sv湧泉
一生懸命という言葉があります。一所懸命とも表記される事もあり、時々どちらを表記すべきかと迷ったりもします。 調べてみると、本来、一所懸命が語源のようです。 鎌倉時代の頃、武士が将軍様から賜った先祖代々の所領を懸命に守った事に由来するらしく、『一所(土地)を懸命に守り抜く』『命懸けで取り組む』『切羽詰まった状態』など実に様々な形で使われるようになりますが、『命懸けで取り組む』という意味が頻用され、一所懸命の『一所』が『一生』に取り違えられ今に至っているようです。 イメー
自分のうつわを大きくする。人物ができて参りますと、ささやかな事で怒ったり、悲しみに振り回されたり、過度に恐れる事もなくなるでしょう。 かつて、私が、TA(Transactional Analysis)に傾倒し勉強していた頃、カール・ロジャースの出会いへの道(エンカウンターグループの記録ビデオ)とグロリアと三人のセラピストと云うビデオを観たのを思い出します。現実生活に悩みをもつ若い女性グロリアが、ロジャーズ(来談者中心療法)、パールズ(ゲシュタルト療法)、エリス(論理療法)
ここで、間違わないで欲しい事があります。それは、怒ってはいけないと述べているのではないと云う事です。怒りも悲しみも恐れも遭遇するのが動物で、それらの感情が感じ取れなければアレキシシミア(失感情症)所謂心身症ですから、すべての者に怒りも悲しみも恐れの感情も去来します。『はいさいおじさん』で名を馳せた喜納昌吉氏の『花』と云う唄に、泣きなさい、笑いなさい、いつの日にか、いつの日にか、花を咲かそうよ♪と、その通り泣きたい時には泣き、笑いたい時には笑うそれで良いのです。むしろ感情には
甲の意味 甲はよろいで、鱗、よろいをつけた草木の芽が、その殻を破って頭を少し出したという象形文字です、これを人事に適用いたしますと、旧体制が破れて、革新の動きが始まるということを意味しています。この自然の機運に応じて、旧来のしきたりや陋習を破って、革新の歩を進めねばならないわけなのです。 「甲」という字は、今まで寒さのために殻をかぶっていた草木の芽が、その殻を破って頭を出したという象形文字です。春になって草木が殻を破って芽を出す(これを甲折といいます)という自然現象を表しま
怒りの感情で、全身は身構えて、立ち向かい、エネルギーを動員することとなります。 この緊急事態がおさまると、こんどは副交感神経が作動して、身体はもとの平和状態に復元する仕組が出来ています。 しかし、怒りが、しばしば発生すると、身体的疲労身体に障害が現れて来ます。 怒りが繰り返される毎に、肝臓内のグリコーゲンは分泌され、ぶどう糖となり、血液内に流れ込みます。当然、血液内の糖(血糖)は高くなる事が想像できます。これが復元する暇もなく、怒りが連続しますと、糖尿病となる危険性が
人物ができて参りますと、膽気⇨膽力⇨膽織⇨人物⇨大器と備わって行きます。 些細なことで精神が動揺したり、気持ちに振り回されることも無くなります。東洋医学や東洋思想を調べてみても肝臓や胆嚢と精神は密接に関連があります。 例えば、怒りの気持ちは、交換神経を興奮させ、交感神経が肝臓へ伝達物質で肝臓貯蔵のグリコーゲンを血液中に流し込むようにと指令がゆき血液を糖で充して行きます。 何故そのような現象が起こるのでしょうか?怒りを感じた後に起る事を生命は長い年月の中で把握しているから
安岡正篤先生著の『朝の論語』に下記のような文がありますので、かい摘み掲載いたします。人器を読み解く参考になれば幸いです。 あれは人物だとか、あれは人物ができてない等と言いますが。学問にしても産業・政治・教育にしても、人物のあるなしで価値や運命が決まってしまいます。人物たるには気力・身心一貫した生命力が必要です。身長、肉づき良い体格などは関しないものです、一見鼻っぱしが強くても、事に当って意気地の無い状態を、「客気」と言います。すぐ消えて無くなる気です。物静かで、弱々しい感じ
学習という言葉がありますが学ぶと習うで学習です、学ぶは真似ぶ⇨真似る事に端を発し真似ぶ〜学ぶとなりました、真似る事です。習うの習は羽と下部は白ではなく本来は臼です。臼に入れた沢山の祈祷文の上で繰り返し何度も羽を擦り合わせて御祈祷した事が所以ですから、繰り返し繰り返しと言う意味です。従って学習とは、繰り返し繰り返し真似てみるといった意味を含みます。 ですから前述のように、感謝を先にして繰り返し繰り返しお陰様を意識し、真似てみる事です。 そうすれば、繰り返し繰り返しの中で器
