知伊田 月夫
これまで投稿してきた詩をまとめました。
エッセイ全般のごった煮です。あなたにとっての掘り出し物があればうれしい。
観た映画、読んだ本の批評と関連エッセイです。
スマホに映った中継盤面に永瀬王座の手が伸び、中央を制圧していた馬をつまみ上げた。53馬。私は、即座にPC上に立ち上げているAIソフト「水匠」で馬を53に動かし、評価値の推移を見守った。次の瞬間、私は、思わず「え?え!?」と声を上げていた。永瀬王座に+2000点以上振れていた形成判断が、その一手を取り込んだ瞬間、-4000を下回った。それは、大げさでなく将棋界にとって運命的な瞬間だった。再びスマホに目をやると、1分将棋の中、永瀬王座が普段の冷静さを失っていた。呆然と虚空を見つ
うちには、古いピアノがある。 半世紀以上も前に作られたもので、 妻の恩師から譲り受けたものだ。 最近、7歳の息子がピアノを習い始めた。 息子が鍵盤を叩くと、ピアノが喜んでいるのがわかる。 例えば、カタツムリの曲。 つのだせ♪ やりだせ♪ のところ、 息子でなくピアノの方が、 今にも踊りだしそうにノリノリである。 一曲弾き終わるたびに、どう?と顔を向ける息子。 いい感じ、と言ってやると、 ピアノまで、にやけている。 ある日、息子は、うまく弾けなくて、 ピアノをばたん!と閉
今年は秋刀魚が高いから 代わりに鯖を焼いている。 庭先の七輪から昇る煙が 夕空に溶けてプロローグ。 西の空 果てしなく微妙な夕藍のグラデーション。 それを切り裂くボーイング787。 定員240名の日常と非日常が点滅している。 あの飛行機雲の鋭い直線は、とある歴史と勇気が引っ張っているらしい。 すぐ後を追う夕陽。 何億回も出演し続けるベテラン役者だが、 今の時分は出演時間が短い。 見せ場は去り際の残光。 振り向きざまの慣れたスマイル。 颯爽とステージ裏へ消えてゆく。 ー
魚の骨が刺さったような顔 青く鋭い二月の憂鬱 仮面はかってに僕の顔を覆い 僕は知らない女と踊っていた 保健室のガーゼみたいなウイスキー 茶色く廻る酒場の喧騒 仮面は僕のグラスを奪って 僕は嫌いな友を酔わせていた クジラの中のブリキのおもちゃ 黄色い妖精の無邪気な嘘 仮面は僕のわき腹をくすぐって 僕は僕を好きになってしまった なんだか怖くなって仮面を剥がすと 誰も僕だとわからなくて 僕は骸骨と踊るしかなくなった ガイコツたちはケタケタ笑って こぞって僕を取り合った 僕は
一つになる すべてが一つになる あそこで観た風景も あの人が言った言葉も あの本にあった教訓も あの時訪れた感情も すべてが集まり、今、一つの道を照らす 道は断崖絶壁の淵に沿ってつくられる 荒波は口を開けて待っている それでも、私は臆せず行こう 終わりの時に笑っているために すくむ足に活を入れ いのちを振り絞ろう この身一つになることもある 天国からの出口やもしれぬ それでも、笑って行こう 行くことのために私となり 行くために生まれたいのちであるから
原田マハの「楽園のカンヴァス」を読んだ。 文句なしに面白かった。今年読んだ本でベストかな、と思う。重厚な物語にしっかりと没頭できたし、読後感も爽快で、しかも、何とも言えないぬくもりがあった。 巻末で高階秀爾(当時、大原美術館館長)が「美術史とミステリは相性がいい」と解説しているが、本当にその通りだな、と思った。ミステリの面白さは大雑把に言って、「読者の知的好奇心」を刺激することにある。「次に何が起こるのか」「いったい何が起こったのか」を追求する(考える)ことに面白さが集約
「幸せとは何ぞや」というど真ん中ストレートの本が結構好きだ。 印象に残っているのは、 ・「幸福論」バートランド・ラッセル ・「幸福論」ヒルティ ・「幸福について」ショーペン・ハウアー ・「人生の目的」五木寛之 ・「生命について」トルストイ ・「老子」 などだ。 それぞれの本において、「幸福」と「幸福のための心がけ」が独自に展開されるわけだが、実は共通していることも多い。 そして、ほぼすべての本で(手を変え、品を変えではあるが)共通している教えがある。それは何か? 人
来る日も 来る日も 切り立つ風に吹かれながら じっとそこに居続ける者あり 笑われても 罵られても 渇いた砂塵を噛みしばきながら じっとそこに立ち続ける者あり 戦っている風でも 耐えている風でもなく 凛とした表情で その日の怒りや悲しみや損得の種を 厚ぼったい足の裏に踏みつけ ゆっくりと己が根にしてゆく 目の前に道はなく 時が意志も何も流そうとするが その瞳は、鋭く、はるか遠く地平線を焼きつけている やがて、瞳から小さな火種はこぼれ 燃えてゆく。燃えてゆく。 じっくりと
