サムシンエルス

八ヶ岳の自然の中で、主にエッセイを書いています。日常のさりげない出来事から思いが膨らみ、あなたの心のどっかに私の書くものがひっかかってくれたら、嬉しい。思いが通じるその瞬間のために、恥ずかしがらずに、書き続けます。一度読んでみてください。

サムシンエルス

八ヶ岳の自然の中で、主にエッセイを書いています。日常のさりげない出来事から思いが膨らみ、あなたの心のどっかに私の書くものがひっかかってくれたら、嬉しい。思いが通じるその瞬間のために、恥ずかしがらずに、書き続けます。一度読んでみてください。

最近の記事

あの花の咲く丘でまた君と会おう

生きたくても生きれない・・・ 生きたくても・・・ 私の頭の中で繰り返されるその言葉は、さしずめ医療の現場では日々感じられる事に違いない。 そんな思いを受けて、葛藤しながらも、働き続ける医師や看護師らの皆さんにはいつも尊いものを感じているが、私が今、反芻している感情は、若い友人のKさんとの話である。 以前、「花の死生観」という投稿で、ご紹介したのがKさんで、彼は四十代にして余命宣告を受け、私に遺言書の証人を依頼して来た男性。 あれが今年の3月半ばの話で、それが9月の半ば

    • 神は本当にサイコロを振らないのか?

      もし神と呼ばれるものが本当に存在するなら、神は本当にサイコロを振らないのか?、これがこの投稿の主題である。 前回の投稿で述べたように、神はサイコロを振らない、とは、アインシュタインが、量子力学の不完全性を追求する際に、使った言葉である。 それは、神というものが存在するなら、神はそんなバクチ的な事で、私達の身の回りにある世界を創造する筈がない。 アインシュタインはそう言いたかったのかもしれない。 見ていれば見ているほど、感じれば感じるほど、つくづく、私たちを取り巻くこの

      • 神はサイコロを振らない

        夏の夜空にひときわ光彩を放つベガやデネブやアルタイル。 天の川にかかる数々の星たち・・・。 見上げているうちに、平面に思えていた空は、やがて、みるみる奥行きを有して、宇宙の広大さを感じさせてくれる・・・。 忙しい日常にかまけて、日頃は考えない事も、そんな夜なら思いを馳せられるだろう・・・。 自分とは一体何だろう? そんな時、夜空を見上げてぽつんと佇むちっぽけな自分と、それを取り巻く大きな世界についても考えてみる。 みなさんは、自分と宇宙とが、何処かで繋がっている、

        • 剥製標本はただの生物の死体なのか?

          おどろおどろしいタイトルだが、そうではない。 鳥の研究で著名な、信州大学の笠原幸恵さんが、新聞のインタビューの途中で口にした言葉である。 絶滅危惧種の話である。 おどろおどろしくはないが、大事な問題だ。 この投稿をどれくらいの方が今の自分事として考えてくださるだろうか? 拙い文章だが、どうぞ、その意をくみ取っていただきたい・・・。 長野県諏訪地区の鳥愛好家たちから、鳥博士と呼ばれている、林正敏さん。 林さんは長年の野鳥の会での活動と共に、鳥の剥製標本の収集に力を入れ

          大丈夫の極意

          どうしてクラッシック音楽が好きになったの、と人に訊かれたら、まあ子供の頃から、家には音楽が溢れてたし、両親もピアノを嗜むんで、僕も自然とクラッシックに親しんだのかな・・・ 普通はそんなとこじゃない? なんてことを言いたいけれど、生憎、こちとら育ちが悪くて、子供の頃から嗜む中に、クラッシックのクの字もありゃしない。 私はここでの投稿で度々書いたように、生粋の労働者一族の出自だ。 今いかにも精通しているように人に知ったかぶりをしているジャズやクラッシックだって、故郷を離れて

          カムパネルラ、僕はでくのぼう、として生きるよ

          天の川が見たいのよ・・・ パートに出ている宿泊施設の、フロントカウンターにいる私の前に現れたのは、何処にでもいそうな中年女性の二人連れだった。 以前にもここでの投稿で書いたが、八ヶ岳周辺の宿泊施設には、美しい星空を楽しみに来る人も多い。 それにしても、わざわざフロントまで来て、私に向かってそんな事を言う人は珍しかった。 北斗七星は見えたの、でも、私少し視力が弱いから、4番目の星が見えなかった。でも、この人はとても眼がいいから、どうしても一緒に天の川が見たいのよ・・・

          カムパネルラ、僕はでくのぼう、として生きるよ

          花の死生観 日本精神の行方

          八ヶ岳の麓の春は遅い。 3月半ばではまだ肌寒く、桜の蕾も固い。 そんな折、若い友人のKさんから連絡が入った。 遺言書を作るから、私に証人になって欲しい、とそう言うのである。 彼はまだ40歳代半ばの働き盛りの男性である。 何事かと思って駆けつけると、つい先日、彼は医者から余命宣告を受けたというのである。 狼狽する私に対して、当の本人はいつもと様子も変わらず、まだピンと来ていないというのが実感らしい。 彼は進行性の癌を患っていて、もはや手術による回復も不可能なのだとい

          花の死生観 日本精神の行方

          原点は存在する ー 詩人 谷川雁の思想

          もし、詩人の創り出す言葉に言霊があるとすれば、間違いなくその詩人の詩は思春期の私のうちにも突き刺さった。 難解なメタファーに翻弄されながらも、私は詩という表現の中にある痛快さにしんから心打たれたのである。 それが谷川雁である。 谷川雁はその詩「東京へ行くな」でこう宣言する。 ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから おれはみつけた 水仙いろした泥の都 波のようにやさしく奇怪な発音で 馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい なきはらすきこりの娘は 岩のピアノにむかい 新しい国の

