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『柄谷行人対話篇 1 1970-83』 : 優等生では ダメである。

書評:柄谷行人『柄谷行人対話篇1 1970-83』(講談社文芸文庫)

現時点で既刊2巻までの講談社文芸文庫『柄谷行人対話篇』を、私は、第2巻の『柄谷行人対話篇2 1984―88』の方を先に読んでしまったのだけれど、個人的には、今回読んだ第1巻の方が、対談相手にも馴染みがあるし、内容的にも面白かった。
第3巻も近々発売されるようなので、とても楽しみである(大西巨人との対談も、収録されているだろうか?)。

本書第1巻の親本は、第三文明社刊行の単行本『ダイアローグ』(全5巻)の「1」「2」だが、今回の『対話篇』は、たぶんこの2冊からの、セレクションではないだろうか。
じつは、この親本も、昔ぜんぶ買ったはずなのだが、1冊も読まないまま、積ん読の山に埋もれさせてしまった。

柄谷の本はけっこう読んでいて、読んだのは初期著作中心で、文学系では『畏怖する人間』(初版1972年→文庫1987年)から『終焉をめぐって』(1990年→1995年)まで、哲学系だと『内省と遡行』(1985年→1988年)から『〈戦前〉の思考』(1994年→2001年)あたりまで。2000年前後に、文庫化されていたものを集中的に読んでいるはずだ。

これは、私が「本格ミステリ」を中心に読んでいた頃、評論も書けるミステリ作家の法月綸太郎なんかが、エラリー・クイーンを論ずるのに、柄谷行人を援用していたからで、柄谷を読まないことには、何が書かれているのか、いまいちよくわからなかったというのと、読んでみると、柄谷はたしかに私には難しかったけれど、全然わからないということもなく、わかるところはとても面白かったので、結構まとめて読んだ、ということだったはずだ。
ただし、買いはしたものの、単行本の方が読めなかったのは、通勤時に読むには不便な単行本を後回しにするうちに、積ん読の山に埋もれさせてしまった、というような事情である。

そして、そのあとの著作となると、「コミュニティ」だとか「経済」だとか、私には、あまり興味がないと言うか、むしろ、苦手意識のあるジャンルを扱っているもののようだったため、おのずと敬遠していたのだけれど、近年になってようやく、ずっと気になっていた『近代日本の批評』シリーズを読むことができ、10年ぶりくらいに、柄谷に帰ってきたという感じである。

さて、『柄谷行人対話篇』の第1巻となる本書に収められている対談のお相手とそのタイトルは、次のとおり。

吉本隆明・「批評家の生と死」
中村雄二郎・「思想と文体」
安岡章太郎・「アメリカについて」
寺山修司・「ツリーと想像力」
丸山圭三郎・「ソシュールと現代」
森敦・「現代文学と〝意味の変容〟」
中沢新一・「コンピュータと霊界」


で、この中で、読んだことも買ったこともないのは、安岡章太郎だけ。買ったけど、読んでないのが、森敦。1、2冊しか読んでないのが、中村雄二郎、寺山修司、丸山圭三郎といったところか。
吉本隆明は、5、6冊は読んでいるはずだが、難しかったので、どの程度理解できたかは疑わしい。単純に面白く読んだのは、中沢新一だけだが、今となっては、このメンバーの中で、唯一「嫌い」なのも、中沢である。

この中では、安岡章太郎と森敦が「小説家」で、あとは「批評家」あるいは「哲学者・思想家」である。
寺山修司は、いちおう歌人とか劇作家とか言われるが、まあ、分類不能な独自の「思想家」だったと考えていいだろう。また、森敦は、小説家だとは言っても、「数学基礎論」みたいなことをやった人で、かつ、かなり変わった人のようなので、話が難しい。
したがって、まともに話の内容が理解できるのは安岡章太郎だけで、対談の内容も「アメリカにおける差別問題」といった、具体的なものだった。