今日は、呪いのかけ方と解き方について解説しようと思う。これまでになく非常にあぶない内容だ。この呪いは強力で、対象の存在を根本から消してしまうほどの威力を持つ。 しかし、私はこれを語る必要がある。主に、世にはびこるこれらの呪いの解き方を提示するためだ。知らず知らずのうちに、呪いを受けている人は多い。もし仮に、あなたが呪いを受けているとするならば、その呪いは内側から浸食を続け、やがてあなたの存在を食い荒らすだろう。 呪いの解き方を語るには、当然、そのメカニズムを語る必要がある
最近、奥村隆 著の「他者といる技法」という本を読んだ。コミュニケ―ションの社会学についてなのだが、あり得ないくらい面白かったので、文章に残すことにした。 さて、愛想笑いと陰口について、あなたはどんなイメージを持つだろうか。 おそらくあまり良いイメージではないだろう。どちらも、できれば避けたいもの、と思うかもしれない。 また少し質問を変えてみよう。 愛想笑いと陰口は何のためにするのだろうか。 想像だが、きっと、前者は人間関係を円滑に進めるため、という答えになると思う。
朝、最近の日課となったランニングをしていると、近くの神社の鳥居のそばに、ヘビの抜け殻が落ちていた。アオダイショウだろうか、かなり大きくて頭の形まではっきりしている立派な抜け殻だった。なんとなく気になって、手に拾い上げ、持って帰った。手に持って、ヒラヒラはためかせながら家までまた走った。 とりあえず書斎のホワイトボードに磁石で止めておいて、生き物好きな息子が起きてくるのを待つことにした。日課では、ランニングの後は、コーヒーを入れて本でも開いてボーっとするのだが、その日は何
多くのことが三日坊主の私にとって、将棋は、唯一と言ってもいい長年続いている趣味だ。 小学校低学年の頃にルールを覚え、高学年で本格的にのめり込んだ。それからネット将棋に明け暮れ、ついには、大学で将棋部にも所属した。もうかれこれ25年くらいやっていることになる。ものすごく強いわけではないが、アマチュア五段なので、そこそこは強い。 将棋というゲームは本当に面白く、その魅力を語るには、それなりの準備と気合いがいりそうだ。けれど、今日話したいことは少し違う。将棋がいかに面白いか、で
太陽は昇っていて、僕以外は陽気な雰囲気なのに 僕の進む道は、影が濃過ぎて、真っ暗な夜の底みたいだどこを歩いているのかわからない 歩いているというより、彷徨っていると言った方がいい なんだか、ひどく寒くて、寂しくて、むなしい ここから抜け出したい、と思うより前に 目の前に垂らされた藁を両手で掴んでいた しかし、その藁は、手ごたえなく、 スッと抜け落ちてしまった こうなるとやっぱり歩くしかないのだけど、 本当に疲れた 「あぁもうだめかもしれない」って言っているうちはまだ
ぼくは常々、調理と作文は似ているなと思っていて、アイデアと食材の関係もまた、お互いよく似たところがあると思う。思いついたアイデアを書き留めておくという行為は、買ってきた食材を冷蔵庫に保存するという行為に等しい。そして、調理において適切な保存が、完成料理の出来栄えを左右するのと同じように、アイデアの保存方法や保存期間も文章作成において大変重要な要素なのではないか、最近そう思っている。3年くらい前からnoteやブログにコツコツとエッセイや詩を書き残しているが、その質は問わないと
映画なり小説なり物語を批評するにあたって、"メッセージ性が強い"という評価がある。主に、肯定的な意見で用いられ、その評価を受ける作品はあまり多くはない。 少しアンケートを取ってみよう。 同じジブリ作品である下記の2作のうち、どちらがよりメッセージ性が強いと思うだろうか。できればその理由もあわせて考えてみてほしい。 ①天空の城ラピュタ ②もののけ姫 私個人的には、②のほうがメッセージ性が高いという評価がしっくりくる。もちろん、どちらも面白くて、傑作であると思うけれど、メ
今日初めて「水流のロック」を聴いた。 ダメだ、良すぎる。 音楽でこんなに感動したは、いつぶりだろう、ちょっと最近の記憶にはない。 久石譲の「Summer」以来の琴線への触れ方である。 自分は、音楽の歌詞にまず注意がいくタイプだ。 そこに魂がなければ、というか、”ほんとうのこと”がなければ、完全に冷めてしまう口である。 それが、この歌詞よ。 なんなんですか、この、天才的な歌詞は。 音楽の歌詞って、メロディがなくなった瞬間に、陸に打ち上げられた魚みたいに悪臭を放つか、クラゲ