Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-4173 #サーフィン #サーフショップ #イエローマーケット #yellowmatrket #楽天 #ヤフオク #京王線 #久我山 #芦花公園 #amazon #仙川 #クリエイチャー

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最近の記事

【太宰府天満宮が焼失】1498年11月22日

【太宰府天満宮が焼失】1498年11月22日 筑前で少弐氏の残党と大内義興が再び戦い、太宰府天満宮が焼失する。北九州では大内氏の伸長での抗争が絶えない。日明貿易の窓口の九州は先進地域で貿易で潤っていた。それを統括するのが大宰府だったが既に商業の中心は博多に移っていた。戦の本陣には大きな建物が必要だったが、当時は寺くらいしか無かったので、度々摂取され災禍にあった。奈良の大仏殿も2度焼失している。 #光る君へ #大河ドラマ ​​​​​​​

    • 【武田信虎、海ノ口城を攻撃】1536年11月21日

      【武田信虎、海ノ口城を攻撃】1536年11月21日 武田信虎が信濃佐久郡に侵攻、海ノ口城に攻め掛かる(異説あり)。標高の高い堅固な山城に3000の兵で平賀源心法師が籠る。武田は7000程度と言われた。当初数日で攻略のつもりだった信虎、城の井戸を枯らし焦って出撃の所を討ち取る作戦だった。しかし折からの大雪で城への横穴堀りは難航、1か月経っても埒が明かなかった。更なる寒さで兵は凍死する事を恐れ撤退に、それの殿を申し出たのが初陣だった若き信玄だった。城兵も疲れ切っており追撃は無く軍

      • 【浅野長政が甲斐を拝領】1593年11月20日

        【浅野長政が甲斐を拝領】1593年11月20日 浅野長政が豊臣秀吉から甲斐を与えられる。秀吉の正妻おねの弟、少ない一門衆として秀吉の作戦遂行に従っていた。中国大返しでも後方支援で大活躍し要衝の甲斐を拝領した。甲斐は関東に移封された家康のの旧領、そして武田家の本拠地。地形は盆地が多く治世には苦労する土地柄。しかしこの時は秀吉の天下統一の中央集権化で非常に発展していた。信頼できる一門を家康の監視役として入府させたが、牢名主は牢人に調略されてしまい。関ヶ原合戦では家康に従う事になる

        • 【稲葉一鉄死去】1588年11月19日

          【稲葉一鉄死去】1588年11月19日 稲葉一鉄が美濃清水城で病没。享年74。斉藤道三の美濃三人衆の一人の謀将。数々の道三の謀略に関与して来た。信長の美濃攻略にも早くから協力して来た。当主義龍は酒色にふける暴君。古参の家臣は秀吉の調略で次々と寝返っていた。一鉄も信長に手引きをし、その後臣従した。本能寺の変では独自の動きで所領拡大を狙ったが秀吉の誘いに臣従。大名として生き残った。「頑固一徹」の語源とも言われる #光る君へ #大河ドラマ ​​​​​​​

          【藤堂高虎、伊予半国の主に】1600年11月18日

          【藤堂高虎、伊予半国の主に】1600年11月18日 徳川家康が藤堂高虎の軍功を賞し十二万石を加増、伊予半国二十万石を与える。下級武士から能力で7度主君を替え大大名に上り詰めた。身の丈は190cmと言われ若き頃は10人力の大活躍でしたが、実は実務能力が抜群のテクノクラートだった。荒廃した土地、悪政に乱れた政治、軍制や築城…どれを取っても主君の期待に応えた。家康は秀吉政権の色濃い畿内を離れ、江戸を政治の中心にする構想を持つ。家臣一同は豊臣家の怒り、その監視。朝廷との関係性、文化経