どの対談の内容も、全体としては難しく、正確に理解することのかなわぬ部分の方が多かったのだけれど、それでもわかるところもあるし、何を言わんとしているのかということならだいたいわかったので、全体としては、楽しく読むことができた。

特に、私が、なんで柄谷行人を好きになったのかがよくわかるような発言が散見され、そうした部分で「そうだ、そうなんだよ」という感じに「共感」できて、そこが楽しかったのである。

以下では、そのあたりを引用しながら、私の「理解」したところを紹介していこう。
なお「(※)」は、引用者による、補足または注釈である。

(1)
『 ぼくは大体こういう感じがするんですが、それ(※ こだわりのあるテーマ)が自意識というようなものであると(※ でしかないと)、わりに年をとると消えていくと思うのです。
 小林秀雄の場合は、(※ 晩年、そのテーマが)自然というところに収斂されていきますね。しかし、自分が意識(※ 過剰な自意識・執着)を克服してきたつもりで、じつは向こうのほうから逃げていってしまったというものじゃないか。結局、性欲に苦しんでいて、それを克服したときには実際に性欲がなかったというような、それに近いものだと思うのです。つまり、あまり自慢にならない。』

 (P14、吉本隆明との対談)

要は「年をとって悟ったような顔をし、内心で勝ち誇っているような奴は、だいたい自身を勘違いしているだけの、頭の悪いやつだ」ということである。
本物の天才とは、夏目漱石がそうであったように、いくつになっても難問を握って手放さず、それとの格闘を粘り強く続けているような人であり、そもそも難問ってのは、そう簡単に解決なんかしないし、一世代のうちに解決しちゃうようなものは、難問でもなんでもないんだよ、という話である。

(2)
『 たとえばぼくは、老人でありながら若々しいという人に会うことがあります。それは何というのかな、保守的な青年より硬直していますね。『都市の論理』のじいさん(※ 羽仁五郎)でもいいし、「第一次戦後派」でもいいですが、(※ 年寄りに見える)漱石たちの年代(※ 五十年配)より超えていて、しかも一見若いですよね。体も若いし精神的にも若いのですが、あの若さというのはダメだと思うのですよ。少しもよくないものだと思うんです。』

 (P16、吉本隆明との対談)

漱石のように、本当に難問と格闘しているなら、年齢相応に疲れていて当然なんだ。逆に言えば、妙に若い年寄りっていうのは、そうした本格的な格闘をせずに、型どおりに流してきただけだからこそ、変に余力が残っていて若いんだ、ということ。

(3)
『 そのやみくもにやっちゃうというのは、吉本さんは意志としてみなされておられるけれども、あまり意志でもないのじゃないかと思うんですね。やはり、衝迫でしょう。そういう問題があるんじゃないかと思います。どこから、その衝迫がくるか。そう考えると、生理というのと意識というのとは、分離できないできないんじゃないかと思うんです。』

 (P17、吉本隆明との対談)

「やみくもにやっちゃう」というのは、「やらねばならないことだがら、意志的に、自身を鼓舞して、あえてやったのだ」というふうに、自分では考えがちだけれど、実はそうではなくて、「それをやらないではいられない」という、内側からの「衝迫」があって、それに促されて、勝手にやっているだけで、理屈は後からついてくるようなものでしかない場合が少なくない。
その意味で、その「衝迫」を生む、その人の自覚されない「生理」と、自覚される「意識」とは、見えない底のところでつながっていて、「本能と理性」みたいなかたちで、きれいに切り分けることなど、本当はできないものなのだ、という話。

(4)
『だから逆にそういう意味でいくと、漱石などは野暮のきわみですね。全然、通人じゃない。』

 (P34、吉本隆明との対談)

だから、自身の「衝迫」に促されて、生涯、自身の「難問」と格闘しつづけた夏目漱石は、とても不器用かつ正直な人で、その意味では、きわめて野暮な人であり、要領よく格好をつけながら、適当なところで、世の「浅瀬」を渡る「通人」などでは、全然ありえない、という話。

