ルイ・マル監督 『死刑台のエレベーター』 : 赤シャツ的「映画マニア」の御用達作品
映画評:ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』(1958年・フランス映画)
本作も「ヌーヴェル・ヴァーグ」がらみということで、過大評価されている作品と断じて良いだろう。
作品そのものを虚心に見れば、「悪くはない」とか「なかなか見せるところもある」という程度の作品であり、「傑作」と呼ぶほどのものではない。
では、なぜ本作が、エリート気取りの「フランス映画好き映画オタク」たちから過大評価されるのかと言えば、それはもう、彼らにはいまだに「外国コンプレックス」があり「アメリカなんて通俗だが、おフランスは流石に洗練されている」といった、『おそ松くん』の「イヤミ」さながらの、幼稚素朴な「権威主義」を抱えている「田舎者」だからに他ならない。
つまり、いまだに「ヌーヴェル・ヴァーグ」がらみだから素晴らしい、などと思っているような輩の大半は、1980年代に日本で流行した「ポストモダン思想ブーム=フランス現代思想ブーム」で騒いだ凡人たちと同じなのだ。
読めもしないのに、ドゥルーズ/ガダリの『アンチ・オイディプス』のような電話帳本をこれ見よがしに持ち歩き、必要もないのに「器官なき身体」などのジャーゴンを、意味もわからず「くちコピペ」していたような連中の、さらに劣化版にすぎない。
要は、自分で考える頭も、語る言葉も持たないから、一般人が寄りつかないような「マイナーな権威」にヒルのように貼りついて、理解もしていない言葉を並べたて、「他人の褌で相撲をとっている」ような輩だ、ということである。
本作の、ルイ・マル監督とは、次のような人物だ。
実際、本作が過大に評価されるのは、次のような理由によると言えるだろう。
だが、(1)に典型されるように、こうした評価は、すべて「ヌーヴェル・ヴァーグは素晴らしい」という無条件な思い込み、つまり「権威主義的な思考停止」が前提となったものでしかない。
たとえば、(1)の問題で言えば、ルイ・マルは、トリュフォーやゴダールなどとは違って、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌に拠った「映画評論家」上がりの映画作家ではない。つまり、「狭義のヌーヴェル・ヴァーグ」ではなく、「広義の(フランス)ヌーヴェル・ヴァーグ」の一人であって、要は、「狭義のヌーヴェル・ヴァーグ」である「カイエ派」と同時代の若手映画作家であり、「カイエ派」に一歩先んじて評価された、「戦後派」の若い作家であった、というだけの話だ。
実際、「ヌーヴェル・ヴァーグ」というのは、英語読みなら「ニュー・ウェーブ」であり、要は「新しさ」が売りで、彼らが何に対して新しかったのかといえば、それは戦前のフランス映画に対してである。
では、トリュフォーなどにより「もう古い!」と死亡宣告された「戦前のフランス映画」とはどんなものなのかと言えば、それは「高齢の大御所監督たちが、古い撮影所システムの中で作った、主に上流社会を扱ったお上品かつ型どおりの文芸メロドラマ」といったところだろう。
こうしたものに対して、戦後の若者が「古い!」と言いたくなる気持ちは、ごく当たり前のことで、特に「鋭い感性」など必要とはしない。
それら戦前作家たちの感性は、事実として必然的に「古い」ものなのだし、その一方「ヌーヴェル・ヴァーグ」たちの自意識というのは、自分たちは「新しく、時代の最先端を行っている」という、若者にありがちな「視野の狭い自信過剰」に捉われたものでしかない。
そんな若造たちが「旧態依然たるフランス映画界の状況」に不満を持った、というだけの、しごくありきたりな話(親殺し)でしかないのだ。
くり返すが、こうした「若くて新しいセンス」というのは、別に、個人的に鋭いセンスがあるということではなく、単に「時代の移り変わり」の問題でしかない。
トリュフォーやゴダールが象徴する新しさとは、日本で言えば、「全共闘」的な「若さ・新しさ」でしかないし、あの時代的な共時的現象と見るのが、いまや客観的かつ常識的態度であろう。
過酷な戦争によって、戦前の指導者層や親たちの権威が失墜したから、若者たちが「あんたがたは、間違っていたし、もう古い!」と言って「自分たちが主役を張る、新しい時代」を実現しようとしたにすぎないのだ。
