人生は誰のものであろうと、客観的に見ればごくつまらないものであると思う。 では人生には意味がないかと言うと、そうとも言えない。 そのつまらないものも、主観的に見れば面白くなったりする。 主観的に見るとは思い込みの中で生きるということでもある。 幸福には思い込みが大切かもしれない。
人間に幸福は不可能である。 「幸福」というのは粉飾した表現であり、「不幸ではないとは言える」状態を、「幸福」と定義すべきだ。 不幸ではなくなるためには、まず意識の活動を弱める必要がある。 深呼吸、瞑想で意識を低下させて、音楽や小説、映画などで意識を自身からそらすことがが必要だ。
自分は幸福について深く考察して、その結果や過程を公開している その反応はいまいちのようだ みんな幸福について興味がないのか、興味はあっても深く考えることができないのか どちらにしても憂うべき状況だ 三木清が指摘した「幸福を考えることさえできないほど不幸な時代」なのだろうか
残酷な話ではあるかもしれない。 不幸な人と関わるとますます不幸になるというのは本当のようだ。 付き合う人たちの層を変えた。 自分自身がハッピーを感じる日が増えた。
幸福をじっくり味わうためには、十分な余暇が必要なのかもしれない。 朝から晩まで生活を維持するための活動に従事する生活を考えてみよう。 苦悩にさいなまれることはないかもしれない。 けれど、幸福な生活とは言えないのではないか。 余暇を十分に活用することが、幸福な生活の鍵だと思う。
感謝を表すためにお金を払えば、 お金は感謝された量になる。 信頼を表すためにお金を払えば、 お金は信頼された量になる。 裏金を受け取れば報酬は裏返えり、 お年玉を受け取れば年金は膨れ上がる。 お金はあなたがしたようになる。 同様に、政治も言葉もあなたがしたようになる。