
私は現在、北村紗衣の「キャンセル(排斥)」というやり方を、より深く理解するために、日本でも問題になりつつある「トランスジェンダリズム問題」とか「LGBT問題」というのを調べ始めている。
なぜなら、こうした「問題」についての「市民運動」界隈では、北村紗衣とそっくりの、「キャンセル(排斥)」だの「ノーディベート(議論拒否)」といったことが、すでに「常套手段」として定着していると、そう聞き及んだからだ。
言い換えれば、北村紗衣の手法が、それらと似ているのは、偶然ではなく、北村紗衣が、運動界隈の先例に倣って、それらを「政治的な権力闘争において、有効な手法」として、自覚的に採用した、ということなのではないかと、そう疑ったためだ。
そして、どうやらこの読み筋は、正しかったと思える情報が、徐々に集まりつつあるのである。
まあ、その問題はのちに譲るとして、私がここで言いたいのは、「発達障害をステグマ化する」という手法についてである。
「トランスジェンダリズム問題」における「トランスジェンダー」問題というのは、人口比にしてごく少数である、言うなれば「真性のトランスジェンダー」の問題ではない。
そうではなく、近年欧米において、子供の体から大人の体に変化しつつある、情緒が不安定になりがちな十代半ばの少女たちの間で、「トランスジェンダーになりたい」熱が異常な高まりを見せているという、病的な流行現象に関するの問題なのだ。
それと、「北村紗衣人気」には、共通点が見られるのではないか、ということである。
つまり、ここで問題なのは、精神的に不安定な少女たちというのは、自己肯定感の低さに由来する「変身願望と承認欲求」のゆえに、「平凡・普通ではないもの」にこそ「憧れがち」であり、そのためにわざわざ「トランスジェンダー」という「稀少事例」に惹かれたりするのではないか、ということだ。
実際、欧米の少女たちの間で「トランシジェンダー」への憧れが異様に高まった大きな要因としては、トランスジェンダーを含むLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア他)に対して、それまでとは違い、社会の側が極めて肯定的な理解を示すようになり、さらには、そうしたLGBTの中から、とりわけトランスジェンダーの中から「文化の最先端を行くインフルエンサー」として活躍し、もてはやされることになった者も多数出てきたから、ということもあるようなのだ。
そして、そのあたりの「ジェンダー問題」事情に詳しいはずの「フェミニスト」である北村紗衣であれば、「フェミニスト」である自分が「トランスジェンダー」になるわけにはいかないとしても、「発達障害」であることを「ステグマ(聖痕)」としてアピールすることのメリットに思い至っても、何ら不思議ではないのである。
なにしろ、ただでさえ「承認欲求社会」と言われる今の世にあって、「承認欲求に飢えている若者たち」が、「正常な、その他大勢」でいることよりも、「ちょっと問題のある(例えば、「不良」「不真面目」な)稀少種」としてでも「注目を集めたがる」といったこともあるだろうというのは、容易に理解できるところだからである。
つまり、今でも「若者」に人気のある北村紗衣なのだが、しかしいつまでも「フェミニズム」一本槍の、自称「不真面目な評論家」というだけでは、早晩「飽きられてしまう」恐れがある。
そこで、ここいらで二の矢として「発達障害」をアピールし始めたのではないか、ということだ。
一一そうすれば、「情緒不安定ぎみで、しかも承認欲求に飢えている(男女を問わない)人」たちから、「私も発達障害だと思う(だから、さえぼうのことが、よくわかる)」などという「共感」が寄せられる蓋然性は、決して低くはないだろうからである。
事実、SNSを見ていても、「AC(アダルトチルドレン)」だの「毒親に育てられた」だのと、わざわざ自分の「精神的な難点(の原因)」を世間にさらすような人が少なくない、という状況が、すでにずいぶん以前から続いている。
では、なぜそうなるのかと言えば、それは、「正常なその他大勢であるよりも、難点があっても、人とは違って注目される希少種でありたい」という願望が、社会全体に広範に存在しているからではないだろうか。
実際、そこに「承認欲求社会」の病理を読み取ることは、極めて容易なのである。
だから、「戦略」的思考能力を自負する北村紗衣なら、それを「利用しない手はない」と、そう考えても、何ら不思議ではないのだ。
ともあれ、「こんな北村紗衣」が、まともに「文学」や「哲学」や「映画」の「中身を理解できるわけがない」というのは、北村紗衣の4冊の著書についてのレビューで、すでに詳しく論証済みの事実だから、ここではそれを繰り返すことはしない。
嘘だと思うのなら、下のレビューを読んでから、できるものなら「反論」をしていただきたい。
当人である北村紗衣にもできない反論を、できる人がいるというのであれば、喜んでお相手をさせていただこう。
(※ その他の、北村紗衣関連レビューは、末尾に付したリンク集を参照のこと)
以上のようなわけで、「文学」や「哲学」や「映画」の「中身を理解できるわけがない」北村紗衣が、それでも、本作『バニシング・ポイント』を絶賛しているのは、どのような理由から、なのであろうか?
