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「読める小説」と「面白い小説」の違いについて考える。

 X(旧Twitter)にて、阿部幸大という方が以下のようなポストをおこなっていました。

 そのへんの人文アンチどもの悪口ごときでグラついちゃうってのは、そもそも自己批判が甘いんですよ。人文学者たる者、自分がもっとも自分に厳しい批判者であらねばならない。そのうえで真にクリティカルな批判が寄せられたとき、あなたは腹を立てるのではなく、その相手に感謝することになるだろう。

 僕は人文学者ではありませんが、「自分がもっとも自分に厳しい批判者であらねばならない」には深く同意します。
 自作の小説に関しては、書いている最中もしくは読み直す時に僕は世界で一番の郷倉四季アンチになるよう努力します。

 僕の小説を世界で一番理解しているのは僕。
 なので、最も褒めるのも貶すのも僕。
 というスタンスなのですが、同時に小説はテクストとして成り立っています。テクスト論は(超ざっくり言えば)作者の意見は無視するというものですので、単なるテクストとして読者に受け止めてもらった時、世界には僕よりも僕の小説を理解し構造の欠点や文章の稚拙さを指摘できる人がいるのは当然の帰結です。
 とくに文章の稚拙さに関しては、とんでもない数の指摘が来ることでしょう。
 しかし、現状そこまでの批判が僕の耳に飛び込んできたことはありません。これは単純に僕の作品が人の目に触れていないからです。なので、批判の声が増えると言うことは、それだけ多くの人の目に触れた証明でもあります。

 とはいえ、自分が自作を批判する場合と他者が批判する場合は、やはり印象は異なりますし、そこに潜む感情や言い方に目がいって正確な判断がつかずに凹んでしまうこともあります。
 人間は感情的な生き物であり、常に合理的な決断をおこなえるわけではありません。

 個人的な体験の話で恐縮なのですが、先日職場の人に「郷倉くんより、私の方が不幸だからね」という変なマウントを取られました。
 別に誰かと比べて幸福だから偉いわけでもなく、不幸だから偉いわけでもありません。
 けれど、「不幸な私の方が上」みたいな言い方をされると、そんな背比べに参加したつもりがなくても、なんか負けた気になり、変なわだかまりを抱えさせられた気持ちになりました。

 実際、僕はそこそこ幸福です。目下、悩みは昨日ちょうど洗濯機が壊れて、今日から夜に妻とコインランドリー通いが始まるくらいです。
 お金は常にあるとは言い難いですが、妻と二人で生きていくだけなら、なんとかなりそうですし、両親ともに健在。
 弟に子どもが生まれたので、その子の成長を見守るのが日々の楽しみですし、妻の妹も結婚したので妻側の家族も増えて賑やかになり、集まりに参加するのも楽しみ。
 口を開けば、楽しみなことばかりです。
 そんな僕の話を「私は不幸」というメンタリティーの人に喋れば、マウントを取られていると感じてしまったとしても仕方がないのかも知れません。
 僕が「私の方が不幸」と言われて、わだかまりを抱えさせられたと感じたように、その人も何か見えない不快を僕は渡してしまったのかも知れません。
 反省です。

 他人の批判を感情的に受け止めてしまう話に戻しましょう。
 僕は批判を受け止める場合、相手の感情は無視して自分に有益な情報を抽出すべきだと思っています。
 そのために、どうすれば良いでしょうか?
 ここで僕が提案したいのは経営学者の楠木建の「幸福について」の考え方です。
 彼はアメリカの心理学者ハーズバーグの『二要因理論』をひいて、「満足」を例に以下のような話を展開します。

「満足」の反対にあるのは「不満足」ではない。それは「満足」がないということであって、「没満足」であるとハーズバーグは言うのです。

 どういうことでしょうか。
 楠木建は以下のように説明します。

 人は「幸福になる」ということと、「不幸を解消する」ということを混同しがちです。そういう思考だと、不幸になる要因をどんどん排除していけば幸せになるのですが、そんなことはありません。その先にあるのはただの「没不幸」なんです。

 これを小説に当てはめてみましょう。
幸福になる」ことを「面白い小説」だとします。
 とすると、「不幸を解消する」はなんでしょうか? 読みにくい文章。分かりにくい展開。共感しづらいキャラクター。それらを解消することで面白い小説になるかと考えると、面白くない小説の要因を排除するだけです。「面白い小説」になるわけではありません。
 その先にあるのは「没不幸」=「読める小説」です。

読める小説」は「面白い小説」ではありません。
 少なくとも、僕は「面白い小説」の一つの条件として「読める小説」を挙げても、絶対ではありません。難解で読み進めるのが困難な小説でも馬鹿みたいに面白い小説はあります。
 もちろん、そういう類の小説が多くの人に支持されるのかは、また別の話にはなりますが。

 冒頭の話に戻ります。
 批判者が自分の作品を批判した時、その内容は「読める小説」に関する内容なのか、「面白い小説」に関する内容なのかを見極めるのが僕は大事だと思っています。
読める小説」に関しては技術の問題であったり、自分が読みやすいものが他人にも読みやすいとは限らない、という基礎の部分に付随することが多いです。なので、技術的な部分は読み直すことで改善可能でしょうし、読みやすい小説のリズムがそもそも違うのかも知れないとも考えられます。

面白い小説」に関しては少々厄介です。
 読者は自分の面白い小説像を持っています。それにそぐわないから批判される場合、読者からすればそれは至極真っ当です。それでも、自分はこれが「面白い小説」なんだと戦うか、多くの人が「面白い小説」的な指摘をするのなら面白さそのものを検討するべきかも知れません。
 これは自分の小説を読者にどのように受け止めてもらいたいか、という話です。

 多くの人に読んでもらいたいなら多くの意見に従うかを検討しても良いでしょうし、ニッチな読者を狙うなら雑音は無視して自作の完成度を上げるのも良いでしょう。
 小説を書くという行為そのものは孤独です。
 批判であっても反応があることは嬉しいものです。その上で、批判の受け止め方。また、その生かし方はそれぞれの作者に任されます。

 正解はありませんが、その批判が何を指しているのかを見極められれば生かし方は変わってくるのではないでしょうか、とまとめて今回のエッセイを終えたいと思います。

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さとくら
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