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#65_「居る」ことを大事にする学校

砂場で熱中して遊んでいる子どもが、ふと、ふりかえる。
お母さんの姿を確認して、表情をゆるませる。
特に何か言うわけでもなく、特に何かを求めるわけでもなく、また、砂場で熱中して遊び始める。

確かに、そうだと思う。

息子がレゴに熱中している。
私はちょっと離れたリビングの机で本を読んだり、テレビを見たりしている。
ふとしたときに、息子と目が合う。
お互いに、ニヤッと笑う。
特に何か言うわけでもなく、特に何かを求めるわけでもなく、また、レゴに熱中して遊び始める。

この事態を明解に、そして、丁寧に言葉にしてくれている文章に出会いました。

砂場で遊んでいる子どもを思い起こしていただきたい。彼は熱中して砂のお城をつくっている。僕らから見ると、彼は一人で遊んでいる。だけど、ウィニコットに言わせると、彼は一人で遊んでいるわけではない。彼の心には「母親」がいる(当然のことながら、べつにこれは生物学的な母親でなくてもいい。お世話する人、つまりケアしてくれる人であればいい)。ここがウィニコットのわかりにくいところだ。少年は砂の城のことしか考えていないし、外から見ている僕らにも彼は一人で遊んでいるように見える。だけど、実際には彼の心の中にはきちんと母親がいる。それがわかるのは、彼の遊びが中断するときだ。少年はときどき手を止めて、後ろを振り返る。後ろのベンチに母親がいるのを確認する。そこに母親がいるか不安になるのだ。すると、遊びは中断する。このとき、母親はスマホでツムツムをやっていて気がつかないこともあるかもしれないけど、多くの場合、手を振ってくれる。すると少年は安心して、ふたたび遊びに没頭しはじめる。そう、遊ぶためには、誰かが心の中にいないといけない。それが消え去ってしまうと不安になって、遊べなくなってしまう。少年は心の中で母親に抱かれているときに、遊ぶことができる。他者とうまく重なっているときに、遊ぶことができる。

東畑開人(2019)『居るのはつらいよ-ケアとセラピーについての覚書』医学書院、pp.153‐154

一人で遊んでいる。だけど、本当は、一人で遊んでいるわけではない。

とても大事な言葉だと感じました。

本当に「ひとりぼっち」だったら、いろんなことが心配で、いろんなことが不安で、遊びに熱中するどころではなくなるはずです。自分自身の生存がおびやかされていると感じることもあるかもしれません。

身体的な距離が大事になるときもあるはずです。特に、子どもが小さいときは、目に見える範囲に「いる」ことが大事になるはずです。

子どもたちは、少しずつ、成長していきます。

心理的な距離が大事になるときもあるはずです。いつも、いつでも、会えるわけじゃない。いつも、いつでも、そばにいるわけじゃない。でも、ちゃんと、自分の心のなかに、誰かが「いる」――。そして、会おうと思えば、会える。会ってもらえる。会いに行ける。

私たちひとりひとりが、自分の心の中に、そんな人が「いる」状態をつくっていけるようになるといいなあと思います。

学校に来てくれる子どもたちに「よく来たね」と、「今日もいろいろとめんどくさいけど、まあ、なんとか夕方までここに居てみてよ」と、「今日もよーくがんばったね。疲れたでしょ。ゆっくり休んでね」と、「で、また、明日、会おうぜ」と、「でも、ほんとにきついときは、思い切って、休んでよ」と――そんなメッセージが伝わる学校がつくれたらなと思います。

学校に来てくれる子どもたちが「めんどいけど、今日も行くか」と、「まあ、なんとか学校に居てみるか」と、「けっこう、先生、見てくれてるのよね」、「先生、実は、私のこと、わかっちゃってるのよね」と、「何かまずいことがあれば、とりあえず、先生に言っとくか」と、「何も話題はないのだけれど、とりあえず、そばに居てみるか」と――そんな気持ちになれる学校がつくれたらなと思います。

その学校は、「いる」ことを大事にする学校です。

「ナスビの学校」の輪郭が、またひとつ、ハッキリしてきました。


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