          原点は存在する ー 詩人 谷川雁の思想

          戦場のヨナス

          出会い 1924年、秋、ドイツのマールブルグ大学でひとりの若者とひとりの少女が出会っている。 若者の名はハンス・ヨナス 少女の名はハンナ・アーレント。 ふたりは大学時代を誰よりも一緒に過ごした。一緒に勉強し、一緒に食事をし、一緒に将来を語った。 同じユダヤ人であることから親近感を持ち、急速に仲は深まった。 美しい少女は一方で傷付きやすい敏感な女性だった。 若者は少女を守る事に一生懸命だった。それは恋心だったかもしれない。 ある日少女が風邪をひき、大学の講座を休んだ。 若者

          今こそアヒンサーという旗をかかげろとは、幻想なのか?

          今頃になって、死んだじいちゃんの事を思い出している。 じいちゃんと言っても、自分自身もじいちゃんになりかけているのだから、もうずいぶん、昔の事だ。 父方のじいちゃんは、私が中学生の時に死んだし、一緒に暮らしていたわけでもないから、特に際立つ思い出があるわけではない。 ただ、このじいちゃん、会うたびに、誰かに似ている、と子供心にいつも思っていた。   じいちゃんは根っからの百姓で、決して豊かな暮らしはしていなかったけれど、それでも父を含む七人の子を育てた。 父は高等小学校を

          今こそアヒンサーという旗をかかげろとは、幻想なのか?

          漂泊のアーレント

          老人のエロティシズムとは、深くて、ひねくれていて、泥い。 そう書いたのは、かくいう私自身である。 ここでの投稿、「老人のエロティシズム」の最後に、そう記した。 人気のない私の投稿だから、そりゃあ、大した話題にもならず、それに内容もよく見れば、ただのエロおやじの戯言なので知られていないのは仕方がないが、私はそこで谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」を取り上げた。 自分は変態ではないか、とその時危惧した思いが、谷崎の存在で救われたことも、そこに記した。 エロティシズムと言えば大袈裟

          漂泊のアーレント

          家畜人ヤプー 再び

          著名な宇宙物理学者、ホーキング博士はかつてこう言っていたような、記憶がある。 AIが人間の領域を侵すようになってきたら、人間は宇宙の他の星を探して地球から逃げなさい。 その一方で、地球のように人類が住める星が宇宙にはどのくらいあるのか、と問われて、博士は、2500と平然と答えている。 だが恐らく我々が宇宙人に遭遇することも、そんな星を見つけ出すことも、本当はその確率は限りなく低いことを、博士のみならず、我々だって知っている。 我々は結局、地球以外では生きていけないのだ

          家畜人ヤプー 再び

          老婆の休日

          給料がなくなるという。 少なからずショックだ! 私のパート先での事である。 だが決して倒産するわけではない。 業績はすこぶる好調のようだ。 詳しく言うと、なくなるのは給与明細書である。 これまで毎月給料日の少し前になると、袋に入った明細書が配られていた。 それがなくなり、明細を知りたければ、手持ちのパソコンかスマホで  自主的にIDと暗証番号を打ち込んで調べろというのである。 大げさに言えば、汗水垂らして毎日やっている己の労働の実体がまた遠くに追いやられた感じなのである

          ふたりの将棋指しは「命」(めい)に殉じたのか?

          「いのち」と呼ばず、「めい」と呼ぶ。 東洋の思想に「天命」「知命」「立命」というものがある。 人は誰しも生まれながらにして天から与えられた素質能力「天命」がある。それを知るのが「知命」 知ってそれを完全に発揮していき、その人生の中で自分を尽くすのが「立命」である。 そうすることが己の存在意義にもかなうものでもある。 しかし、これがなかなか難しい。 「命」を知ることなく漫然として終える人生が多い。 私も同じだ。まだ、「命」を知らず、迷ってばかりの人生だ。 ふたりの将棋指

          ふたりの将棋指しは「命」(めい)に殉じたのか?

          四月になれば彼女は

          不意にギタリストの指が止まった。 それまで気軽にリクエストに応えて、映画音楽から懐かしい青春歌謡まで器用にこなしていたのに、あるリクエストを聞いて、指が止まった。 「明日に架ける橋、ねぇ、どうだったかなぁ、楽譜はあったかなぁ」 それまで楽譜などなくても暗譜で数々の曲を弾いてきたのに、急に歯切れが悪くなった。 10人入ればいっぱいになる、ジャズ喫茶である。 そこに13人が入ってクラッシックギターでのライブコンサートが始まった。 私以外は皆、顔なじみらしく、そこのお店の

          四月になれば彼女は

          もうひとつの「菜の花忌」

          「桜桃忌」といえば、太宰治。 「河童忌」といえば、芥川龍之介。 というように、作家の命日を悼む日がある。 それでは、「菜の花忌」といえば、誰かご存知だろうか? ネットで調べれば一番に司馬遼太郎の事が出てくる。 言わずもがな、国民的作家である。 菜の花が好きだったという故人にちなんで設けられたらしい。 実は、それ以前にも、ある詩人を偲んで「菜の花忌」が設けられている。 それが長崎県諫早市出身の詩人、伊東静雄である。 伊東静雄については、私も、ここでの投稿、「ふたりの詩

          もうひとつの「菜の花忌」