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飛浩隆 『鹽津城』 : 二つの世界とエロスとサディズムと郷愁
帯にもあるとおり、8年ぶりの短編集だが、版元が早川書房ではないことからも分かるとおり、収録作品の大半は、SFSFした道具立てで書かれた作品ではない。しかし、率直に言って、やっていることはいつもと同じで、変わり映えがしない。
それで良いという人もいるだろうが、飛浩隆の著作をすべて読んでいる私としては、いささか期待外れだった。いつもどおりの質だが、書いていることも、いつもどおりだということである。
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収録作品は、次のとおり。
・ 未の木
・ ジュブナイル
・ 流下の日
・ 緋愁
・ 鎭子
・ 鹽津城
この中では表題作の「鹽津城(しおつき)」だけが中篇と呼んでも良い長さ(約90ページ)の作品で、それ以外は文字どおりの短編である。
したがって、表題作の「鹽津城」が本集中で最も優れた作品かというと、私はそうは思わない。
一番面白かったのは、冒頭の「未の木」であって、あとはいずれも多かれ少なかれ、「いつもの飛浩隆」を半歩も出ないと思えた。それらはいずれも、本稿のタイトルに示した「二つの世界とエロスとサディズムと郷愁」といったところに、すっぽりと収まってしまう作品なのである。
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まずは、とても気に入った「未の木」について書こう。この作品があったために、本集への期待は、嫌が上にも高まったのだ。
本作「未の木」は、共働きの妻の出張のため、遠く離れて別居している夫婦に起こった事件を、交互に描いている。
その事件とは、二人の結婚記念日に、夫から、あるいは妻から、記念日のプレゼントとして「鉢植えの木」が送られてきたのだが、それがタイトルの「未の木」だ。
この木には、すぐに小さな「実」らしきものがいくつもなったので、「これは、どんな実に育つんだろう」と、鉢植えの下敷きになって見落としていた説明書を読んでみると、そこには「購入者そっくりなかたちをした花が咲きます。しかしそれは、あくまでも購入者を擬態した花であり、実ではありません」というような説明がなされていた。
そして数日後、妻が会社から帰宅してみると、独り住まいの部屋の中に、夫の体臭そっくりな匂いがかすかに漂っていて、リビングの出窓に置いた鉢植えを見てみると、昨日、一番大きく育っていた「蕾」が無くなっており、その下に、体長10センチくらいの、寸詰まりの裸の夫が、赤ん坊めいて寝転がって眠っていた一一。
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これはもう、普通に読めば相当不気味なシーンなのだが、しかし、妻はそのミニチュアの夫に愛情を感じて、そっと鼠蹊部を撫であげてみたりするという、そんな異様な雰囲気ただよう物語となっている。
その点で、本作は、「SF」というよりも、一種の「幻想文学」としてかなりよく書けており、そこを高く評価したいところなのだが、しかし、欠点としては、そのオチが、いかにもSFで、しかも飛浩隆の「いつものパターン」だった点である。
しかしまた、後の作品がもう少し違ったものであれば、本作品集をもっと高く評価できたが、他の作品も基本的には「二つの世界とエロスとサディズムと郷愁」という言葉の中に収まってしまう、「同工異曲」の作品だった。
だから、後に行くほど「また、これか」という物足りなさが否めず、作品集としての評価とともに、「未の木」のありがたみまで、漸減してしまったのである。
表題作である「鹽津城」は、Amazonの本書紹介ページに、
『女、鮫を踏みてこの地に渡りきたりき……SF界の巨匠がおくる、新たなる国創りの物語。』
とあるとおりで、本作は、最初は飛浩隆らしい、SFらしい「侵襲される世界」を描き、実はそれが、裏表に存在する「パラレルな二つの世界」だとして、それを交互に描きつつ、そこにもう一つ「別の世界」がからんでいる。
そのため、読者は当初、やや混乱してしまうのだが、これは「裏表の世界」に、さらに「時間軸」を加えた作品になっており、いかにも飛浩隆的なSF的世界としての「現在(時の二つの世界)」が、もう一つの別の世界では「遠い神話時代の世界」として扱われるという構造になっている。一一つまり、本格ミステリなどではよくある、視点の切り替えによって、最初は別個の世界に見えていたものが、最後には一つの「世界」に、合理的に収斂されていき、全体像が明らかになる、というパターンだ。
そして、その「神話」の原型となっているのが、記紀神話(日本神話)だから、『新たなる国創りの物語』ということになる。
本作では、架空の「日本海大地震」の発生によって、海水の「水と塩への分離(塩の結晶化)」が始まり、そうして発生した大量の塩が陸地の多くを侵食するという、終末的な世界が描かれる。
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だが、なぜ「塩=鹽」なのかと言えば、それは記紀神話の描写を下敷きにしているからなのだ。
たぶん多くの読者は、そうと教えられるまでは、それに気づきはしないだろうし、別に気づく必要もないのだが、気づかなければ、本作の面白さは、多少とも削がれるはするだろう。
『国生み/国産み(くにうみ)とは、日本神話を構成する神話の一つで、日本の国土創世譚である。国生み神話ともいう。 イザナギとイザナミの二神が高天原の神々に命じられ、日本列島を構成する島々を創成した物語である。
なお、国生みの話の後には神生み/神産み(かみうみ)が続く。』
『『古事記』によれば、大八島は次のように生まれた。
伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の二神は、漂っていた大地を完成させるよう、別天津神(ことあまつがみ)たちに命じられる。別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。伊邪那岐、伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした地上を掻き混ぜる。このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。』
(Wikipedia「国産み」)
つまり、天津神が、海をかき混ぜることで(結晶体としての)陸地を作ったという神話になぞらえて書かれた、ひとつの「創世神話」が、本作「鹽津城」なのだ。
一一しかし、だから「面白いのか」と言われれば、そうでもないというのが、私の率直な感想なのである。
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(2025年1月24日)
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