動員型国家の超克

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  • 熟議のために

    日本の政治において、熟議を定着させ、物事が拙速かつ強権的に決まらない社会にしく方策を考えていきたいです。

  • リベラリズムの行き先

    リベラリズムやメリトクラシーへの「反感」をどのようにすれば制御できるのか?

  • 認知科学と分析哲学

    認知の不思議さと分析哲学にまたがるアジェンダについて話していきます

  • 経済の有り様について考える

    日本経済のあり方が末期症状を見せる中で、何とか「その先」に行く方策について考えたいと思っています。

  • 歴史書を読んで考える

    歴史に関する書籍を読んで、思いついたことを徒然に書き連ねています。

最近の記事

第2勢力の力量を見てみたい。

 2024年10月の総選挙の結果、現与党の過半数割れとなった。この結果を受け、「躍進」した国民民主党が政策決定のキャスティングボードを握ったと、マスコミは喧しい。  しかし、議席数で言えば、国民民主党は第3党ですらなく、第4党である。加えて、その議席数は第1党、第2党に対して、100議席以上の差があるのであり、議決において決定的な力を持てるというのは、冷静に考えるとおかしい気がする。  現在のイスラエルの連立政権は、連立している極端な政党に過大な決定権を握られ、政策が硬直化し

    • 与党過半数割れの状況での国会審議の新しい姿の検討が必要では。

       2024年10月の総選挙において、自公の与党は衆議院議席の過半数を失いました。この選挙で議席を伸ばした国民民主党の玉木さんは、この与党過半数割れの状況を受けて、「どの党も過半数を取らない状況になれば、各党のさまざまな意見を聞いて物事を決めていく新しい政策決定のルールが必要だ」と述べています。  いわば、国会審議ルールの改変の時という話をされていますね。  国会では、本会議質疑は言うまでもなく、委員会審議も儀式化していると指摘されて久しいところです。これを転換させるという議

      • 「半代表制」を具体化する政党組織

         昨今の政治資金の問題に端を発し、政治組織の資金統制というものがどうあるべきかが気になっています。  そこで、自民党の党則と立憲民主党の党規約で、それぞれの機関がどうなっているのか確認しました。  両党とも、いわゆる包括政党として組織を形成していると思いますが、この両党では、党員総会ー役員会という院外活動=党務を担う系列と、両院議員総会ー総務会/常任幹事会という院内活動=国会活動を担う系列という2系統の機関があり、これを総裁・党代表(および幹事長等の上級スタッフ)が人格的に

        • 「生政治」に対抗する「くじ引き」

           「生政治」、つまり、死なせないためにコントロールする政治は、人気投票による選挙制議会が生み出している。多数派の「鋳型」に閉じ込めて、死なせないようにする。同時に、このメカニズムに、人気投票で選ばれた当人たちも絡めとられていく。    また、専門知=試験にる選抜機構も、この「絡み」を打破する方向に、結局は作用しなかった。むしろ、メリトクラティックな選抜によって、部分社会は同質化し、強化されていった。  では、突破口として、「くじ引き」は作用するか?  組織や部分社会の「ふち

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        • 熟議のために
          6本
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          13本
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        • 歴史書を読んで考える
          9本
        • AIの倫理、AIの経済性
          8本

        記事

          「平均的な子ども」は存在しない~「平均(時代、思想)の終焉」

          「ハーバードの個性学入門」という翻訳本があります。この本の原題は、「The End of Average」で、「平均(時代、思想)の終焉」と訳せますが、この原題の方が、この本の雰囲気をうまく表現していると思います。   目次平均的なパイロットなんて、いなかった! 平均に合わせた保育は、全員に不適合 個性に関する3つの原理 平均的なパイロットなんて、いなかった!  さて、この本は、次のような、とても印象的なエピソードから始まっています。  昔、飛行機のコクピットの寸法が

          「平均的な子ども」は存在しない~「平均(時代、思想)の終焉」

          保育「領域」の実在性を統計学的、分析哲学的に考えてみると

          領域と因子分析 「保育」という活動分野において、目標とされているのは、子どもの安全で健康的な生活の確保となる「子どもの充足」(いわゆる療育)と子どもの成長をサポートする「子どもの発達」(いわゆる教育)ということになる。  後者の「子どもの発達」を、21世紀の20年代において、ある程度、科学的、「客観的」(これは、エピソード記録の賞揚の背後にある現象学的に発達を記述しようとする性向とは異なるという意味合いを含んでいる)に把握する場合には、「尺度」を用いた技法となるであろう。  

          保育「領域」の実在性を統計学的、分析哲学的に考えてみると

          哲学系と心理科学系の感情論

           感情を考える学問分野としては、哲学系と心理科学系の2方向が存在していると言えるだろう。  哲学系で考えるとは、基本的には、特に分析哲学的に「感情」という概念を磨き上げるということである。直感的に把握している「感情」言葉には、その含意を詳細に検討すると、矛盾する部分が多く含まれている。そういった矛盾を発見し、無矛盾の概念体系を彫琢していくのが、哲学系の感情論となる。その結果、従来の感情というものに帰属していた属性が大きく見直されることもある。というよりも、それが哲学系感情論の