(5)
柄谷 そうです。外側に(※ 風景を)見ている文章というのは、それは読めない(※ 読むに値しない)ですね。やっぱり内側から出てきている風景というのは、強烈にこちらは感じますね。ぼくは小説の批評やってますが、実際に自分が扱う作家と言うと、世の中の見方で言えば、ちょっと頭の悪い人って感じの人ですね(笑)。
 まぁ、どういうのかな、頭のいい人のものっていうのは、まったく魅力を持たない。さっきの考える自由ってことで言うと、こちらは考える自由を持てないわけです。
 たとえば左翼の作家っていうのは、たいがい(※ 読者が考える余地の)持てない(※ つまらないものしか書けない)んですよ。彼らが考えていることはわかった、ああそうですかと、それで終わりでね。左翼でも、中野重治のようなものには、なにか魅力がある。こちらに考える自由を与えてくれる。だけど、そうじゃないと、ああそうですか、で終わりでね。

中村(※ 中村雄二郎) 中野さんは作家として、けっしていわゆる頭がいいほうじゃないでしょう。

柄谷 ないです。まぁ、いわば頭の悪い人なんですよ。だけど頭が悪いっていうのは、ぼくはいいことだと思う。頭がいいと思っているわけ、ほんとは。

中村 今あなたが言った、頭のいい人の書くものはつまらない、ということ。実は、その「頭のいい人」は、本当は頭がよくないんじゃないかな。パスカルが『パンセ』のなかで言っている「ドゥミ・サヴァン」(半可通)っていうのがあるでしょう。一見して頭がいいなどということがわかるように書くのは、十分頭がよくない証拠じゃないかな。

柄谷 そうですね。』

 (P95〜96、中村雄二郎との対談)

「頭のいい人(切れ者)」の多い「左翼」の中にあって、中野重治のような、自分の肉体の中から出てくる声を語る人の書くものは、たしかに整理されてなくて無骨で、何やらスッキリしないものなんだけれど、でも、そうだからこそ、中野の書くものには、読み取りうる「豊饒さ」があるし、そういう「紋切り型に堕ちないで、生な現実を捉えようと格闘している人」こそが、本当の意味での「頭のいい人」なんだ、という話。

(6)
柄谷 ぼくはまぁ、ちょっと酒が入ってきたから言いたいこと言うけど、この『現代思想』なんて雑誌、ときどき読んでね、頭悪いなと思うの、ほんとに(笑)。ともかくディアロゴス(※ 「対話」的議論・思考)というものを、ほんとにやったことないんじゃないか。
 そういう人たちは、おそらく当たり前の日常的な事件に関して、正確なことを一つも言えないんじゃないかと思う。つまり人間が生きたり死んだり、くだらないことをやってる、そのことについて考えているかどうか。おそらく、考えてないんじゃないか。考えていないってことが、文章に表れているような気がするんです。
 難しいことを言ってもいいんだけど、一見くだらないことについてのモラリスト的な考察、そういうことができない人たちじゃないか、って感じを持つわけですね。彼らは、小説で考えればインテリの小説のようなものだと思うんです。そういう人とそうでない人ってのは、一読すればわかりますね。文章自体が違ってきています。文体(※ 自分の頭で考えているが故の、文章上の個性)があるって感じなんですけどね。

中村 べつに『現代思想』を弁護するんじゃなくて、哲学をやっている人間一般について、日ごろ見ているところから言うと、今あなたが言ったこと一一ごく普通に生きたり死んだり、あるいはくだらないことに直面して、ということを考えないのじゃないかということ一一を必ずしも考えていないのじゃない。ただそういうものとカッコつき「思想」というものと(※ を)、別個に(※ 別物として)考えがちなんだな。
 もっと言えば、そういう(※ 日常のあれこれを)ただの「思い」のなかに閉じこめておいた上で、別個に「思想」を考えるんだろうね。もちろん、他人ごとではないんだが。日本の「哲学」とか「思想」とかは、みんなカッコつきで言わないと、(※ 日常生活の中では)恥ずかしくて言えなくなる(※ 口にできなくなるというのは、それが)原因だと思うんですよ。』

