マックス・オフュルス監督 『忘れじの面影』 : 見返りを求めないという「美徳」
映画評:マックス・オフュルス監督『忘れじの面影』(1948年・アメリカ映画)
1948年だから、戦後の作品である。けれど、モノクロ作品であることを差し引いても、もっと古い映画という印象を与える作品だし、およそアメリカ映画らしくない。戦前のフランス映画かと見間違うばかりの、きわめて上品かつロマンティックな「メロドラマ」だ。
これは、原作が、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクの小説であり、ウイーンを舞台にした作品になっているからでもあろう。
しかし、それにしたって、昨今のハリウッドで、この小説を映画化したら、絶対にこんな風にはならないはずだし、たぶん、そのような映画にする気もないはずである。
もちろん、ディズニー作品をはじめとして「ロマンティックな映画」というのは、今もたくさん作られているのだけれど、ロマンティックな「悲劇」を描いた作品など、昨今では、とんとお目にかかれない、はずである。
そして、そうした点において本作『忘れじの面影』は、良くも悪くも「古い作品」という印象を与えるのではないだろうか。
しかし、個人的な好みで言わせてもらうなら、私は「ロマンティックな悲劇」というのが、嫌いじゃない。私は、こう見えて、基本的には「ロマンチスト」なのである。
だから、「嫌いじゃない」というよりも、むしろ「かなり好き」な方なんじゃないかと思う。
端的に言ってしまうと、「ロマンティックなハッピーエンド作品」というのは、もちろん「悪い印象」は残らないのだけれど、どこか「馬鹿っぽい」という印象になってしまう。
そういう作品もありだとは思うのだけれど、あまりにも現実を無視して逃避的だという印象を受けるからであろう。
本作『忘れじの面影』は、簡単にいうと、女たらしのピアニストの青年シュテファン・ブラントへの、少女時代からの一方的な憧れを、生涯も持ち続けた女性主人公リザ・ベルンドルの、恋愛悲劇だと言えるだろう。
しかし、この物語の場合、主人公のリザは、ブラントが「不実な男」だというのを承知の上で、しかし「好きなものは好きなんだから、仕方がないじゃないか」と考えている。
だから、ブラントの「不実」をなじるとか、「騙された」「裏切られた」といった不平を漏ら鳴らしたりはしない。
最初から、そんな人だと知っていながら、それでも彼が好きになったという感情は否定できない。「私は彼が好きなんだ」という感情に正直であり、たとえ彼が私を愛してくれなくても、私はそんな彼を愛し続けると、そうした「献身的な愛」を、まだ若くして病没するまで貫いた女性なのである。
だから、彼女は、ブラントに対して、恨み言はいっさい口にしない。ただ、一瞬でもいいから、彼が自分の方を振り向いてくれるならそれで幸せだし、だけど、そのことで自分は彼の重荷にはなりたくないと、そこまで考える。
その意味では、とても「男に都合の良い女」だとも言えるだろう。一一だから、こんな映画は、もう今では作られることがないのである。
最近読んだ、アビゲイル・シュライアー著『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』には、次のような言葉があった。
ここで言う『この文化』とは、要するに、少女たちが「トランスジェンダーになりたい」と思ってしまうような文化、つまり「少女らしさということに、魅力を感じられない」文化、ということだ。
トランスジェンダーのように、自分の「解剖学的な性別」や、そこから派生する「少女らしい憧れや夢」といったことは、彼女らにはすでに、「自分を縛るもの」だと考えられるようになっているのである。
「少女らしい」のは面倒なことであり、だから「少年のように」自由になりたいと望んだ結果、欧米では、トランスジェンダー熱が、少女たちの間で席巻加熱しているというのだ。
したがって、本作『忘れじの面影』の主人公のような、「男に従属する存在」であることに満足しているような女性は、今や、欧米先進国では、軽蔑されることはあっても、決してありがたがられはしない。
そうした主人公は、自分が「古い男性中心的主義的な価値観」に縛られているというのが「わかっていない」馬鹿だということになってしまう。
「あなたはそういう生き方を、自分で選んでいるつもりでなんでしょうけど、本当はそうじゃないのよ。男社会に都合のいいように洗脳されているだけ」と、そういう評価になってしまうのである。
そして、こうした「(通俗)フェミニズム的な価値観」を採用しているからこそ、今どきのディズニー映画のヒロインたちは、「王子さまがやってきてくれるのを待っている」だけの、あるいは「王子さまに憧れる」だけの、「受け身」のヒロインではなく、自分から行動を起こし、目の前に立ちはだかる困難を乗り越えて、自分の人生を切り拓いていく「能動的」なヒロインとして、描かれることが多いのだ
それが「フェミニズム的に正しい描き方」、あるいは「政治的に正しい描き方」だということになっている。
つまり、「受け身の人間」は、否定されているのである。
そういう「正しい」描き方(考え方)を広めていかないと、子供たちはいつまで経っても「古い男性中心的な文化」の「洗脳」から逃れられず、本作の『忘れじの面影』のヒロインのような、「男に都合の良い女」になってしまって、「わざわざ不幸を背負い込んでしまう」ことにもなると、そういう「考え方」なのだ。
しかし、「男に都合の良い女」であることは、「絶対的な間違い」なのであろうか?