          哲学系と心理科学系の感情論

          労働者協同組合とDAO

           労働者協同組合は、DAOと親和性が高いのではないかと漠然と考えていた。  しかし、経営と労働従事を極力近づける仕組みであるから、関係性の広がりを志向するDAOとは、実はあまり相性が良くないのかもと思い直した。 労働者協同組合とDAOが「噛み合う」のは、 ・意思決定サイクルがものすごく短い場合で、少人数でも対面の合意形成が難しい場合 ・事業、業務の内容がスマートコントラクトによる自動実行の面が強い 場合 という場合かなと思う。 また、労働者協同組合法では、投票

          労働者協同組合とDAO

          「理不尽な進化」とグレゴリー型生物である人間

           吉川浩満氏の論じる「理不尽な進化」「理不尽な絶滅」という進化メカニズムの実相と、デネットのいうグレゴリー型の生物として、パーツを複合した道具に依存した機械文明環境に過剰適応した人間という存在様式を重ね合わせると、機械文明を構成する物的リソースが使えなくなった時に、人間という存在は「理不尽な絶滅」に見舞われるということになろう。  ある環境条件に最適応した存在は、その環境がある時、偶然に壊れてしまえば、その環境とともに退場するしかない。要は、99.9%の種は消滅してきたのであ

          「理不尽な進化」とグレゴリー型生物である人間

          宮崎史学から見た日本史の時代区分

           宮崎市定は、「古代」の特徴を都市国家又はその連合体に、「中世」の特徴を貴族制という地方の面的社会支配の優越に見出した。では、日本史における「古代」とは、どう位置づけられるのだろうか?  平安後期は貴族制の全盛期とされるが、宮崎史学のフレームワークからは、「中世」ということになる。そして、それが院政期を挟んで、少なくとも戦国期まで継続しているということになる。院政期、すなわち11世紀からを日本の中世と考える枠組みも大分、普及しているので、それを藤原摂関時代という貴族制期にまで

          宮崎史学から見た日本史の時代区分

          都市社会学、都市認識における空間論的転回

           社会現象が都市空間の特定の箇所という物理的な客体と相互に紐づけて認識されるようになったのが空間論的転回。  それまでの「都市という社会のなかで起こっている現象を理解する」ことが目指されていた視座では、その現象の理解のために主体と構造に着眼点が置かれており、もろもろの社会現象の舞台としての都市は、いわば自明視されていた。  しかし、その自明視に対し、都市という空間が社会的な現象を発生させ、また、社会が都市という空間を生産、破壊しているという、社会と空間の相互作用に着目して

          都市社会学、都市認識における空間論的転回

          上野千鶴子「近代家族の成立と終焉」

          上野千鶴子の「家父長制と資本制」は、新生児80万人割れという、日本社会の再生産の危機において、まずは繙くべき書だと思う(といって、出産が個人の意志決定であることは論を待たない)。 その次に読むのであれば、「近代家族の成立と終焉」だろう。各方面の社会科学の研究によって、「伝統的」という言葉がどれほど根拠のないものであるか、社会構造や生活様式がどれほど短時間で変化するかが立証されているが、本書も、現在の各種の制度の前提となっている「家族」像が、いかに短期間の通用性しかなかったか

          上野千鶴子「近代家族の成立と終焉」

          政治参加意欲の相移転を目指して

          政治が実施する政策を、何とかして、リバタリアン的性質の強い状態から、地に足のついたリベラルや地球規模の環境制約をも意識したコミュニタリアイズムにもっていく行くことを目指している。 代表制民主議をある程度認めても、行政執行をコントロール・統制する必要がある。くじ引き民主主義の場合でも、それは同じ。 となれば、行政執行をコントロールする組織体の基盤が、広く厚いものでなかればならない。そのために、市民全体の政治参加が向上しなければならない。なんとなれば、行政執行の監視には、コスト

          政治参加意欲の相移転を目指して

          因果を知りたがる統計分析と予測したがる機械学習

          統計的手法としての機械学習 AIとか機械学習という言葉がニュースなどを通じて、耳目に達することが多くなっている。とはいえ、AI、人工知能、機械学習というと、グーグルのような最先端の大企業での遠い話、あるいは、むしろうさん臭いSFのような話で、眉に唾して話しを聞かないといけないというイメージを持たっている方も多いであろう。過去に何度か人工知能ブームというものがあったものの、ものにならなかった歴史があるのも事実であり、そのような感想を持つのは、ある意味では健全であると言えよう。

          因果を知りたがる統計分析と予測したがる機械学習

          デュケームから嫌リベラリズムを考えると。。

          「交換価値」とは、使用価値(財の個別性)を捨象して、共通性として、「交換できる」という属性だけをくくりだし、形式的に統一価値を概念したもの。そこに「人」を適用すれば、人の個体としての意味や意義を捨象して、高価価値を生み出すという属性から交換性を見出す「労働力」という共通性だけで位置づけることになる。 社会学者のデュルケームは、このような展開を近代化のポジティブな側面として考えた。人は人であるという共通性のみで概念化することができ、つまり「人である」という属性=人格(保有性)

          デュケームから嫌リベラリズムを考えると。。

          所詮、制度は制度でしかない

          リバタリアンのような所有権絶対というのは、普遍的なものではなく、イデオロギー、あえて選択された前提条件の主張でしかない。 所有権「制度」とは、所詮、制度であって、インセンティブメカニズムとして、特定の条件の元で有効であると評価できるだけ。 よって、必要に応じて制度の内容は修正されるべき。 要すれば、帰結主義に沿って所有権制度も考えるべきなのであり、これが、日本国憲法の「公共の福祉」という文言に忠実な思考だと思う。

          所詮、制度は制度でしかない