 (P97〜98、中村雄二郎との対談)

これなんかも、私が始終、言っていることだけれども、難しい哲学理論なんかを、さも平然と「解説」しているような、いかにも賢そうな文章を書く人というのは、「自分の内部の視点」だけで語っているから、言い換えれば、「他者の視点」を持っていない(外部と格闘していない)ために、スッキリしているだけで、じつは内容に乏しいものなのだ。
だからこそ、ちょっとリアルな問題にぶち当たったりすると、そのお得意の「思想や哲学」が、まったく役に立たない、実用に供することができない、というような、情けないことになってしまうんだ、という話である。

(7)
『(※ 初期作品である)『善の研究』のときには、彼(※ 西田幾多郎)の境遇から言って、開かれた読者を相手にしていた。逆に言えば、自分自身を開いていたような感じがありますね。そのあとは自分を閉じてしまっている。それが逆に教祖的な魅力を持つことになったのですが。』

 (P100、中村雄二郎との対談)

当たり前に「自分の考えを理解してほしい」と考えている人の文章は、読者を意識して、可能なかぎり、理解してもらおうという工夫をしており、その意味で、読者に開かれている。
ところが、いったん「先生」の地位を得てしまうと、「わかる人だけがついて来ればいい」と、ふんぞり返っちゃって、自分の考えていることを「独り言」のように語るだけになりがちであり、その意味で、読者にとっては「難解」なものになってしまう。
しかし、「知的エリート」組に入りたいだけの読者というのは、むしろわからないくらいに難解なものありがたがるものだから、そういう「(理解できなくても)唱えるための経文」みたいなものを書く、後年の西田幾多郎みたいな人は、教祖的にありがたがられてしまうのだ、という話。

(8)
『 なぜかと言うと、日本の批評には、原理的に物を問う姿勢があまりないでしょう。批評というのは、ぼくはいま文芸時評をやっていますが、こういうものをぼくは、ことさらに批評とは思わないのです。批評という仕事は、何も小説なら小説というものに限定されてはいないものだ、と思うのです。だから、ぼくにとっては、マルクスをやることもやっぱり文学批評なんです。』

 (P112、安岡章太郎との対談)

「批評」というのは、対象が「何」であるのかということを、原理的に問う行為であって、「分類概念」を自明視し、それに沿って解説するといった類いのものなど、「批評」ではない。
だから、「小説家」ではないマルクスを扱っていても、マルクスの書いていることを検討対象としているのだから、それは「文芸批評」と呼んでも間違いではないし、極端な話、「アニメ」批評なんかでも、その「ストーリー的な文脈」や「作画的な文脈」を問題にして、その本質に迫ろうとするような批評は、ある意味では「文芸批評」と呼んでも間違いにはならないんだ、というような、批評の原理論である。

(9)
『 誰でも物書きならわかっているけれども、創造的な仕事というのは、差異化なんですね。同じことをくり返したくないでしょう。二度と、自分は同じ仕事はしない。他人と同じ仕事はしたくない。その力でやっていますね。
 ところが、その自信を失ったときに、どうやって耐えられるか、それがアイデンティティでしょう。例えば白人が、なぜ白いということに依存しようとするかというと結局、自分自身でディファレンス(※ 差異化による固有性)を保てないからだと思う。つまり、何かに所属していないと生きていけない。その時に、便利なものがあるでしょう。色がある。オレは白い、オレは勝った、というわけです。』

 (P143、安岡章太郎との対談)