          【藤堂高虎、伊予半国の主に】1600年11月18日

          【人取橋の戦い】1585年11月17日

          【人取橋の戦い】1585年11月17日 仙道人取橋の戦いで、苦戦の末伊達政宗軍が二本松・蘆名・佐竹氏らの連合軍を退けるが、勇将鬼庭左月(良直)が戦死。享年73。政宗の南下作戦は仙道筋の蘆名佐竹畠山大内などの脅威となる。しかも北の大崎、西の最上も政宗包囲網に加わり3正面作戦の窮地に陥った。僅か19歳にも関わらず政宗はただの猛将ではなかった。まずは最上は母の実家、書状などで懐柔し和睦に持ち込む。そして北の大崎に全軍を向けた。これに驚いた大崎は大混乱、しかしこれも陽動作戦で南の蘆名

          【人取橋の戦い】1585年11月17日

          【里見義康死去】1603年11月16日

          【里見義康死去】1603年11月16日 安房館山城主里見義康が没す。享年31。里見家9代当主館山藩の始祖。享徳の乱以降戦乱の続く房総半島は秀吉の小田原征伐で里見氏だけは生き残り安房4万石を安堵される。領地は海と徳川領に囲まれ隣接の大多喜には四天王の猛将本多忠勝が入り、強烈なプレッシャーを受ける。関ケ原でも徳川与力として参戦、飛び地に3万石加増された。しかし義康死後は、やはり家康にとっては邪魔な海路で江戸が目の前に外様が居る状況は看過されず伯耆へ移封され、安房里見氏は終わる 

          【里見義康死去】1603年11月16日

          【吉川元春死去】1586年11月15日

          【吉川元春死去】1586年11月15日 吉川元春が小倉の陣中で癰瘡(ようそう)を患い病没。享年57。毛利元就次男、毛利の両川と言われ柱石となる吉川家当主。元就は和戦合わせて安芸国人を併呑していく。その中でも最強と言われた吉川家は正室妙玖の実家、弟の興経はその名の通り(大内義興の興と尼子経久の経)大勢力の間を渡り歩く信用できない人物で家中は動揺していた。それに目を付けた元就は一門衆の離反を誘い興経を孤立、隠居させた。そして元春を養子に入れ吉川家奪取に成功した。元春は徹頭徹尾吉川

          【吉川元春死去】1586年11月15日

          【伯耆中村家で内紛】1603年11月14日

          【伯耆中村家で内紛】1603年11月14日 伯耆の中村忠一が老臣横田内膳村詮を殺害したため横田党が籠城し抵抗、出雲の堀尾忠氏が出兵しこれを鎮める。豊臣家の3中老と言われた中村と堀尾。秀吉の少ない譜代家臣に当たる。#司馬遼太郎「#功名が辻」では山内一豊との手柄争いが書かれている。関ケ原合戦の功績で加増転封された中村家だが、関ケ原の2か月前に一氏が死去、若き当主で家中は揺れていた。横田内膳は一氏の岸和田城攻めの頃、三好家家臣だった所を中村家に仕官した。戦功と人望もあり一氏の妹を正

          【伯耆中村家で内紛】1603年11月14日

          【尼子経久死去】1541年11月13日

          【尼子経久死去】1541年11月13日 尼子経久が月山富田城で没す。享年84。山陰の太守最大8か国の守護となった。若き頃、守護の京極家を放逐され牢人となる。中国地方は6代将軍の万人恐怖の義教が、有力大名を次々と粛清し動揺していた。出雲の京極家も家中が和戦両派で揉めており、その隙をついて挙兵し出雲を制圧した。経久は持ち前の謀略、また一度会うと引き込まれる器の大きさと無私の態度で、どんどん勢力を拡大。周防の大内との2大勢力に発展した。有名なエピソードで客人が庭の松を褒めたら、家臣

          【尼子経久死去】1541年11月13日

          【耳川の戦い】1578年11月12日

          【耳川の戦い】1578年11月12日 耳川の戦いにて島津軍が大友軍に大勝、戦死者四千を出した大友家は以後衰亡の一途を辿る。九州三国志のクライマックスの戦い、南下作戦の大友は日向にキリスト教国建設を目指す。大友3万島津2万の戦いは圧倒的大友有利と見られた。大友は若き当主義統は島津を侮り大軍にモノを言わせ突撃する。耳川を渡河した刹那、島津のステガマリが炸裂、おびき寄せる遊撃軍はわざと負け、撤退していく、好機と見て深追いする敵を伏兵を使い挟み撃ちで撃滅する。重臣戸次道雪の進言を無視