しかも、本作が、好きではないはずの「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる作品のひとつであるにもかかわらず、だ。
しかし、そんなご当人の『バニシング・ポイント』論は、ほとんど「主観的な感想文(印象論)」の域を出ない、極めて拙いものなので、これを読んだだけでは、「なぜ、北村紗衣は『バニシング・ポイント』を気に入ったのか?」の謎は解けない。
そこで、私は『バニシング・ポイント』を、見ることにしたのである。
○ ○ ○
さて、やっとここから『バニシング・ポイント』を論じることになる。
まずは、本作のストーリーだが、それは次のようなものである。
そして、同じ「Wikipedia」での「概要」には、次のようにある。
つまり、ポイントは『他愛のないことを切っ掛けとして、理由も見えず、ただひたすら車を走らせる男を描いた』作品だという点だ。
北村紗衣は、この「理由不明」な部分を『哲学的』だと評価しているわけなのだが、「理由不明」であるから「哲学的」だと思うのは、頭の悪い人特有の「短絡思考」でしかないし、北村紗衣の場合も、まさにそれである。
ただでさえ、「他人の感情がわからない」北村紗衣が、普通の人でも「理由が見え」ない本作を、まともに理解できるわけがない。
だから、基本的には、「理解はできないけれど、何となく好み」だからというので、北村紗衣は本作を、「哲学的な作品」などと、わかったようなことを言っているだけ、なのである。
また、本作『バニシング・ポイント』に対する、「高評価」というのも、おおむねこの種の「主観的」なものであり、要は「訳のわからないところが、すごい」というような、あまりにも「気分的な(非理性的な)評価」が多いようだ。
最初から「理解する努力を放棄しているような評価」であり、ただただ「すごいよ、とにかくすごい」と、そう言っているだけのようなものが多いのだ。
例えばこれは、上映館としての立場から、上映作品の「宣伝文句」として書かれた、「第七藝術劇場」の作品紹介文にも見て取れる。
こちらは、北村紗衣ほど拙くはないもののの、所詮は「過剰形容のレトリック」に頼りきったものでしかない。
この紹介文の魅力は『現実を切り裂き、時空を駆け抜ける』とか『遡行と跳躍によって非直線的に描かれる【時間】という概念の表現を革新』といった、いかにも「かっこいいレトリック」である。
「文学にうとい人」なら、こういう「キャッチコピー」的なカッコよさに、手もなくやられてしまうだろう。なかなか「使い手」のコピーライターさんなのである。
だが、内容的には、大したことは言っていない。
要は、「普通の「アメリカン・ニューシネマ」とは、ちょっと肌合いが違うよ」と言っているだけで、良い方に「違う」のか悪い方に「違う」のかまでは語っていない。
つまり、この人なら、当たり前の顔をして、オーソドックスな「アメリカン・ニューシネマ」だって何だって、「絶賛」して見せるだろうし、ここでは、その程度の曖昧な評価しか語っていない、ということだ。
また、後者の「時間」がどうたらとかいったレトリックも、要は「フラッシュバックなどの手法をうまく使っている」と言っているだけで、『概念の表現を革新』の方は、旧「JARO(公共広告機構・現ACジャパン)」が注意を促していた「嘘・大袈裟・紛らわしい」の類いに過ぎないのである。
そんなわけで、本作『バニシング・ポイント』を、「まともに鑑賞する」ならば、「Wikipedia」にあったとおり、主人公の行動が「理解不能」な作品、ということにしかならない。
一番わかりやすい点は、主人公のコワルスキーが「車の陸送屋」であるにもかかわらず、無茶苦茶な乱暴運転をして、車をボロボロにしてしまうことを、まったく意に介していない、という点であろう。
もちろん、これが初めての仕事だったのなら、そんな困ったやつなのだろうで済むのだが、本作を見るかぎりコワルスキーは、すでに何度も車の陸送をやっており、雇い主からも高く評価されている、という描写があるのだ。
言うまでもないことだが、優秀な「車の陸送屋」というのは、車に傷ひとつ付けることなく、かつスピーディーな搬送のできる者のことだろう。