そしてこのことを、ゴダールは後に「自分たち(カイエ派)が戦前の映画作家たちを批判したのは、結局のところ、彼らがついている恵まれた食卓に我々もつけろ。そして同じものを食わせろ、ということでしかなかった」と反省的に語った、至極凡庸な「新世代の権力奪取闘争」の一種でしかなかった。
要は、いつの時代にもありふれた、「若者による(年寄りに対する)下剋上」でしかなかった、ということである。
だから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」から既に半世紀以上も過ぎているというのに、いまだに「ヌーヴェル・ヴァーグ」が「新しい」などと言っているというのは、むしろ度し難い「反動」であり、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の志とは真逆の、「批評精神を欠いた知的怠惰」でしかないのだ。
(2)の『ルイ・マル監督、25歳時の実質的デビュー作』ということだって、醒めた頭で考えれば、「それがどうした」という話でしかない。
言うまでもないことだが、作品の価値というのは、その作者が若かろうが年寄りだろうが、そんなことにはまったく関係がない。作者の年齢に関係なく、作品が良ければそれで良いし、そこ(作品本位)で評価されるべきなのだ。
ところが、「作品そのもの」の価値がわからない俗物たちは、日本で言えば「芥川賞受賞作が、今年のベストワン小説だ」などという無知丸出しで大騒ぎしたり、その受賞者が「歴代最年少」だなどといった宣伝に手もなく踊らされて「天才が現れた!」と大騒ぎをし、我先にツバをつけに走る、そんなものと、まったく同レベルの馬鹿さ加減なのである。
いまさら言うまでもないことだが、若くしてデビューした作家が、そのまま最後まで「天才」であり続けた例など、ほとんどない。日本の諺にもあるように、たいがいは『十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人』ということなのだ。これに「5歳」ほどプラスしてやれば、映画であれ小説であれ一部のスポーツであれ、よくある話でしかない。
だが、大衆というものは、「最年少」といった使い古された煽り文句に、手もなく踊らされるほどに、度しがたく頭が悪いのだ。まさに、『わが闘争』でのヒトラーの指摘どおりに。
(3)の『クールな映像』というのも、実際には「戦前の小綺麗にまとまった映像」に比べれば、「粗野」であることに「目新しさ」を感じた、という程度のことでしかない。
実際、「クールな映像」を代表する作品であるゴダールの『勝手にしやがれ』の「新しさ」とは、
といったようなことだが、こうしたものは、今となっては、すでに「当たり前のもの」になってしまい、何も「新しくはない」のだが、権威主義者たちはこれらを「新しかったから、すごい」と、知ったかぶりの、その「歴史的意義」だけで高く評価するのだ。
しかし、そんなことを言うなら、戦前の映画だって、同時代には新しかったのであり、「古い」というのは、今の時代の「主観的な評価」でしかない。たしかに、時代が変わっても、同じようなものばかり作り続ければ、「古い」という批判は免れ得ないが、しかし、それも徹するなら、それはそれで「美意識の保守」ということにもなるのだし、いずれにしろ、どんなものでも、基本的には「新しいものから、次代の新しいものへ」という積み重なりでしかないから、「古いものが古い」のも、どんなに「新しかったものも古くなる」というのも、当たり前の話でしかないのだ。
ところが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を、意味もわからず権威主義的に新しがる人たちというのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」関連だけは「永遠に新しい」つもりでいる「アナクロニズム」に捉われている、所詮は「非理性派」なのだ。
だから、ゴダールの『勝手にしやがれ』が、今も「新しい」などと、自身の「懐古趣味」にも気づけずに、本気でそう言ったりするのである。
