北村紗衣は「人文系」の代表選手ではない : 古市憲寿 『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』
書評:古市憲寿『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』(光文社新書・2016年)
おもしろい「note」記事を見つけたので、そちらから話を始めさせていただこう。
私が見つけたのは、「安達」氏のよる「ロンドン大学式不都合な証拠の隠し方 タランティーノ著書編」というタイトルの「note」記事である。
その内容を一言で言えば、「北村紗衣は、海外文献の紹介にあたって、その内容を恣意的に歪めるインチキによって、自分の意見を不当に正当化をしている」というものだ。
この記事の結語は、次のようになっている。
「安達」氏のこの記事で、「北村紗衣によるインチキ」の実例として挙げられているのは、私が北村紗衣と関わるきっかけとなった、「北村紗衣vs須藤にわか」における、北村紗衣の「反論」たる、次のブログ記事である。
・須藤にわかさんの私に対する反論記事が、映画史的に非常におかしい件について
この引用部分にも分かるとおり、北村紗衣は、自分は『そこらへんの映画に関する事典や最近の英語の研究書にのっているようなあたりさわりのないこと』くらいは当然押さえて文章を書いている『映画についての論文も書いている研究者』で、そんな自分の「映画研究者としての常識」からすれば、須藤氏の意見は、完全に趣味的な私見でしかなく、学術的に見れば、明らかに間違っていると、要は「専門家の権威」を振りかざすことだけで、須藤氏の「アメリカン・ニューシネマ」についての見解を、頭から否定しているのだ。
だが、「安達」氏は、この「北村紗衣のよる英文文献」の紹介自体が、お得意の「切り取り」によって『不都合な証拠を隠すことで、架空の記述が文献にあることにし、自分(※ 北村紗衣)の主張が正しく、相手(※ 須藤にわか)が間違っていると批判』していると、そう反論して、ここでは、北村紗衣が紹介したクエンティン・タランティーノの文章を、原文と北村のよる翻訳紹介文とをつき合わせることで、そのインチキを、実証的に暴いてみせているのである。
だから、北村紗衣が、いかに「研究者」「専門家」の名に値しない「ペテン師」かということに、まだ気づいていない皆さんには、是非とも「安達」氏によるこの記事や、その他の記事を読んでいただきたいと思う。
一一しかしながら、「北村紗衣批判」に限って言えば、まったく正しい「安達氏の記事」にも、決定的な問題点がある。それは、
と、結論している点である。
つまり、「北村紗衣の実例」をもってして、それを「人文系学者一般」の話であるかのように結論してしまっているのだが、無論これは、完全に間違いだ。
「安達」氏が、このように「断ずる」のには、「北村紗衣という一例」だけではなく、そもそも「東大出のフェミニスト・北村紗衣」の師匠筋に当たる「日本のフェミニズムを牽引した東大名誉教授・上野千鶴子」に、下のような発言があったからなのだ。
上は「安達」氏による引用文だが、もう少し「正確に引用」すると、こうなる。
(A)は、「安達」氏がこの記事の冒頭付近で引用しているものであり、初めて読む人には、かなりインパクトのある言葉だと思う。
ちょうど、警察が「被疑者に有利な証拠を隠して、冤罪事件をでっち上げた」というのと、類比的なものとして読めるからだ。
だが、上野千鶴子の上の言葉を、本当に、そのように「解釈」しても良いものなのだろうか?
そもそも、上野が「私は、証拠隠しのインチキをしますよ。当たり前じゃないですか」というようなことを、わざわざ「雑誌掲載され、そののち公刊書に収められることになるインタビュー」において、馬鹿正直に語ったりするものだろうか? また、それが仮に「本音」であったとしても、それなら尚更、その「本音」をこそ隠すのではないだろうか?