本作を見るかぎり、コワルスキーは、元レーサーだっただけのことはあり、運転は上手いしスピードも出せるドライバーだ。だから、あとは、車を安全に搬送できるのなら優秀な「陸送ドライバー」だと評価されるし、これまではそれをやってきたからこそ、雇い主からも高い評価を受けたのであろう。
ところが、今回は「なぜか」、車がボロボロになることも意に介さず、無茶なスピードで無茶な運転をして、車をボロボロにしてしまう。そして最後は…。
今回に限って、コワルスキーが「無茶な運転」をした「理由」が示されているのであれば、誰も、その「理由」が見えないとは書かないし、まして「Wikipedia」にそう書かれたりはしない。
そんな、分かりやすい点を見逃したり、誤認を書いたりしていたら、すぐに指摘が入って訂正されるはずなのだが、それがなされないのは、結局、誰にも「コワルスキーが、今回に限って、度外れた無謀運転をした理由」がわからない、からに他ならない。
すなわち、その理由が「描かれてはいない」のである。
たしかに、コワルスキーが「スピード狂」である理由と思しきものは、いくつか描かれている。それは、
といったことが、「フラッシュバック」手法で、断片的に「暗示」されるのだ。
だが、これらはあくまでも「断片的な暗示」であって、「説明」ではない。
「こうしたことがあったから、こうなったのだ」という「明示的な説明」ではなく、あくまでも「暗示的」に「匂わせている」だけであり、その因果関係については、観客の「推測」に任せるような描写しか、なされていないのである。
したがって、(1〜3)のような、「数々のトラウマ的経験」によって、コワルスキーの中には、一種の「自殺願望」的なものが生まれ、その結果として、(4)「スピード狂」になったのであり、「自殺」だと断じてもいい本作のラストも、そうした文脈からならば、理解できないこともないのだ。
しかし、問題は最初に戻って、それが「なぜ今回だったのか?」という「謎」は、依然として、残ってままなのである。
車の陸送は、これまでにも何度も「問題なくこなした」はずなのだから、どうして今回に限っては、車をボロボロにすることさえ厭わず、つまり、車の陸送という業務を自覚的に放棄して暴走し、最後は、恩義ある雇い主の所有物である車もろとも「自爆」してしまったのか?
一一その理由の説明が、本作ではなされていないのだ。
だから、本作は、普通に評価すれば「穴のある作品=欠陥商品」なのである。喩えて言えば「よく走るが、すぐに壊れてしまう車」みたいなものなのだ。
そんなものを、普通は「名車」とは呼ばないのだが、「よく走る」という部分だけしか見えない人には、本作も「名車」に見えているということなのであろう。
実際、本作の「カーアクション」については、そんなものに興味のなかった私でさえも、単純に「スピード感満点」で、見ていて痛快なものだった。
一一だが、それだけだと言ってしまえば、それだけなのだ。
なにしろ、前述のどおり、本作には、主人公を理解する上での、決定的な「辻褄の合わなさ」が存在する。
無論、「カーアクションさえ痛快なら、それでいいじゃないか」とか「主人公の心理が理解不能だって、別にかまわないじゃないか。むしろ、その方が深みも出る」という意見もわからないわけではないが、前者だけなら「名作」の名には値しないし、「後者」の意見については、いささか安直であり、頭の悪い北村紗衣のような人にしか通用しない理屈でしかなかろう。
そもそも、本作の主人公であるコワルスキーが、観客の「共感」を得ることができるのは、コワルスキーが、本作に登場する「警察官」以外の人たちから、「無根拠な好意」を、やたらに寄せられているのを、見せつけられるからである。
コワルスキーが、好意を寄せられて然るべき合理的な理由はひとつだけならある。
それは彼が警官時代、一緒にパトカーに乗っていた同僚が、パトカーの後部座席で覚醒剤使用容疑者の女性を取り調べている際に、その女性に性的な暴行を加えようとしたので、コワルスキーはそれを止めたのだが、そのことでその同僚から恨みを買い、逆に彼の方が悪者にされて警察を追われた、という過去があった。