そんなわけで、本作『死刑台のエレベーター』が過大評価されるのも、ルイ・マルが「戦後派作家」としての「当たり前の新しさ」を持っていたことと、「カイエ派」と行動を共にして「カンヌ映画祭を中止に追い込んだ人物の一人」として「ヌーヴェル・ヴァーグ」の一員だと認知されたからに他ならない。
言うなればルイ・マルも、「フランス映画界の全共闘の闘士」だったから、「ヌーヴェル・ヴァーグ」だという印象を強くしたにすぎないのだ。
ルイ・マルは、その「接触感染の魔術」的な意味づけにおいて、過剰な「輝き」を幻視されるに至った人なのである。要は「有名人の知り合いは、すごい」という、陳腐な田舎者的幻想を惹起するものを「ヌーヴェル・ヴァーグ」と関係することで得た人なのだ。
日本にも「寄らば大樹の陰」という言葉があるけれども、これもその一種で「寄らば、時代の主流派の陰」ということだ。日本の政治家が、しばしばそのとき流行りの政党に鞍替えするのと同じで、自分個人にそこまでの力は無くても、「党の(イメージの)力」によって過大評価され、選挙にも当選できるのである。
当時の「ヌーヴェル・ヴァーグ」には、誰にも止められない、「フランス維新の会」とでも呼ぶべき勢いがあったのだ。
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なお、本作『死刑台のエレベーター』は、次のような作品である。
要は、原作付きのサスペンス映画である。
だが、この映画を虚心に見るならば、「サスペンス映画」としては、いかにも「ぬるい」。
不倫関係にある社長夫人フロランスとの恋愛を成就すべく、主人公のジュリアンが、社長殺しの「完全犯罪」を目論むのだが、各種の不測の事態の出来によって、計画はむしろ裏目裏目に狂ってゆき、どんどんと窮地に追いやられていく、という物語なのだが、問題は、この「不測の事態」というのが、いかにも「御都合主義的」であり、要は、細部の詰めが甘いのだ。
その最もわかりやすい一例を挙げておこう。
ジュリアンは、社長室の下の階にある自分の執務室のベランダから、フック付きにロープを社長室のある階のベランダの手すりにひっかけ、それで上の階に登り、なに食わぬ顔で社長室へ書類を届けに行く。つまり、誰もジュリアンが社長室へ行ったことを知らないのだ。
そこでジュリアンは、予定どおり社長を殺し、密室内での自殺に見せかける細工を施した後、再びロープをつたって下の階の自身の執務室に戻り、同僚に声をかけて一緒に退社する。つまり、彼にはアリバイがあり、これで完全犯罪の成立だと思ったのも束の間、近所に路上駐車していた自家用車のところまで戻って、会社の方を振り向いたところ、社長室へ登り降りするために使った、フック付きのロープが、ベランダの手すり柵にそのままぶら下がっているのに気づく。要は、回収し忘れていたのだ。
そのままでは犯行がバレてしまうと、ジュリアンは会社に戻って、自身の執務室まで上がろうとエレベーターに乗ったところ、全員退社したと思い込んでいた最後の社員が、電灯やエレベーターなどの電源を落としてしまう。そのためにジュリアンは、エレベーターの中に閉じ込められ、遺留品の回収もできなければ、社長の殺害後に落ち合う手筈だったフロランスにも、会いに行けなくなってしまうのである。
で、ご都合主義的に間抜けだというのは、この「フック付きロープの回収忘れ」である。
私は、ジュリアンが社長を殺し、ロープで下の階のベランダに戻った際、ロープを回収せずにそのまま帰ってしまったので「あれ、ロープはそのままだけど、それでいいのかな?」と思ったのだが、まさか、こんな「初歩的なミス」が、物語を動かすための重要なきっかけになるとは思わず「何か、深い意味があるんだろう。そのうち何か説明されるはずだ」と思ったのだが、結果としては、そんな「考え抜かれた意味」などは無く、それは単に「その後の不測の事態を生み出すための、ご都合主義的なミス」でしかなかったのである。
これが、今のミステリ映画なら、完全に「アホか!」というツッコミどころなのだが、本作が「ヌーヴェル・ヴァーグ」だということで、こんな「御都合主義」も不問に付されてしまう。
本来であれば、「自殺に見せかけた密室殺人の完全犯罪」を実行しようとするような「有能なジュリアン」が、こんな「凡ミス」をするというのは、作劇的に「キャラクターの統一性を欠くもの」だという評価になって然るべきなのだ。
