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#34_「カード探しの旅」に思うこと

息子が「サッカー日本代表のカード集め」に凝っています。そのカードは、1袋100円くらいのポテトチップスについています。カードを集め、自分好みのフォーメーションを考えるのが楽しいようです。床にカードを広げて、あれこれとフォーメーションを考えています。どうしてもほしいカード(選手)があるらしく、昨日はカードを求めて買い物に出ました。

まず1店目。スナック菓子コーナーへ走りました。ありません。どうやら新しく発売された「プロ野球チップス」に売り場を明け渡したような雰囲気がありました。息子に「どうする?もうちょい、探してみる?」とたずねると「うん」と即答。そのまま、次の候補となる店へ。

2店目。ありません。

3店目。ありません。

「ここには絶対ないだろう」という4店目。もちろん、ありません。

5店目。「もうここが最後だね」といいながら入店。ありません。

「よし、しょうがないな。帰ろうか。」
「うん。そうだね。ちびまる子ちゃんも始まるしね。」

家にたどりついて、玄関のドアを開けたとき、息子は言いました。

「どこにもなかったね。ムダだったよ。」

なかなか含蓄のある言葉だなあと思いました。私は息子の言葉を聞き流し、聞こえないふりをしながら、そう思いました。

「どこにもなかった」ことがわかって、息子は、カードをいさぎよくあきらめることができたようでした。ムダではなかったように見えます。

「可能性のあるところはすべてまわった」ことによって、息子は「自分がほしいものがあるときは、とりあえず、いけるところまでいってみる」ことを学んだのかもしれません。もしそうだとしたら、ムダではなかったと言えるでしょう。

「もうどこにも売ってないのだから、今持っているカード(選手)でフォーメーションを考えなきゃな」と思い、趣向を凝らすことができたとすれば、ムダではなかったと言えるでしょう。

学校で学ぶ子どもたちも、いろんな場面で口にするかもしれません。

「ムダだったよ。」

その言葉を聞いたとき、私はその子どもにどんな言葉をかけることができるだろうか。どんな言葉をかければ、実はその経験がムダではなかったことを伝えることができるだろうか。その子どもに話しかけるまでに、私はその子どもの何を、どのように知っておけばよいのだろうか。

「どこにもなかったね。ムダだったよ。」

なかなか含蓄のある言葉だなあと思いました。私は息子の言葉を聞き流し、聞こえないふりをしながら、こんなことを考えていました。


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