ロラン・バルト 『神話作用』 : 「神話」とは、肯定的に思える〈まやかし〉
かつて「難解」の代名詞でもあった、フランス現代思想。その代表選手の一人であるロラン・バルトに初めて挑んだのは、3年前に読んだ『エクリチュールの零度』(『零度のエクリチュール』の訳題もあり)においてであった。
なぜこの本を選んだのかと言えば、まず有名だったというのと、たぶん、ロラン・バルトの第1著作だと知っていたからである。
で、その結果については同書のレビューにも書いたとおりで、まったく歯が立たなかった。「こりゃあ、どうしようもないや」という感じだったのだ。
もちろん、フランス現代思想の思想家・哲学者と言っても、いろんな人がいて、いろんな書き方をしているから、それぞれに難しいにしろ、読者側の向き不向きによって、読みやすさも違ってくるのだろうが、こと『エクリチュールの零度』に関しては、まったくのお手上げで、私にとってのロラン・バルトとは、「歯が立たない人」ということになってしまった。
しかし、その後、ジャン=リュック・ゴダールの映画を見て、映画全般への興味を持ったことから、ロラン・バルトが映画論のエッセイも書いているというのを知って、それなら読めるかもしれないと再び興味を持ったところに、たぶんたまたま、本書のAmazonカスタマーレビューに、本書が『とても読みやすい』と書いてあるのを見つけ、それで本書に挑戦することにしたのである。
で、どうだったか一一。
本書は二部構成になっており、前半は、各種の文化事象(例えば、プロレスや写真や車など)について書かれた短めのエッセイを集めたものだったから、これはたしかに読みやすかった。
しかし、読みやすいということが、そのままわかりやすいということでもなかった。読めはするけれど、バルトがそこで何を言わんとしているのか、それが判然とせず、その意味では、やはり難解だったのである。『エクリチュールの零度』ほどではないにしてもだ。
だから、前半の「各種文化事象に関するエッセイ集」の部分は、読めはするものの「腑に落ちる」感覚がなく、いかにも隔靴掻痒。このまま、後半の論文になってしまえば、結局のところ本書も「よくわからなかった」で終わってしまうのではないかと、そう危惧された。
本書の、このあたりの「構成」については、前記のAmazonカスタマーレビュアー「ymx」氏が要領よく紹介してくれているので、ここではそれを引用させていただこう。
つまり、前半は、私が「各種文化事象に関するエッセイ集」と評した「神話研究」。後半の論文は、「今日における神話」と題された『神話(…)をまとまった形で論じたもの』というわけである。
見てのとおりで面白いのは、「ymx」氏は「前半が読みやすく、後半が難しいと感じた」と書かれているのに対し、私は「後半を読んで、前半の意図するところが、やっと腑に落ちた」と評価している点であろう。ここに、何を「難しい」と感じるかの違いが、端的に表れているのである。
また、「ymx」氏が指摘なさっているとおりで、本書で言うところの「神話」とは、ギリシャ神話とか記紀神話とかいった、あのオーソドックスな意味での神話のことではなく、「神話的に機能しているもの」のことであり、本稿のサブタイトルで『「神話」とは、肯定的に思える〈まやかし〉』であると、そう評したようなもののことだ。
例えば「彼は昔、ヤンキーで鳴らしたとか思われているけど、それは神話に過ぎないよ」と言うような場合の「神話」である。
なお、私の場合は、この点は読む前から承知していた。なぜなら私の場合、神話学者のジョーゼフ・キャンベルが書くような(オーソドックスな、誰もがそうとわかる)神話の話(研究)には、そもそも興味がなかったからだ。
さて、そんなわけで、最後まで読んでみると、ロラン・バルトが本書で何を語りたかったのは、おおむね理解できた。今回は、いちおう歯が立ったのだ。
後半の「今日における神話」を読んで、私がなぜ、前半の「神話研究」の部分を難解だと感じたのかも了解できた。
前半は、言うなれば、具体的な「応用編」であり、後半は「原理編」とでも呼べるものだったのである。
つまり、前半は、バルトの「神話理論」を具体的な事例に即して運用したものだから、内容は具体的なのだが、それがどういう狙いで書かれた(運用された)ものなのかが、わかりにくい。
単純に、その対象の「(良し悪し)評価」だと考えるのなら、それはそれでわからないこともないのだけれど、しかし、そのように評価することに「どんな意味があるのか」が(その議論の前提が)書かれていないので、わかりにくかったのだ。
例えば、冒頭の「レッスルする世界」と題する、今で言う「プロレス」を論じたエッセイについて。
ここでバルト書いているのは、ごくごく平たく言ってしまえば「プロレスとは、(勝敗を決することが目的の)格闘競技ではなく、神話的な見せ物の一種である」ということだ。
これだけを聞くと「なんだ、そんなことか。そんなの、みんな承知で楽しんでいるんだよ」と思う人も多いだろう。だが、バルトはここで「だからプロレスは」ボクシングに比べて、優れているとか劣っている、と言っているのではないのだ。プロレスとは「神話」に支えられたもの(作品)であるという、その本質を指摘し、論じているのである。
このことを、こちらもAmazonカスタマーレビュアーの「mountainside」氏は、次のようにまとめている。
この説明は、哲学用語に慣れていない私のような人間にはわかりにくいものだが、しかし、本書を読んでいるので、その言わんとしているところは、おおよそ理解できる。
バルトは、プロレスとボクシングを比較することで、「神話」というものが、どのように機能しているのかを説明しているのである。
では、ロラン・バルト自身は、この「神話」というものを、どのように考えているのだろうか。
