見出し画像

戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【4月5日~11日】

戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。

4月5日 大友宗麟、大坂城で秀吉と対面

天正14年(1586)4月5日(旧暦)、豊後(現、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)は大坂城にて豊臣秀吉(とよとみひでよし)と面会。九州を北上する島津(しまづ)軍討伐を要請するためでした。その後、宗麟は秀吉に城内を案内されて天守に上り、威容と絢爛豪華さに「三国無双」と驚嘆しました。さらに千利休(せんのりきゅう)の茶の接待を受け感動、「関白に意見できるのは利休のみ」と記しています。

画像1

4月6日 秀吉、小田原城攻めを開始

天正18年(1590)4月6日(旧暦)、豊臣秀吉は小田原城攻めを開始。箱根湯本の早雲寺(そううんじ)に本陣を置いた秀吉は、北条氏政(ほうじょううじまさ)、氏直(うじなお)父子の小田原城を包囲し、兵糧(ひょうろう)攻めを行いました。秀吉麾下(きか)の主力が17万、水軍が1万、前田利家(まえだとしいえ)ら北方の別働隊が3万で、総勢約21万を数えます。

4月7日 徳川秀忠、誕生

天正7年(1579)4月7日(旧暦)、徳川秀忠(とくがわひでただ)誕生。のちの2代将軍です。徳川家康(いえやす)の3男として浜松に生まれた秀忠は、長兄の信康(のぶやす)がその直後に切腹したため、早くから後継者的に扱われました。正室は秀吉側室淀殿(よどどの)の妹・江(ごう、お江与とも)。しかし関ヶ原合戦の際、思わぬ試練を迎えます。

画像2

4月8日 信長、河内高屋城を攻撃開始

天正3年(1575)4月8日(旧暦)、織田信長(おだのぶなが)は河内(現、大阪府東部)高屋(たかや)城を攻撃。石山本願寺(いしやまほんがんじ)との戦いの一環で、第二次高屋城の戦いと呼ばれます。佐久間信盛(さくまのぶもり)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、塙直政(はなわなおまさ)らが放火・苅田(かりた)後、激戦となりました。城主の三好康長(みよしやすなが、笑岩)は19日に降伏します。

4月9日 長久手の戦いで池田恒興、鬼武蔵討死

天正12年(1584)4月9日(旧暦)、長久手(ながくて、現、愛知県北西部)の戦い勃発。羽柴(はしば)秀吉と徳川家康が対決した小牧・長久手の戦いの一つで、池田恒興(いけだつねおき)らは家康の三河(現、愛知県東部)を衝くべく別働隊を編成しますが、家康がこれを察知して長久手で衝突します。分断された別働隊は恒興・元助(もとすけ)父子、そして鬼武蔵(おにむさし)と呼ばれた森長可(もりながよし)が討たれ、敗れました。

画像3

4月10日 信長、穴山梅雪に本領を安堵

天正10年(1582)4月10日(旧暦)、織田信長は甲府を出発し、帰途につきます。恭順(きょうじゅん)した武田(たけだ)一門衆の穴山信君(あなやまのぶきみ、梅雪〈ばいせつ〉)に対しては、本領を安堵すること。また新たに甲斐国(現、山梨県)を宛(あて)がわれた河尻秀隆(かわじりひでたか)の知行(ちぎょう)と境界が不明な部分は、両者の家臣の間で相談し領地を定めるよう命じました。

4月11日 秀吉、毛利秀元の輝元後継を承認

天正20年(1592)4月11日(旧暦)、豊臣秀吉が安芸(現、広島県西部)広島城に到着。唐入(からい)り(朝鮮出兵)のため肥前(現、佐賀県・長崎県)名護屋(なごや)城に向かう途中でした。広島城で秀吉は、毛利輝元(もうりてるもと)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の内意を受けた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らの言上(ごんじょう)により、毛利秀元(ひでもと)を毛利輝元の跡継ぎとすることを承認しています。

画像4

【4月の戦国武将生没日】

4月7日・徳川秀忠誕生
4月7日・浅野長政没
4月8日・結城秀康没
4月9日・池田恒興没
4月9日・森長可没
4月10日・後藤又兵衛誕生
4月12日・武田信玄没
4月16日・丹羽長秀没
4月17日・徳川家康没
4月19日・佐竹義重没
4月20日・斎藤道三没
4月22日・細川藤孝誕生
4月24日・柴田勝家没
4月27日・毛利輝元没
4月29日・松平広忠誕生

いいなと思ったら応援しよう!

Saburo(辻 明人)
いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。