人の器を見たときに、器が大きい人は、 自分を大きくみせようとも小さくみせようともしないもの。 その場にいて自身も楽しみながら、 まわりの人や状況に最善のあり方を実践しようとしている場合が多い。 与えすぎず受け取りすぎず、ありのままある人を見るにつけ、そうありたいと私も思う。
ここ2週間くらい作業をしてきた在庫増加の原因追求がただ単に入力ミスだったことが判明した。苦労したことを憂うか、それとも原因がわかったことを喜ぶか、どちらを選ぶかで人の器の大きさがわかる。
演奏の最中 観客の携帯が鳴る 演奏者は嫌な顔もできる ただ その呼び出し音を 即興耳コピ演奏し 「大丈夫」 のメッセージを 伝える奏者もいる この差は 【観客の顔が見えているか?】 の技術差 周りが見えているか? つまり 「器の差」から 自ずと生まれる 差なのである
自分にできないことを 他人が実施していた時 他人を貶める行為に出るか 自分を引き上げようと奮起するか でその人の器の大きさが見えてくる。 妬むか。 憧れるか。 前者であれば「身の丈 > 器」 後者であれば「身の丈 ≦ 器」 器を大きくするには 自分が努力するしかない。
人にやさしくできるかは その人の 「優しさの器」 の大きさ次第。 器の大きさは日ごろの言動で変化する。 人を助けることができるかは その人が 「自分の課題や問題を解決」 して自分に余裕があるか次第。 自分の面倒も見れなければ 他人の面倒にまで手を出す余裕がない。