クリエイター(創造者)としての物書き(文筆家)なら、本来、当たり前に承知しているはずなのだが、クリエイター(創造者)である以上、その仕事は、人とは違うものを産むこと、同じものは作らないということのはずだ。同じものを作ったら、それは「複製」でしかなく、「創造」ではないからである。
ところが、そうした能力や意欲が欠けてくると、人は「俺は俺」と自信を持って自立していられなくなるために、「多数派」や「主流派」に依存して、その「メンバー」である自分も「力ある存在」だと思いたがるものなのだ、という話。

(10)
柄谷 (前略)学問とは何かって、そんなこと(※ 簡単には)言えませんが、もっと間違ったことを言うこと(※ が肝心なん)じゃないか、と思うのです。

安岡 わたしは、学問ということは全然わからないです(笑)。学者という存在もわからないし、学問というのは何をしているのか全然わからないよ。

柄谷 小説には、間違いはないですよ。間違ったという小説はないですよ。ダメだとか、いいとかしかない。けれども、学問というのは間違うんじゃないかと思う。その間違い方に、意味があるんですよ。小林さん(※ 小林秀雄)という人は、間違うようなものを提出していないですね。』

 (P160〜161、安岡章太郎との対談)

「小説は何でもあり」なんだけれども、それは『どんな作品でも素晴らしい』という意味ではなく、出来不出来というのは厳然としてある。「やり方」なら、何でもありだ、という話でしかない。
しかし、学問というには「間違ったやり方」というものがある。だから、小説とは違って、間違っちゃうこともあるんだけれど、でも、間違いを恐れてばかりいては、本当にクリエイティブな仕事はできない。それに挑戦して間違って、失敗して死ぬことになっても、あえて難所に挑むことが重要であり、そうした意味で、間違い方にこそ意味がある。
その点、後年の小林秀雄というのは、無難確実なところに引きこもってしまったから、間違ったことは言っていないけど、それはクリエイターとして、間違った保身的身振りであり、その意味で、つまらない。一一ということ。

(11)
『 ぼくは習性として、互いに異なるもの、無縁なものを結合させてしまうというか、なにか共通性を見つけてくるという資質があるんですね。そういう横断性は、ある意味ではぼくの欠点であって、たぶん学者としては不適格なのです(笑)。いろんなものがぼくの頭の中で直観的にくっつくんですけど、それだけでは他人を説得することができない。なんとかそれが当然に見えるような論理を与えてみようとする。べつに「根拠」があって言ってるわけではありません。ただ彼らを互いに区別させている同一性・一義性の配線回路(※ 系統的・ツリー的な図式理解)をいったんカッコにいれて、恣意的な関係の網目において見ようとしているだけなのです。そういう意味でソシュールなりマルクスなりを切り離された単独のものとして研究するというのは、ぼくには向いていない。』

 (P197〜198、丸山圭三郎との対談)

これは、例えば私が、『HUGっと! プリキュア』を論じるのに柄谷行人を援用したりするのと同じこと。一見、まったく「無縁に見えるもの」の間に見出された「共通項」においてこそ、その本質を掴むというやり方だ。
言い換えれば、既成公認の「型(ジャンル区分)」の中で、無難にやるのは「再確認=複製」ではあっても、クリエイト(創造)ではないということ。
その意味では、ツリー的思考、言い換えれば、制度的な系統図式に依存的な思考ではなく、制度にとらわれない『横断』的な身振りこそが、物事の本質に迫ると同時に、新しいものを産むのだ、という話。

(12)
『(前略)マルクスの最初の博士論文が、「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の差異」でしょう。全体の差異なんか言ってないわけです。ぼくは本質的な思想家というのは、そういうところに注目する人だと思うんです。一見して類似しているものに差異を見いだすことと、相異なるものを結びつけることは同じことです。』

 (P228〜229、丸山圭三郎との対談)

「アニメと哲学は、ジャンルが違う」から、同じ土俵には乗せられないという考え方は、制度に囚われた、無難に形式的な思考でしかない。
そうではなく、「まったく別物に見えるもの」どおしの間の「微細な共通点」から、両者に隠されていた本質を剔抉するとか、「同じジャンルのもの」だと見られていたものの中に「微細な差異」を見つけて、ジャンル的な見方の虚構性を看破するとかいった態度こそが、「批評」的ということなのだ、という話。

