北条氏政の辞世 戦国百人一首⑮
北条氏政(1538-1590)は、後北条氏の第4代当主。
相模国の戦国大名である。
豊臣秀吉の小田原攻めを招いた責任を取らされて自害した。
そして後北条氏による関東支配は終結し、戦国大名としては滅亡した。
我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば
我が身が今この世から消え去るということを、どのように思うべきというのだ。空から生まれ、空に帰って行くだけなのだから。
この辞世には自分の最期に際し、「死など、どうということはない」と言っているようで、どこか虚ろな作者の想いや絶望を感じる。
それは北条氏政という人物の背景を多少なりとも知っているからだろうか。
彼にとっては不名誉な逸話が伝えられる。
食事の際に飯に一度汁をかけ、汁の量が少なかったのでもう一度汁をかけ直したことを「毎日食べる飯にかける汁の量も一度で量れない」と父親・北条氏康に嘆かれた。
農民が麦刈りする様子を見て、刈った麦がそのあと乾燥、脱穀、精白の作業を経て調理できるということを知らず「あの麦で昼飯にしよう」と言ったのが武田信玄に伝わって笑われた。
これらの話は、氏政のせいで北条氏が滅亡してしまったという説に正当性を与えんばかりだが、実際のところ彼はそれほど暗愚な人物ではなかったと言われている。
実際氏政は、
・北条氏を戦国最大級の大名へと躍進させた
・父親・氏康の発案だった検地や所領役帳を基板とした領国の統治システムを完成させた
・兄弟とも争わず、愛妻家で家臣とも力を合わせた
・国人や農民との共存共栄を目指した
など、むしろ統治者としては認められるべき点が多くある。
1583年、古河公方・足利義氏が亡くなると北条氏政は関東において最高の権力者となった。
1585年には、下野侵攻、常陸南部への勢力拡大も成功し、領国は相模・伊豆・武蔵・下野・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石の広大なエリアを牛耳ることとなっている。
1588年、秀吉は、北条氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求めたが、北条氏政はこれを拒否。北条氏にとって、この行事に列席すれば、それはすなわち北条氏が豊臣家の臣下に下ることを意味するからである。
そこを北条氏とは縁戚関係にあった徳川家康によって説得された氏政は、弟・北条氏規を名代として上洛させることで、秀吉との関係を一時落ち着かせた。
1589年からの再度の上洛要求に一度は応じていた北条氏政が先延ばししたことが、秀吉をまた怒らせ、両者の関係を悪化させた。そんな時、弟・北条氏邦の家臣が真田昌幸の名胡桃城を奪取する事件が発生。秀吉が定めた惣無事令という大名間の私闘を禁ずる法令に違反しており、怒り心頭の秀吉は事件の首謀者を処罰して即刻上洛することを要求した。実は、名胡桃城奪取の真相は未だに不明の部分も多く、氏政が命令した事件ではない可能性もあるが、秀吉が北条氏に対して不信感をつのらせたことは事実である。
秀吉は、上洛してこない氏政をつまりは豊臣家への従属拒否だと判断。
諸大名に北条氏追討を命令したのである。
序盤こそ善戦した北条氏だが、小田原城に籠城してからは、領国内の城が次々と落城し、22万という豊臣軍に対抗できず降伏した。
降伏条件は
・武蔵・相模・伊豆のみを北条氏の領地とする
・氏政の嫡男・北条氏直に上洛させる
であった。
氏直は、自分の命と引き替えに全ての家臣の助命を乞うたことが秀吉の心を動かし、助命された。ところが、秀吉は和睦条件を破り、北条氏討伐のきっかけを作った責任者・氏政に切腹を命じた。
氏政が残した別の辞世もある。
雨雲のおほえる月も胸の霧もはらいにけりな あきの夕風
北条氏政、享年52。