資料には「生みの苦しみ」が付着している。知恵を絞って言葉を編んだり、何度も書き直したりした「生みの苦しみ」が付着している。資料がデータでやりとりできる時代。そのやりとりに「生みの苦しみ」は付着しない。データだけ手に入れても、使えないことが多い。それを理解したうえでデータに触れる。
子どもたちはいちばんの相談相手。教師がいろいろと悩むより、さっさと子どもたちに相談してみよう。「どんな授業がいい?」「どんなふうに探究したい?」
「歓待すること」「居ることに感謝すること」私がつくりたい・つくろうとしている「ナスビの学校」は、その根幹に「ケアの思想」がある。
「入学したときからきちんとデザインされた学校で学ぶ3年間」と「自分たちでデザインしていく3年間」だと、中学生にとっての学びはどう違ってくるのだろう。
「探究したい子ども」と「探究を必要としている子ども」は同じようで違う。「探究を必要としている子ども」は、ケアされる居場所を求めていることがある。探究することとケアされること。この関係性を明らかにしたい。
「カタログ」には当て字があって「型録」と書くらしい。けっこう深い。「型」は「パターン」や「傾向」につながるし、「録」はその言葉どおり「記録」につながる。なるほど、カタログとは「パターンの記録」として読み直すことができるのか。
「探究にはフィードバックが必要だ」って思うけど、「フィードバックはいらない」と思っている人もいれば、「自分ひとりで考えたいからジャマしないでよ」って思っている人もいる。探究とフィードバックの研究は、「探究する人はフィードバックを求めてる」っていうところから始めると失敗するかも。
学校の研究で「これをやりましょう」とか「これをやってください」という言い方だと、いわゆるHow-toにとどまる。体裁は整っているように見えるけれど。How-toはあとからでもいいから、まずもって「何のために」「誰のために」というWhyを大事にしたい。Whyの語りに時間をたっぷり!