(13)
『 たとえば、マルクスが言うように「生産力と生産関係」を、分業と交通から見るとします。生産力の発展は、分業の網目の複雑化です。全然ちがうものがくっついたときに「発明」が起こるわけですから、ツリー的な分業ではそれはありえない。セミ・ラティス的な構造(※ 網目的構造)があるからこそ、中世のようなツリー的社会(※ 系統的縦割り社会)をこわしてしまう自然成長的な変容が起こりうるわけです。その場合、なにかを「原因」としたり「目的」とするのは、イデオロギーであり形而上学だというのがマルクスの批判です。』

 (P234、丸山圭三郎との対談)

本来、別系統のものだと思われていたものの中に共通点を見つけるからこそ、それは「発見」となって、新しいものを生み出すことにもなる(発明)。
その意味では、既成の「縦割り系統樹的(ツリー的)図式」をなぞって、それを強化するのではなく、むしろ、複雑な交差性を高めていかねばならない。
そして、そうしたセミラティス的(リゾーム的)構造においては、もはや、固定的な「起点と終点」「原因と結果」「出発点と目的地」みたいな見方(イデオロギー)は、良い意味で相対化されて消えてしまう。

(14)
『 秩序と混沌との〝弁証法〟などという言葉は、ぼくは嫌いです。それからエントロピーとかなんとかの比喩も嫌いです。動的なものを見るためには、もっと厳密な形式化が必要なのです。そこで、自己言及的な形式体系を論理的に先行させるほかない。』

 (P274、森敦との対談)

ある「動的に複雑な現実」を、「抽象的な図式」に落とし込んで、それで良しとするような「誤魔化し」には、意味がない。
そうではなく、その「動的に複雑な現実」を、まずは、そのまま徹底的に「形式化」し、その後に、その本質を剔抉しなければ、見てくればかりの誤魔化し(わかったようで、じつはわかっていない説明)になってしまう。

(15)
『 だけど、ぼくの知ってる禅宗の坊さんが何人かいるんだけど、「宗教」そのものを超越しているかに見えて、本当は俗物ではないかと思うんですよ(笑)。』

 (P313、中沢新一との対談)

「宗教」というのは、一般には「世俗」を超越したものだと理解されているが、禅宗というのは、その「超越」意識というのは「自己欺瞞」でしかないのだと看破したところに成立した、ユニークな「宗教宗派」だ。
だから、禅宗の坊さんの中には「私は、宗教そのものを超越して、物事をありのままに見てますよ」みたいなことを言う人がいるけれども、しかし、じつのところそれは、一周回って「現実」に立ち戻ったのではなく、単に「俗物のまま」に止まってるだけでしかない、なんてことは、ままあることだから、そうした「悟り」を自称する人には、気をつけなくてはいけない。
人間とは、本来、生涯、迷い続けるものなのだし、それが本物なのだ。例えば、漱石みたいに。一一という具合である。

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最後に、柄谷が、まだ無名時代の「浅田彰」を、森敦に紹介している部分を紹介しておこう。
柄谷が、浅田の図抜けた才能に、いかに素直に感心していたかがわかり、柄谷の「素直な人柄」がよく窺える部分でもある。

(16)
『 今年、京都大学に集中講義に行ったんですね。あそこに浅田彰という秀才がいるんですよ。ぼくはいままで秀才というのに会ったことがないんだけれども、彼は本当に秀才なんですよ。こんなやつがいていいのかという青年なんだけれども(笑)。二十五歳くらいで人文研の助手をしています。この人に「意味の変容」(※ 森敦の、単行本化されていなかった作品)のゼロックス(※ コピー)を渡したら、次の日にはさっそくこれを読んできて、じつに見事にそれを解釈するんですよ。』

 (P277、森敦との対談)


(2023年3月7日)

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