《一代目》姉ちゃんの嫁ぎ先のもめ事、解決しに わざわざ上京しに来たよ 《二代目》伊勢という名字やめて北条にしたよ 《三代目》いちばん骨折ったよ(税政と民政と和睦ってハグして統べったよ) 《四代目》秀吉(ヒデヨスィ)に命あげたよ。 《五代目》小田原攻めの翌年ごートゥーヘブンしたよ。
番号〜♪ イチ!(北条早雲 そーうん) ニッ!(北条氏綱 うじツナ・うっじぃー) サンッ!(北条氏康 うじやす・ヤス!) シー!(北条氏康 うじまさ・マサ!) ゴッ!(北条氏直 うじNao・ちょく!) # 前に並んでいても 後北条(ごほうじょう)氏 # …だまれよ(*´∀`)
元亀2年(1571)10月3日は前年8月頃から病だった北条氏康が小田原城で死去した日。河越夜戦では山内上杉・扇谷上杉氏を破り、今川義元・武田信玄と三国同盟を結んで上杉謙信とも戦い関東に領国を拡大した。12年前に家督を氏政に譲った後も氏康が実権を握り政策や軍事の多方面で舵取りした。
天正6年(1578)5月13日は上杉景勝と対立していた上杉景虎が春日山城を出て御館に移った日。2か月前の上杉謙信急死による後継者争い御館の乱。景虎の実家の北条氏と武田勝頼も巻き込んだ争いの始まり。翌年3月景虎が自害し景勝の勝利に終わるが越後を二分する争いは上杉氏に負の影響を残す。
天正18年(1590)7月5日は小田原城の北条氏直が3ヶ月におよぶ籠城戦を経て豊臣秀吉に降伏した日。氏直は滝川雄利の陣所へ赴き己の切腹を条件に将兵の助命を乞うた。父氏政や叔父氏照など主戦論者らは切腹させられるが氏直は高野山へ送られた。早雲以来5代にわたる関東の雄北条氏は滅亡した。
永禄12年(1569)5月17日は今川氏真と正妻早川殿が北条領へ逃れた日。家康と和睦成立により2日前に掛川城を開城した。早川殿の実家を頼りこの日に蒲原城へ。小田原に移り早川殿の兄・氏政の嫡男・国王丸(氏直)を猶子として駿河を譲ることを約束。これで実質的に戦国大名今川氏は滅亡した。
天正18年(1590)3月29日は豊臣秀次軍が小田原北条氏の支城・伊豆山中城を攻略した日。これにより秀吉は箱根に進みいよいよ小田原城の攻囲が始まる。現在も畝堀や障子堀が綺麗に残る城。優れた築城術も城兵3千に対し豊臣軍約7万と圧倒する数を揃えると半日で落城してしまうものなのですね。
天正7年(1579)3月17日は上杉景勝が上杉景虎の拠る御館を陥落させた日。謙信の後継者争い御館の乱。景虎は実家の北条家へ逃亡を図り追い詰められ自害。これで上杉は一時衰退するが逆に家中の独立的性格の強い勢力を一掃し謙信の頃より支配力強化されたと肯定的に見られるかもしれないですね。
天文23年(1554)12月14日は武田信玄の長女・黄梅院が北条氏康の後継・氏政に嫁いだ日。信玄は合計1万人規模で娘を送ったという。夫婦仲は良かったと伝わるが同盟破綻で甲斐に戻され失意のうち27歳で亡くなったのが通説。小田原に留め置かれた新説もありこちらが史実であってほしい。
元亀2年(1571)10月3日は北条氏康が死去した日。河越夜戦で山内上杉・扇谷上杉を破り武田信玄、上杉謙信とも争い関東に覇を唱えた。1年ほど闘病中だったが12年前飢饉の責任をとる形で家督は氏政に譲った後も氏康が主導してきた。リーダー交代に失敗は至る所であるので時間は必要ですよね。
天正18年(1590)8月12日は秀吉の小田原攻めで敗れた北条氏直が高野山に入った日。初代早雲以来5代で関東の覇者北条氏は終焉。実権は切腹となった父氏政にあったとしても氏直が最後の当主。先代が口出してやりにくかったのかなと想像しますが続いたものを自分が終わらせるのは辛いですよね。
天文23年(1554)12月14日は武田信玄の長女・黄梅院が北条氏康の後継・氏政に嫁いだ日。武田・北条・今川三氏により婚姻による甲相駿三国同盟が結ばれた。信玄は合計1万人規模で娘を送ったといわれる。夫婦仲は良かったと伝わるが同盟破綻で甲斐に戻され失意のうち27歳で亡くなった。
天正17年(1589)11月24日は秀吉が小田原の北条氏直に惣無事令違反として宣戦布告し諸大名に出陣の準備を命じた日。上野国の沼田領をめぐる北条氏と真田氏の紛争で3分の2を北条領とする調停が成立。しかし沼田城主猪俣邦憲による真田氏の名胡桃城奪取の報に接した秀吉が小田原攻めを決定。
弘治3年(1557)11月19日は武田晴信(信玄)が長女・黄梅院のため富士浅間神社に安産祈願文を出した日。天文23年(1554)に武田氏・北条氏・今川氏による甲相駿三国同盟のため北条氏康の跡継ぎ氏政に嫁いだ。黄梅院は嫡男・氏直などを産むが晴信は病弱な娘の懐妊のたび安産祈願をした。
天正19年(1591)11月4日は北条氏直が30歳で死去し後北条氏の嫡流が断絶した日。前年の秀吉の小田原攻めで自ら切腹を申し出て将兵の助命を請い降伏。父らは切腹となるが氏直は高野山へ追放後に赦免され大名復帰した直後。死因は疱瘡(天然痘)といわれる。従弟で養子の氏盛が遺領を継いだ。
天正16年(1588)8月22日は北条氏直が秀吉の惣無事令に応じ家康の斡旋で叔父の北条氏規を上洛させた日。氏直の正室は家康の娘であり氏規と家康は幼少の頃共に駿府で人質にあった関係性があった。一旦これで緊張関係が和らぐと北条は従属の条件とした真田との沼田領問題の裁定を秀吉に求めた。
天正18年(1590)8月12日は秀吉の小田原攻めで敗れた北条氏直が高野山に入った日。7月5日に氏直は自らの切腹と引き換えに将兵の助命を請い降伏。父氏政や叔父氏照らは切腹を命じられる一方で氏直は高野山へ送られることに決定。初代早雲以来5代目で関東を制した戦国大名北条氏は滅亡した。