          【耳川の戦い】1578年11月12日

          【興福寺で秀長の病気平癒を祈願】1590年11月11日

          【興福寺で秀長の病気平癒を祈願】1590年11月11日 大和興福寺で豊臣秀長の病気平癒を祈願して祈祷が行われる。秀吉の大名統治の肝の弟、無私で温厚、全てを秀吉の為に捧げて来た。「天下は天下の為の天下、ただ一人の物に非ず」秀吉が好んで使った言葉は、正に秀長との天下だった。秀吉晩年の暴走は耳の痛い直言をしてきた蜂須賀小六、秀長、千利休の死のよって制御不能となって行く #光る君へ #大河ドラマ ​​​​​​​

          【興福寺で秀長の病気平癒を祈願】1590年11月11日

          【今川と織田が人質交換】1549年11月10日

          【今川と織田が人質交換】1549年11月10日 今川の捕虜織田信広と織田の人質松平竹千代(後の徳川家康)の交換が成立する。事の発端は家康父の弘忠が暗殺、その黒幕は織田、今川家傀儡の三河は不安定化する。それに怒った今川家は三河安定の為の派兵をする。織田派家臣により竹千代(家康)は織田の清州に送られ三河家臣団は唯一の後継者を奪われ動揺していた。一計を案じた軍僧太源雪斎は信長兄の信広を拉致し、この人質交換となる。非常に狡猾な今川家の戦略に織田家は屈するしかなかった。 #光る君へ #

          【今川と織田が人質交換】1549年11月10日

          【朝倉義景が従四位下に】1559年11月9日

          【朝倉義景が従四位下に】1559年11月9日 朝倉義景が従四位下に叙せられる。朝倉は戦国で唯一守護代から守護になったと言う下剋上を平和的に行った。謙信の長尾家も守護代だったが、上杉家相続後に守護と関東管領になった。通常の武家は従五位下、足利将軍で従四位上なので朝倉家は家格に於いては、吉良や今川以上と言える。今のイメージでは日本海側は「裏日本」的だが、当時は全く逆で、海運や貿易は日本海側が主だった。大陸にも近く越前は繁栄し、律令では「上国」とされていた。その後足利義昭や織田信長

          【朝倉義景が従四位下に】1559年11月9日

          孔子の論語「貧しくて楽しみ、富みて礼を好む。」

          孔子の論語「貧しくて楽しみ、富みて礼を好む。」孔子は2700年前中国春秋戦国時代の諸子百家の最も著名人。しかし世は戦乱で孔子の説く道徳常識見識や人の世の情感などは廃れ、戦争に明け暮れる修羅の巷。どの国王からも相手にされず流浪の日々だった。しかし人心が荒れ果てた故か、弟子は3000人以上いたと言われ、その弟子が孔子の言行録をまとめたものが論語だ。昔の授業であった道徳は論語を曲解して戦前の価値観をちりばめた、まがい物だった。「智」「情」「意」で人は動くもの。そのどれかが欠如するも

          孔子の論語「貧しくて楽しみ、富みて礼を好む。」

          【徳川頼宣が水戸藩主に】1603年11月7日

          【徳川頼宣が水戸藩主に】1603年11月7日 徳川家康の第十子・頼宣が水戸藩主となる。ご存じ御三家、水戸黄門で有名な水戸藩の祖は僅か1才で大名になる。それは異母兄武田信吉が20歳で早逝し、空白となった水戸を相続した。武田家再興を果たした旧臣は落胆したが、家康の配慮で同じ家康の子を配し配慮した。叔父と甥の関係だが家光と同世代で仲良く江戸で育つ。内向的な家光は奔放な頼宣のお陰で武家の棟梁らしい性格も身に着けたと言われる。兄の紀伊家頼房に嫡男が居ない状況で、自分が先に嫡男が誕生、兄

          【徳川頼宣が水戸藩主に】1603年11月7日