この事実は、新聞報道もされたようだから、そのことを知っている一部の人にとっては、彼は「ベトナム戦争の負傷帰還兵」としての「ヒーロー」であると同時に、「女性を性的暴行から守ったために、警察を追われた人」としての「ヒーロー」でもあるから、それで彼を崇拝している人がいても不思議ではないし、たぶん、コワルスキーが、盲目の黒人DJ「スーパー・ソウル」から、次のように「絶賛」されるのも、説明はないものの、たぶんそうしたことからなのであろうと、推察することもできる。
いかにもディスクジョッキーらしい「過剰なレトリック」を駆使した賛辞なのだが、しかし、本作を実際に見てみるならば、コワルスキーの「無謀運転」は、「悪徳警官」ではなくても、いや「職務に忠実な警察官」なら誰しも「市民の安寧を守るために、許してはおけない」たぐいの、極めて悪質な「危険運転」だというのは、明白な事実なのである。
コワルスキーが、無茶なスピードでの無謀運転の果てに、一人で死ぬのはかまわない。
しかし、映画を見ていればわかるとおり、彼の無謀運転のおかげで、周囲を通りがかった、多くの「まともなドライバー」たちは「死の恐怖」を味わされるのである。
自分が実際に、こんな車に遭遇したなら「なんて運転をしやがるんだ、このクソボケが!」と悪態をつくだけでは、とうてい済まされないだろう。
だが、この映画の「狡猾なところ」は、彼の「無謀運転」のせいで、「死人」は一人も出さない点なのだ。まさに、奇跡的に。
もちろん、コワルスキーの無謀運転のために死ぬ思いをした一般ドライバー(顔は出ない)は大勢いたはずだし、コワルスキーとスピード競争をした男の車は、道路から飛び出して川の中に転落したが、ドライバーは無傷だった、という様子が描かれている。
コワルスキーは、わざわざ車を降りて、男の様子を見に行き、その無事を確認してから、安心した様子で、また車に乗って走り去っていく、という描写がなされているのである。
また、当然のことながら、コワルスキーの車を追跡した、パトカーは何台も横転事故を起こしているし、白バイ警官もバイクから放り出される事故を起こしている。
だが、にもかかわらず、一人も死人は出てないし、大したケガは無いと言わんばかりに、そうした警官たちは、無線で本部に「ケガはない」と報告している様子が描写されるのである。
つまり、コワルスキーの「無謀運転」に巻き込まれた人たちからは、死人も出なければ、ケガ人らしいケガ人も出ていないという「説明的な描写」が、本作では自覚的になされているのである。
だが、あんな運転をされたのでは、「死亡事故」が出ないことなど、あり得ない。
それなのに、そのあり得ない「ファンタジー」的な描写が丁寧になされており、だから、そこに気づかない観客たちからは、コワルスキーの「無謀運転」も、なんとなく「肯定されてしまう」ように、本作は作られているのである。
そして、これは、先に書いたとおり、「警察」以外のたいがいの者は「無闇にコワルスキーに好意的」という「不自然な描写」と共に、コワルスキーを「ヒーローに仕立て上げる」ことに貢献している要素なのだ。
普通であれば、「あんな運転しやがって! おまわりさん、早くあいつを捕まえてくださいよ。でないと、大変な事故が起こりますよ」と訴える人が、それなりに登場するのが「自然なバランス」というものなのだが、本作においては、コワルスキーの悪口を言うのは、警察関係者か、もしくは、コワルスキーを応援するスーパー・ソウルに腹を立てて、盲目の彼に暴行を働くような、いかにも「憎たらしい白人グループ(三、四人)」だけなのだ。
つまり、「悪人」以外は、みんなコワルスキーを「ヒーロー」として無条件に褒め称えるのだが、しかし、現実にコワルスキーがやっているのは、傍迷惑なだけの「無謀運転」でしかない。
どんな「個人的な事情」があるとしても、あんなことを許す人は、普通はいないのだ。
つまり、この作品を高く評価する人というのは、作品を「論理的に理解しようとはしない人=その能力のない人」なのである。
だからこそ、サラフィアン監督の「不自然でご都合主義的な演出」(コワルスキーの運転が原因での、死人やケガ人はいっさい出ない)に気がつかないのだ。
フワーッと、雰囲気だけで見ているから、ラストの「自殺」としか言いようのない、コワルスキーの死に方も、何か「哲学的」な「深い意味を秘めたもの」のように思い込んでしまうのである。
本作とは、客観的に見れば、「アメリカン・ニューシネマ的な要素の散りばめられた、思わせぶりな、カーアクション映画」でしかない。