もちろん、それを「強制」されるのは間違ったことだけれど、当人が好きでそれを「選ぶ」のは、それこそ当人の自由であって、それを、周りがとやかく言って否定したり邪魔だてしたりすることの方が、むしろ「過ぎた干渉」ということには、ならないだろうか?
こう言えば、当然のごとく「しかし、カルトの信者と同様で、本人は自分の意志だと思っていても、しかし客観的に見れば、それは、洗脳され操られているだけなのだから、そこは他者による強制的な干渉も必要なのだ。本人が、嫌だと言っても、そこから引き離すことも必要なのだ」と、そういう反論が、きっと返ってくるだろう。
いかにももっともなご意見だとは思う。
実際、私自身、上の(シュライアー書)のレビューにおいて、「まだ十分な判断能力の育っていない少女たちについては、大人の干渉も必要である」という趣旨のことを主張している。
だから、「時には、干渉も必要だ」という意見にはむしろ賛成なのだが、しかし、ここで問題としたいのは、この「時には」を、誰が判断するのか、という問題なのだ。
例えば、「時には、涙を呑んで、ユダヤ人を虐殺することも必要なのだ(それが、人類の未来のためなのだ)」というような判断をする権利が、誰にあるのか、ということである。
無論、そんなものは誰にも無いからこそ、私たちは、「時流」に、安易に乗ったり、従属するわけにはいかないのだ。
簡単に「客観的」というけれども、「客観的」というのは、「誰にとっての客観」なのか。そもそも、純粋な「客観」など、あり得るのか、という話なのである。
つまり、本作の主人公であるリザの「愛した男の、重荷にはなりたくない」という考え方は、「今の常識」からすれば、彼女の「自由意志」に発するものではなく、「男性中心主義社会の価値観を内面化したものでしかない。そのことに無自覚なだけであって、決して自由意志とは言えないのだ」などと、そうなりがちなのだろうが、誰に、そう決めつける権利があるのか、という話である。
むしろ、そういう「常識的な価値観」こそが、「流行の価値観」に「洗脳された」ものでしかないのではないのか? どうして「そうではない」と言い切れるのか?
「自己懐疑」すら持てない人間が、他人の「自由意志」について、「勝手に決めつけるんじゃないよ」と、そういう話にもなるのである。
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本作『忘れじの面影』のストーリーは、次のとおりである。
(※ 原文の、段落落としによる「手紙の内容」部分は、ここでは〈〉で括った )
つまり、リザは、自身の死を前にして「こんな女のいたことを、心の隅にでも置いておいてね」と、それだけを望んで死んでいったのだ。それだけが、彼女が唯一ブラントに望んだことだったのだが、一一こんな彼女を「馬鹿だ」と、そう切り捨てる権利が、いったい誰にあるだろう。
結局のところ、彼女は「愛するもののことを思い続けること」だけを求め、「見返り」を求めなかったわけだが、これは、ブラントにとっては一方的に好都合なことでしかなかったから、「馬鹿な女だ」と、そういうことになるのだろうか。
言い換えれば、「見返りを求めない行い」や「自己犠牲的な行い」というのは、「結局のところ、いいように利用されているだけだ」と、そう言ってしまっても良いものなのだろうか。
もちろん、人間同士の関係というのは「公正公平」であるべきだろう。
だが、その人が、自ら好んで、その権利を放棄して、一方的に相手に「尽くす」という行為は、果たして「間違い」なのだろうか。
そうした「見返りを求めない行為」というのは、結局のところ「自己欺瞞」や「偽善」でしかないと、そう断じてしまっても良いのだろうか?
