
器の良し悪し
器には個性がある。大きいもの、小さいもの。深いもの、平たいもの。かくばっているもの、楕円形のもの。
いつも買うべき器に出会った時には
「トマトパスタが映えそう」
「漬け物3種を少量ずつおいたら映えそう」
「チーズケーキと生クリームを置いたら映えそう」
と器の側から料理のイメージを与えてくれる。解像度は雑誌の表紙を飾れるくらいに高い。料亭の気品を食卓にもたらすのか、故郷の温かさをもたらすのか。
お皿の活かし方を自分から教えてくれて、しかもそれが決まって暮らしに役立つと証明までしてくれるもんだから、自然とお迎えしてしまう。
人によって浮かぶものは違うとは思う。ただ共通して言えるのは人の感情や思考に何らかの影響を与える、ということだ。もちろん良いイメージだけではない。負のイメージを与えるものもあるだろう。かっこつけすぎ、お高くとまっている、田舎くさい、壊れそう。家にあわない。
そういうお皿がある一方で、ほとんど何も想起させない器もある。何の料理にも使えそうだけど、料理を入れる容器という役割にとどまっている器。
そういう器に対してはこちらから使い方を考えてあげないといけない。
この料理だったらあうかな。
こういうタイミングなら使えるかな。
こうした器は強烈な負のイメージも与えないから、幅広い方に手に取ってもらいやすいだろう。
ただこうした違いがお皿にあることを知ったうえで、ついうっかり言ってしまうことがある。
「もう少しこうだったら使いやすいのに」
「もう少しこうだったら可愛いのに」
「もう少しこうだったら格好いいのに」
振り返るに、こういうことを思うのは前者のお皿だ。さらに言えば負の側面が見えるお皿。僕からすると「良い」お皿ではなくて、「イマイチ」なお皿。そういうお皿は世の中に山のようにある。
ただ果たしてそうなのか。
イマイチなお皿なんてあるのか。
プロの技は思想をいつも覆す。
お寿司屋さんに行くと、なんだこの美しい料理は、と思うことがある。
お皿単体を売場で見たら、「なんかなー」と負のイメージをもつはずのお皿。それがプロの手によって一級品として活かされていた。食べ終われば、短所に見えていた所すら愛おしく見えてくる。
プロは全然違うのだ。僕ら初心者が単体で見たら「イマイチ」と思うだろうお皿も、きっとそうは見えていない。「これはいいね!」と短所に見えがちな箇所すら魅力と捉え、うまく活かすのだ。
自分がお皿を単体で見た時にはこんな素晴らしい使われ方があるなんて想像できなかっただろう。想像できないだけならまだしも「もう少しこうなら良いのに」とすら思ってしまったかもしれない。
こんな風に思うのは、単に自分の経験や技術が不足しているからなのにね。プロはその「足りていない」と僕が感じる部分すらまあるく包んでうまく活かすのだから。
ましてや、初心者の僕が「ここをこうして」なんて触っていたらどうなっていたか。正直ぞっとします。
そんな考えを持つようになってから、手に取る皿が変わった。
売場に行くと
こちらを睨み付ける威勢のよい職人さんのようなお皿がある。
どう使うかはわからない。
でも、じっと見ている。
ヤンキー座りをしている。
小柄で筋肉質。
お店を一周して戻ってきてもまだ見ている。
僕はお迎えすることにした。
なんとか活かそうとトライしたけれど
いまだに活かしきれていない。
でも
なんとか楽しくやっている。