そうではないと言うのなら、ぜひとも、説得力のある「作品解釈」を聞かせてもらいたいものだ。
そうすれば、私も、喜んで私見を撤回するし、「Wikipedia」も書き換えられることになるだろう。
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さて、ここからは、「なぜ、北村紗衣は(こんな粗の目立つ作品)『バニシング・ポイント』を高く評価したのか?」「アメリカン・ニューシネマとされる作品の中では、例外的に高く評価したのか?」という疑問についての、謎解きをしよう。
先にその解答を、ひとことで言ってしまうならば、一一『バニシング・ポイント』という作品は、「北村紗衣に似ている」から、である。
こう書くと『バニシング・ポイント』を高く評価している人には嫌がられるかもしれないが、私は、自分の評価を、正直かつ忌憚なく語る人間なので、北村紗衣は「文筆家としてクズ」だと評価するのと同様、『バニシング・ポイント』についても「アメリカン・ニューシネマ的な要素の散りばめられた、思わせぶりな、カーアクション映画」でしかないと、そうした評価を語るに、遠慮するつもりはない。
まあ、『バニシング・ポイント』には、明らかな「構造的欠陥」を補って「あまりある」とまでは言わないものの、「際立った美点」としての「カーアクション」がある。
その点は、何の取り柄もない北村紗衣よりは、よほど「救いがある」と評価してもいいだろう。だが、そこまでなのだ。
さて、では「『バニシング・ポイント』という作品は、北村紗衣に似ている」とは、どういうことなのであろうか?
簡単に言えば、
ということである。
そして、ここで大切なのは、もちろん(A)であり、両者に共通する「思わせぶりな振り(演出)」とは何か、ということだが、『バニシング・ポイント』について言えば、前述の、
といったことであり、北村紗衣に方は、
といったことである。
つまり、「多くの人は持たない、つらい過去」を持っているから、「(今は)普通でなくても、それは当然だ」という、「自己特権化」による「自己正当化」である。
無論、コワルスキーの場合は、当人の代わりに監督が、それを観客にチラつかせて、「コワルスキーって、無茶苦茶に見えるけど、でもそれはそれなりに辛い過去があってのことなのですよ(だから、彼を責めないで)」と、「過去を理由に、現在の無謀な行いを正当化」してみせたのであり、それと同様、北村紗衣も、自分で「私は、ちょっと変わっているところがあるかもしれないけれど、それはそれなりの理由があるのです。だから、そんな同情されるべき私をあれこれ責めるのは、差別者だけですよ」と、そういうことなのだ。
つまり、両者は「思わせぶりな自己正当化のための演出的な振りにより、いまの問題行動を自己免責してしまう」という「厚顔無恥」さにおいて、似ており、そこまで「見抜く洞察力のない人たちから、カルト的に支持される」という点でも似ているのだ。
また、もうひとつの「共通点」を挙げておけば、
だという点である(誘引事故を含む)。
そんなわけで、北村紗衣が、なぜ「アメリカン・ニューシネマとされる作品としては例外的に、本作『バニシング・ポイント』を高く評価したのか」と言えば、それは『バ二シング・ポイント』に「自分との同類性」を感じたからなのである。「他人とは思えなかった」のだ。
しかし、この事実が暗示するのは、『バニシング・ポイント』のラストシーンと同じで、「北村紗衣のバニシング・ポイント(消失点)」も、自業自得の結果として、そう遠くはない先に待っているだろう、ということだ。
それは、映画のように「2時間後」ということはなくても、「2年後」というほど、遠い先の話ではないだろう、ということである。
だが、『バニシング・ポイント』の場合は、その「思わせぶりなラスト」で、「カルト的な名作映画」になりおおせたが、北村紗衣の場合は、「自爆」してしまえば、すべてはそこで終了。5万人のファンたちも、そこで、あとかたもなく雲散霧消してしまうのではないかと、私はそう見ている。
だがそれでは、北村紗衣にとって、あまりに「救いのないラスト」なのではないだろうか(合掌)。
(2024年10月28日)
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