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#73_「純度100%」の自分の考えはない

「これって、どうすればいいですか?」
生徒が先生に相談する。

「ああ、それなら、こんなアイデアはどうかな?」
先生が生徒に答える。

「なるほど、ありがとうございます!」
生徒が先生のもとを去る。

ひとりになった生徒は考える。
「確かに、先生が言ったアイデアはおもしろいし、自分もやってみようと思う。だけど、なんか、引っかかる。何かが、引っかかる。この、引っかかっているものは、いったい、何なのだ?」

ひとりになっている生徒は考える。
「でもさ、これってさ、私の考えじゃないじゃん。先生の考えじゃん。先生の考えを、私のアイデアだって言って、表明しちゃっていいわけ?」

ひとりになっている生徒の頭のなかに、たくさんの分身が生まれる。

分身Aは言う。「いいんだよ、言っちゃえよ。先生のアイデアかどうかなんて、誰にもわかんないじゃん!」

分身Bは言う。「いやいや、言っちゃうわけ?それでいいわけ?だって、他人のアイデアでしょ?それをあたかも自分のアイデアのように言うなんて、ちょっとどうかと思うわ!」

分身Cは言う。「本当におそれてるのはさ、実は、言った後で、『それはあなたが考えたことじゃなくて、先生が考えたことなんじゃないのぉ?』ってツッコミが来ることなのよ……」

悩める生徒のもとへ、ちょっとだけ経験豊かな先輩が現れる。そして、その先輩は、こんなふうに言う。

「純度100%」の自分の考えなんて、ないんだから。言っちゃえばいいのよ。

先輩は続ける。

私たちは、ずっとずっと前から、知のリレーをしてきている。私が、自分一人で考えたように思えることのなかにも、ちゃんと「知のリレー」は息づいている。私自身も気づかないうちに「知のリレー」に加わっている。リレーされている時点で、もう、「純度100%」なんて、言えるわけがないのよ。

中学生と高校生が、こんな対話をしている光景がありました。
この対話の光景そのものが「知のリレー」になっていました。
今日も、明日も、明後日も、「知のリレー」は続きます。
私は、今日も、誰かから「知のバトン」を受け取りました。
独り占めすることなく、さっと、次の誰かに「知のバトン」を渡そうと思います。
そして、そうやって「知のリレー」に参加し続けたいと思います。

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