無論、「現実」には、どんな「知能犯」でもミスくらいはするが、この作品は「ドキュメンタリー作品」ではなく「フィクション」なのだから、内的統一性というものは、当然必要なものだ。
言い換えれば、物語の展開の都合上「そこだけ間抜けだった」というのは「作劇上のご都合主義」以外の何ものでもないのである。
ところが、これが「ヌーヴェル・ヴァーグ」だから、ということで許されてしまう。
ひとつには、「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品である本作は、半世紀以上昔の作品なのだから「今の基準で見てはいけない」という「特別待遇」が与えられる。
また、もうひとつは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」革命は、映画を「物語」から解放して、「映像作品」であることの意義を取り戻したところにあるから、「物語なんて、どうでもいいのだ。映像こそが大切なのだ」という「夜郎自大な自己特権化」までもが、まかり通ってしまうのである。
そして、そんな「頭の悪さ」をわかりやすく伝えるのが、「映画.com」に寄せられた、いかにも「映画マニア」でございと言わんばかりの、次のカスタマーレビューだ。
一一これである。
『映画は感じるもの。』だから、馬鹿でも「わかる」とでも思っているのだろうが、この人のやっていることは「権威者の口真似」でしかない。
『世評に違わぬ傑作!淀川長治先生も言ってましたがり、ルイ・マルはやはり早熟な天才ですね。』一一わかりやすい権威主義。淀川先生は間違わないと信じきっている、権威主義的盲信者。淀川長治の被り物でも被って、踊っていればいい。
『恋する女の情念はひしひしと伝わってくる。』一一自分が恋愛の達人のつもりなのか?
『ジャン・クロード・ブリアリも端役で出てましたね。』一一くだらない豆知識のひけらかし。
『本当に狂うほど人を好きになったことがないのかな?』一一そのせいで、おまえは頭が狂ったのか?
『最近のダラダラと長い映画に比べ、この内容で92分とは!』一一この「90分が最適」という主張も、蓮實重彦などの受け売り。
といった具合である。
「ヌーヴェル・ヴァーグすごい!」とか言っている、本もまともに読まないような「映画オタク」の知的レベルとは、この人に代表される程度のものなのだ。
実際、活字に弱い「映画オタク」は、その劣等感の裏返しとして「映像が理解できる」とアピールしたがる、というのは、映画側の人間でさえ、本を読む人ならば認めている事実だろう。
映画学校で「教科書」として使われているいう、定評のある総合的な「映画論」書である、ジェイムス・モナコの『映画の教科書 どのようにして映画を読むか?』(原書初版1977年の、1981年改訂版の翻訳)には、
つまりこれは、私がだいぶ前に指摘したように「小説というのは、鑑賞者の積極的な努力がなければ、1ページたりとも読み進むことはできないが、映画を見るだけなら、猿でも犬猫でもできるし、ボーツと見ているだけで、ひととおり最後まで楽しむこともできる」ということなのだ。
つまり、「猿や犬猫」ほどの知能の持ち主たちは、「物語的な中身」を適切に分析し評価する能力がないから、もっぱら映像的な側面について「権威者の口真似」で語ることに終始するしかない。要は、無思考の「オウム返し」か、良くて「九官鳥」程度には「賢い」ということなのである。だから、彼らの言うことは、どれも似たり寄ったりなのだ。
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そんなわけで本作は、半世紀も前の「戦後の作品」としては、「戦前の作品」に比べれば、当たり前に新しく「斬新」ではあるものの、今となってみれば、監督の年齢相応に「勢いはあっても、粗もある未熟な作品」である。
物語の「ゆるさ」は、「原作者」または「脚本」の問題だと、そう擁護したい人もいるだろう。なにしろ「映画は物語ではない」とかいうのが「ヌーヴェル・ヴァーグ」信者お得意の「言い訳」だからだが、しかし、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が主張した「作家主義」、つまり、それまでのウエルメイドだが個性に欠けて無難確実な「戦前のフランス映画」とは違う、「監督の個性」で見せる作家主義の映画については、「原作」や「脚本」や「撮影」が悪いと言って、その不出来を他人のせいにするのは、あきらかに「反則」である。