それについては、訳者である篠沢秀夫が「解説」で書いているように、それを「まやかし」の一種だと、否定的に考えていると、そう言っても良いだろう。
しかしまた、だからと言って、プロレスはダメでボクシングは良いという意味ではなく、私たちはしばしば、そうと気づかないうちに、「神話化」されたものを「ありのままの現実」であると、誤って受け取っている、ということをバルトは言いたいのだ。
そして、できれば「ありのまま(の対象)」を見られるようになるべきではあるけれども、しかしプロレスのように、それが「神話化された像」であることを「自覚」して楽しむ分には、そのことまで責めるつもりもない。一一だが、要は、可能なかぎり「ありのまま」見られるようになるべきだ、というシンプルな意見なのである。
では、なぜバルトは、それを「まやかし」だとは言わずに「神話」と表現したのだろうか。一一それは、「まやかし」と言ってしまうと、明らかに「否定的なもの」としか聞こえないからだ。
「神話」というのは、実際には「まやかし」の一種である。
ギリシャ神話であれ記紀神話であれ、そうした神話というのは、多くの場合「王権の権威」を保証するためのフィクションとして、でっち上げられた物語なのだが、しかしまた、「神話」には、「否定的」な意味合いは無いに等しく、ほぼ「肯定的」なものである、という点に特徴がある。
つまり、ギリシャ神話であり記紀神話などが、権力者のためのものであるだけではなく、庶民にあっても「我が王家は素晴らしい」と思わせてくれ、「誇り」さえ感じさせてくれるものであるように、あるいは「イエスは死して三日後に復活して、弟子たちにその姿を見せたあと天に登った」という「神話」が、多くの人たちの「信仰的安心感」を支えているように、「嘘」であり「まやかし」ではあるのだが、必ずしも「悪いばかりのものではない」から、それを「まやかし」と呼んでしまったのでは「否定的な側面だけが強調されすぎる」ので、バルトは「神話」という、ある意味「価値中立的な表現」で、その「心理的な現象」を説明しているのである。
例えば、「きっと明日は良い日だ」とか「みんなで頑張れば、きっと良い未来が開かれる」といった「ビジョン」や「理想」も、合理的に考えれば、それは一種の「まやかし」だろう。
明日も嫌な日が続く可能性が低くないからこそ、あるいは、みんなが頑張らなければ好ましい未来が訪れない公算が低くないからこそ、そのように言っているのだから、それは「肯定的」な表現ではあれ、「良い結果を招くための、まやかしの言葉」だとも言えるのである(だから、綺麗事だと批判されることもある)。
しかし、言い換えれば、こうした「好ましい神話」までいっさい否定しまうと、人間は「明日に希望を持って」生きていくことができない。だから、そうしたことまでを、単純に「まやかし」呼ばわりすることはできない。
それはやはり、一種の「必要な神話」なのだ。
つまり、「神話」とは、否定して無くしてしまえば良いというもの(単なるまやかし)ではなく、かと言って、全面的に肯定して、神話と現実の区別もつかないままで良いというものでもない。
だから、バルトはそうした「神話」作用を、仔細に検討して、基本的には「神話を神話と見抜く目を持った上で、それを適切に享受・利用できるようになるべきである」という立場で、「神話研究」をしているのである。
だがまたこれは「きわめて期待水準の高い、知的要求」でもある。
なぜなら、例えば「イエス・キリストの奇蹟は、すべて神話であり、事実ではないと正しく認識した上で、しかし、聖書の教えに従って敬虔な生活をしてください。いくら一生懸命祈っても、実際には効果がないと分かった上で、それでも祈ることの大切さを理解して、そんな生活を実践してください」と言われても、大半の人にとっては、それは無理難題でしかないからである。
だが、そうした現実を承知の上で、やはりロラン・バルトは、この世に存在する「神話」というものを、それと見抜く目(理性)が必要であると訴える。
仮に、「信仰」にどんなに好ましい側面があったとしても、それは「盲信で良い」というわけではないからだ。
一一そして、この「盲信批判」という点において、私はバルトと完全に一致するからこそ、初めて本書を「理解できた」と、そう感じたのである。
次に引用するのは、本書本文の最後の部分である。
ここで、ロラン・バルトが何を言っているのかというと、要は「それは神話だ(王様は裸だ)」と暴く行為は、「神話」と共存しているこの現実社会において、そこから身を引き剥がす行為なのだから、(神話学者たらんとする者は)自身が社会から阻害されるという覚悟を持っていなければならない。
しかし、いくら困難なことであれ、それ(非神話化)は必要なこと(綜合ではなく切断)なのだ、ということである。
これも例えて言うなら、「すべての宗教は、幻想である」と、宗教を「非神話化」する必要はあるが、それがなされた世界がどのようなものになるかまでは、神話学者にも見通せないが、しかし、それでそれは人間の知性の尊厳において、それでも指摘する必要のあることなのだ、というようなことだ。
まあ、私としては、いくら「非神話化」を行なったところで、人間が完全に「非神話化」されきることなどあり得ないのだから、結果を遅れずにどんどんやるべきだと考えている。
それくらいで、ちょうど良いか、むしろそれでも足りないくらいなのが、人間の「(逃避的な)現実認識」なのだと、そう考えているのだ。
そしてこれも、平たく言うと「人間は決して、神話を捨てられない」ということになるのである。
(2025年1月23日)
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