ここに受容器の問題が出てくるのです。先ず、受け取ることが出来るよう『うつわ』を作る必要が有ります。その為には、気づくこと・感じる力を磨く事です。例えば、ご両親が、残して行く子供の為に、家の金庫に大金を残して逝かれたとしましょう。残された子供が鍵の開け方を忘れてしまっては、そこに有るのに大金は使えません。もう一つ例えれば、儀礼の席等で長時間正座した結果、足が痺れてしまった時には立ち上がろうとしても立てず、歩き出そうとしても上手く歩くことが出来ないかも知れない・・・ 脚があるの
他には、易経の始めに、乾為天(けんいてん)龍に例えた教えがあります。この乾為天は、潜龍(水底に潜んでいる龍で、今は力を備える時期で、軽々しく用いてはならないとあります)⇨見龍(初めて地上に姿を見せ田圃に現れる龍で、大人(徳のある人)から習い学ぶ時です)⇨或いは踊りて淵に在る龍(習い学びが進み勢い良く進むが経験値が足りない、失敗から多くを学ぶ時期)⇨飛龍(潜龍が見龍となり時を得て飛龍となり恵沢を万物に遍く施せる様になるがそれは大人の輔があっての事、謙虚でなければならない)⇨そ
以前、水の話、水に倣うを記しました。今回は、それを受ける器の世界を覗いてみたいと思います。 天からの最大の恵みは、水。即ち雨です。雨は大地に隈なく降り注ぎ大地を潤し生命を育みます。古代から、龍は雲を呼び寄せて雨を降らせると信じられています。 古典落語の世界にも、この様な小噺が在ります。 「夕立屋〜 ゆうだち〜」「ゆうだち屋でござ〜い」 ヘ〜 おもしれえ商売もあるだと裏長屋の熊さんだかハッさんが「お〜い 夕立屋〜ッ」と呼び止め「こう暑くっちゃしょうがね〜ヤ いっちょ降ら
ロシアがウクライナに侵攻して随分となる。何だか心がとっても痛む。人は何時になったら戦争をなくす事ができるのか? かつてノベル文学賞作家でもあるシンガーソングライター『ボブ・ディラン』は、Blow-in’ in The Wind (風に吹かれて) で下記の様に投げ掛けた。 How many roads must a man walk down Before you can call him a man? Yes, and how many seas must a
論語に、弟子の子貢が師匠の孔子に質問した下記の言葉が残されております。 子貢問曰 有一言而可以終身行之者乎 子曰 其恕乎 己所不欲 勿施於人 (衛霊公第十五) 子貢問うて曰わく、 一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。 子曰わく、其れ恕か。 己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。 弟子の子貢が、先生に聞きました。「ただひと言で、一生実行する価値のある言葉はありますか?」。先生がおっしゃいます。「それは〝恕〟(相手を思う思いやりの気持
久々に井上陽水の『断絶』と云うアルバムを引っ張り出してiphoneに同期して聴いている。アルバム中に『感謝知らずの女』と言う歌が有り、私の耳に飛び込んできた。感謝知らずの女どころでは無い、現在の日本人は以前と比して一億総、感謝を忘れてしまってるのではないかとも感じられ、思わず顔を赤る。 私は、常日頃から、「ありがとう」「お陰様」が直ぐに云える自分作りを提唱している。今では、『ありがとう』はブームとなり定着している様であるが、一方で『お陰様』は死語に成りつつあり、寂しさ
至るを知りて此れに至る 最近、想定外や真逆、あり得ないなんて言葉をよく耳にする事が多く残念な気になりますし、日本民族の気の緩みや刹那的行動に唖然とさせられます。 安岡正篤著『呻吟語を読む』 無知なればこそ偶然に惑う 当然あり、自然あり、偶然あり、君子は其の当然を尽くし、其の自然に聴せ、而して偶然に惑わず。小人は偶然に泥み、其の自然に払って、而して其の当然を棄つ。噫偶然なるもの得べからず。其の当然なる者を併せて之を失ふ。哀しむべきなり。(應務) みんな
有難う 難が有るから、有難い。と、感じた時に、奇跡は起こる、嗚呼〜〜〜有る事難し❣️