「作家主義」というのは、もともと映画という「集団芸術」を、他の芸術(絵画や文学)などと同等の「芸術」だと世間に認めさせるために、「職人集団による工芸品」と見られることを否定する目的からアピールされたものにすぎない。
その目的から、「物語も音楽も映像も、それらはすべて、監督の美意識によって選択統一されたものなのだから、その作品は、監督の作品だと言えるのだ」と、そう強弁したのだから、それを今になって、都合の悪い部分についてだけ「そこは原作がよくなかった」とか「脚本家が良くなかった」とか「音楽家がよくなかった」とか「カメラマン(撮影監督)がよくなかった」などという「責任回避」は、「作家主義」を建前とする以上は、決して許されないことなのである。
したがって、本作の「物語的なゆるさ=御都合主義」という「弱点」の責任は、すべて、監督であるルイ・マルにあるのだ。
彼に「完成度の高い物語を作る能力が無かったから、こんな間抜けなサスペンス映画」になったのだ、とそう言うべきなのである。
あと、ひとつ指摘しておくと、「ヌーヴェル・ヴァーグ」は一貫して、アルフレッド・ヒッチコックを高く評価してきた。
その主たる理由は、彼が、唯一無二の「個性」を持った「作家」であったからだ。「作家主義」を掲げる「ヌーヴェル・ヴァーグ」が「彼を見よ」とヒッチコックを持ち上げたのは、当然のことなのである。
しかし、確かにヒッチコックは「個性的な作家」ではあるけれども、その個性である「神経症的なサスペンス性」というものは、本作『死刑台のエレベーター』と同じく、「非理性的」なものであり、多分に「御都合主義的なもの」である。
要は、「ハラハラドキドキさせるためであれば、多少の御都合主義など許される」という考え方なのだが、それが「活字」の「本格ミステリ」を読むような「論理的知性」を持った者には、あまりに「ゆるい」と見えてしまうのだ。
頭の悪い映画ファンは、「演出的な勢い」で誤魔化されてしまうのだが、「作者と読者のフェアな知的ゲーム」なんてことを言う「本格ミステリ」ファンからすれば、「映画ファン」というのは「(アル中同然の)読めない奴らだな」ということにしかならない。
しかしまた、そうした「分析的知性」において劣っているという自覚があるからこそ、「映画マニア」というのは「映画は、映像なのだ。物語などどうでもいい」などと、見え透いた「言い訳」をしたがるわけだ。
だが、活字の物語を論理的に理解することもできないような馬鹿が、より「情報の限定精度が低い」という性質を持つ「映像」作品を、正しく理解することなどできるはずがない。これは「理の当然」なのである。
そんなわけで、本作の「ゆるさ」に気づきながらも、そこを批判することなく、むしろ、話を「映像」の方へと逸らすことで、本作を誉めようとするような「映画ファン」というのは、間違いなく「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(日蓮)ことを目論んで「ヌーヴェル・ヴァーグ」の権威に縋りつくだけの「腰巾着的な愚物」だと考えて良い。
例えて言うなら「赤シャツの野幇間」みたいなものだ。
まあ、こう書いてもピンとこない、無教養な「ヌーヴェル・ヴァーグ」ファンも多いと思うので、一応紹介しておくと、「赤シャツ」や「野幇間」というのは、共に、夏目漱石の『坊つちゃん』に登場する「俗物教師」のあだ名である。
いかにも「おフランス」の権威を、それにひっつくことでひけらがしたがるような人たちには、ピッタリな「比喩」ではないだろうか。
蛇足ながらつけ加えておけば、本作におけるマイルス・デイヴィスのトランペットだけは、文句なしに素晴らしかった。
本作の評価は、これで5割増しになっているだろう。これも「作家主義」の建前からすれば、監督の力量のうち、ということになるわけだ。
(2024年6月15日)
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