《一代目》姉ちゃんの嫁ぎ先のもめ事、解決しに わざわざ上京しに来たよ 《二代目》伊勢という名字やめて北条にしたよ 《三代目》いちばん骨折ったよ(税政と民政と和睦ってハグして統べったよ) 《四代目》秀吉(ヒデヨスィ)に命あげたよ。 《五代目》小田原攻めの翌年ごートゥーヘブンしたよ。
番号〜♪ イチ!(北条早雲 そーうん) ニッ!(北条氏綱 うじツナ・うっじぃー) サンッ!(北条氏康 うじやす・ヤス!) シー!(北条氏康 うじまさ・マサ!) ゴッ!(北条氏直 うじNao・ちょく!) # 前に並んでいても 後北条(ごほうじょう)氏 # …だまれよ(*´∀`)
天正7年(1579)2月3日は北条氏直が家臣の垪和(はが)又太郎に「直」を与える一字書出が行われた日。元服のとき烏帽子親がその子の命名のため自分の諱の一字を与え、その一字を記して与えた文書。実際の親子に限らず主従の間でも文書の発給は行われ、より強い絆をあらわしたものとされている。
天正18年(1590)7月5日は小田原城の北条氏直が3ヶ月におよぶ籠城戦を経て豊臣秀吉に降伏した日。氏直は滝川雄利の陣所へ赴き己の切腹を条件に将兵の助命を乞うた。父氏政や叔父氏照など主戦論者らは切腹させられるが氏直は高野山へ送られた。早雲以来5代にわたる関東の雄北条氏は滅亡した。
天正7年(1579)2月3日は北条氏直が家臣の垪和(はが)又太郎に「直」を与える一字書出が行われた日。元服で烏帽子親や主君が命名のため自分の諱の一字を与えた文書。実の親子に限らず家臣とは主従関係の強い絆をあらわした。今自分がもらってその人と強い絆を感じるものって何でしょうね。
天正18年(1590)3月1日は秀吉が後陽成天皇から北条氏討伐を名目として節刀を賜り小田原攻めに出陣した日。前年11月24日に北条氏直に最後通牒発し家康ら諸大名に準備させた。総勢21万の戦力で攻め7月に小田原城は開城した。想像を超える数を揃えられるとどうしようもない感があります。
天正19年(1591)11月4日は北条氏直が30歳で死去し嫡流が断絶した日。前年の秀吉の小田原攻めで自ら切腹を申し出て将兵の助命を請い降伏。父らは切腹となるが氏直は高野山へ追放後に赦免され大名復帰した直後。死因は疱瘡(天然痘)といわれる。感染症というと他人事と思えないこのご時世。
天正18年(1590)8月12日は秀吉の小田原攻めで敗れた北条氏直が高野山に入った日。初代早雲以来5代で関東の覇者北条氏は終焉。実権は切腹となった父氏政にあったとしても氏直が最後の当主。先代が口出してやりにくかったのかなと想像しますが続いたものを自分が終わらせるのは辛いですよね。
天正16年(1588)8月22日は北条氏直が惣無事令に応じ家康の斡旋で叔父の北条氏規を上京させ秀吉との和議をはからせた日。この段階で秀吉に従う決断ができていれば小田原攻めはあったでしょうか。先延ばししていて思わぬトラブルが起きて取り返しがつかないパターンに嵌まったように見えます。
天正18年(1590)7月5日は小田原城の北条氏直が豊臣秀吉に降伏した日。教科書ではこれで秀吉の全国統一が完成したと習いました。江戸時代から知られた例えで長引くばかりでまとまらない会議を小田原評定といいますが、ただ大名独裁でなく会議で決めていたと考えるとイメージ変わりますよね。
天正17年(1589)11月24日は秀吉が小田原の北条氏直に惣無事令違反として宣戦布告し諸大名に出陣の準備を命じた日。上野国の沼田領をめぐる北条氏と真田氏の紛争で3分の2を北条領とする調停が成立。しかし沼田城主猪俣邦憲による真田氏の名胡桃城奪取の報に接した秀吉が小田原攻めを決定。
天正19年(1591)11月4日は北条氏直が30歳で死去し後北条氏の嫡流が断絶した日。前年の秀吉の小田原攻めで自ら切腹を申し出て将兵の助命を請い降伏。父らは切腹となるが氏直は高野山へ追放後に赦免され大名復帰した直後。死因は疱瘡(天然痘)といわれる。従弟で養子の氏盛が遺領を継いだ。
天正16年(1588)8月22日は北条氏直が秀吉の惣無事令に応じ家康の斡旋で叔父の北条氏規を上洛させた日。氏直の正室は家康の娘であり氏規と家康は幼少の頃共に駿府で人質にあった関係性があった。一旦これで緊張関係が和らぐと北条は従属の条件とした真田との沼田領問題の裁定を秀吉に求めた。
天正18年(1590)8月12日は秀吉の小田原攻めで敗れた北条氏直が高野山に入った日。7月5日に氏直は自らの切腹と引き換えに将兵の助命を請い降伏。父氏政や叔父氏照らは切腹を命じられる一方で氏直は高野山へ送られることに決定。初代早雲以来5代目で関東を制した戦国大名北条氏は滅亡した。
天正18年(1590)8月1日は関東転封となった徳川家康が江戸城へ入った日。小田原の北条氏を滅ぼした秀吉の転封命令に従い新しい関東の主となった。入城は新領主が豊穣をもたらすとイメージづけるために新穀収穫の吉日八朔が選ばれた。家康の動きは素早く転封命令後すぐ江戸の開発に着手した。
天正8年(1580)6月30日は武田勝頼の命令で真田昌幸が北条氏の沼田城を攻略した日。8月下旬だったとも。父幸隆(幸綱)がかつて領した吾妻郡に利根郡を加えた北上野2郡を手中に。武田氏の滅亡で昌幸は織田氏に属したため沼田城を明け渡すが本能寺の変に端を発する混乱の際に再び奪取した。
天正17年(1589)11月24は秀吉が小田原の北条氏直に惣無事令違反として宣戦布告し諸大名に出陣の準備を命じた日。北条と真田の沼田領をめぐる調停後、沼田城主猪俣邦憲による真田の名胡桃城奪取の報に接した秀吉が激怒した。相手に対する態度を曖昧にせず付け入る隙を与えないことかと。