私には、そんなふうには考えられない。
実際、人類の歴史というのは、そうした「自己犠牲的な人」の「無私の行動」によって、なんとか支えられてきたものなのではなかったか。
言い換えれば、「払った分は、返してもらわないと、損だ」などという「ケチな生き方」ばかりでは、この世界は、そもそも立ち行かないし、実際、そのために立ち行かなくなってしまっているのではないだろうか。
誰も彼もが、自分のことしか考えない「我利我利亡者」になってしまい、それを「権利」という言葉で美化してしまったために、「人のために」という、人間特有の「美徳」がすっかり失われてしまって、もはやこの世界は、後戻りのできない下り坂を転げ落ちているのではないだろうか。
だから、私は、この映画を「古い」とは思うけれど、しかし「古い」から「悪い」とは思わない。
「新しいもの」に価値、いや魅力があるのは当然として、しかし、「古いもの」にも「新しいもの」にはない「価値」があったはずだし、「新しいもの」が出てくる分、私たちは、いつの間にか「古き美徳」を失っているのではないだろうか。
このように書くと、典型的な「保守」の考え方だと言われるかもしれないが、しかし、ネット右翼から「パヨク」だの「売国奴」だなどと言われ続け、私自身「安倍晋三なんて、死んだらいいのに」と本気で思ってきたような、どちらかといえば「左」であり「リベラル」であり、しかも「過激」な「急進性」を持った人間だ。
むしろ「保守のダメさ」を批判してきた、そんな人間なのだけれど、しかしそれでも、見返りを求めず、人知れず「みんなの幸せのため」に戦う、「孤独な戦士」たる(昔の)「仮面ライダー」に憧れた人間でもあるのだ。
だから、本作の主人公リザを、「愚かな女」のひとことで切り捨てることなど、私には、決してできない。
「男に尽くすこと」あるいは「女に尽くすこと」、あるいはまた「社会に尽くすこと」に、果たして、本質的な違いなどあるのだろうか?
だとすれば、「男社会の弊害」とそれによる「女の被害」ばかりを言い立てるような浅薄な思想は、私に言わせれば、所詮「えせフェミニズム」でしかない。
「性別に関係なく」他人に尽くせるというのは、人としての「美徳」だと思うからである。
そしてそれが、口で言うほど簡単なことではないからこそ、それとは真逆の「被害者ヅラで、自分に権利を訴えることしかしないような、ケチくさい思想」には、何の魅力も感じないのだ。
私が最近、「武蔵大学の教授」で「映画評論家」でもある、北村紗衣を批判してるのも、それは彼女の「えせフェミニズム」が、「男の」ではなく、「人間の」美徳を、誹謗中傷する類いのものでしかないからだ。
彼女(北村紗衣)に憧れる、若い女性が少なくないようなのは、きっと「不真面目な評論家」を自称するような北村に、「自由」を見ているからなのであろう。
だが、欧米における「トランスジェンダーになりたい少女たち」と同様、そういう未熟な人たちは、「自由」を求めているつもりで、どんどん「不自由」になっているようにしか、私には見えない。
じじつ、違った意見に耳を傾けることさえ、出来なくなっているのである。
「良いことをしたんだから、代金を払ってよ」と要求するような人間よりも、「それであなたが喜んでくれたのなら、私はそれで満足です」と言える人間の方が、よほど「自由」だと、私にはそう思えるのだが、私のこの感性は、はたして間違ったものなのだろうか?
無論、私自身は、それが間違った感じ方だとは思わない。
私は、「心が豊か」だからこそ、他者からの「見返り」など求めないのだと、そのように「満足している」人間なのである。
(2024年10月26日)
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