一一と、このように「疑ってみる」のが、当たり前に「慎重な知性」なのである。
「安達」氏は、上の「上野千鶴子インタビュー」引用部分の前の、同稿冒頭部分を、次のように書いている。
いかにも「人文系の有名学者」たちが、こぞってそのような「インチキ」を是認しているかのような言い方をしているのだが、実は、「安達」氏のこの文章を読んだ際、私はたまたま、古市憲寿によるこの2人(上野千鶴子と小熊英二)へのインタビューが収められた『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』(光文社新書)を読んでいる最中で、同書の前半に収められていた、両者のインタビューは、すでに読み終えていたのである。
ちなみに、同書には、
という錚々たる社会学者に対する、古市の「あなたにとっての社会学とは、どういう学問なのでしょうか」という趣旨のインタビューが収められている。
これは、「社会学」という学問が、しばしば「守備範囲が広く、その形態もいろいろあって、つかみどころのない、胡散くさい学問」だと(理系の学者などから)指摘されることもままあるので、社会学徒の一人である古市は、そのあたりのことを、日本を代表する社会学者たちに、あらためて問うことで「社会学とは何か。そして、社会学の魅力を広く知ってもらいたい」と、そんな意図から、本書は企画されたものだったのだ。
で、話を戻すと、私が8年も前に刊行された本書を、今頃になって読むことにしたのは、滅多に見ることのないYouTubeを、「北村紗衣関連」という理由で先日見ていた際、そこでこの「上野千鶴子発言」が紹介されていたためである。
それで私は「北村紗衣は、東大出のフェミニストだから、当然、東大で上野千鶴子の講義も受けているはずだ。だとしたら、北村紗衣のインチキぶりは、上野千鶴子に学んだものなのかもしれない」と、一応はこのように考えたのだが、しかし、上野の本はこれまでに何冊か読んでおり、決して悪い印象は受けていなかったので、「こんな断片情報だけで、決めつけてはならない。原文を当たらなくては」と、そう思って、本書『古市くん、社会学を学び直しなさい!!』を取り寄せて、読んでいる最中だったのである。
で、件の、上野千鶴子や小熊英二へのインタビュー他を読んで、私が感じたのは、上野や小熊が言っているのは、決して「インチキをしてもかまわない」ということではない、ということだったのだ。
たしかに、この二人の言い方に「誤解を招く」部分はあっただろう。「字面」しか読めない「読解力のない読者」なら、そのように「誤解」しても、致し方のないところなのかもしれない。
だが、上野や小熊のインタビューを読めば、「そういう趣旨の言葉ではない」というくらいのことは感じ取れるし、まして、他の社会科学者たちへのインタビューまで読めば、上野や小熊が意図したところも、おのずと理解できたはずなのだ。
では、彼らが「意図したところ」とは、いったい何だったのか?
それは、「社会学という学問は、単にデータを集めてきて、それを機械的に分析すれば、自動的に一丁上がりというような、そんなお易い学問ではない。なぜならば、データはデータであって、決して、その意味するところを勝手に語ってくれるわけではなく、データからその意味するところを汲み取るのは、研究者の主体的な〝解釈〟があってのこと。そして、優れた解釈をするためには、その研究者に優れた感性がなければならない。それが無いと、データに〝秘められている深い意味〟を解析することなんて不可能なのだ」というようなことである。
しかもこれは、「理系学問」だって、基本的には同じことなのではないだろうか。
つまり、「生データ」というのは、当然のことながら「玉石混交」なのであって、読み取るべき「本質」を、そのまま反映しているものもあれば、そうでないものも、当然ある。
したがって、「集めたデータ」の「意味するところ」を正しく読み取るためには、当然のことながら「ノイズとしてのデータ」を排除しなければならない。
言い換えれば、「すべての生データを等価に扱う分析」というのは間違いだし、そもそも「データ分析」という行為の本質からして、そんなことは不可能なのである。
そんなわけで、上野千鶴子の言った「本当のことを言わない」というのは「見たまま、見えたままを、そのまま語ることはしない」という意味であり、「不都合なデータは出さない」というのは「すべてのデータが正しいわけではない」ということなのだ。
そのことを、「良識への挑発者」として若者からの人気のあった古市憲寿の著書らしく、いささかスキャンダラスなかたちのまま掲載したのが、本書のインタビューだったのである。一一要は、ここで「読者の読解力が、試されていた」のだ。
そして、その「罠」に、まんまとハマったのが、「文章読解能力の低い人たち」だったのである。
(ちなみに「安達」氏は、どうして上野千鶴子の言葉の出典を示さなかったのだろうか? 同稿の趣旨からすれば、それはいかにも片手落ちではないか)
そんなわけで私は、「北村紗衣のデータ引用が、いかにインチキか」を証明したものとして、「安達」氏のこの記事を、いずれ紹介したいとは思ったものの、いっぽうで、「安達」氏の「人文系学者に対する不当な批判と、それによる意図的な印象操作」は黙認し得ないとも考えたので、先日、この記事のコメント欄に、次のようなコメントをして、「上野千鶴子発言についての誤った解釈は、撤回すべきである」と助言したのであった。
このように、コメントした上で、今日までの数日、様子を見ていたのだが、「安達」氏からは何の応答もなかったので、仕方なく「そのまま引用して」、このように論じさせていただくことにしたのである。
まあ、私がいささかせっかちな点は、ご寛恕いただきたい。
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さて、私がまず言いたいのは、「敵が卑怯だとしても、自分が卑怯な手を使って良いということにはならない」ということだ。
私が「トランスジェンダリズム問題」について、その推進派と反対派のどちらも批判するのは、彼らがどちらも、その政治的な成果主義において、嘘も辞さないからである。
例えば、「推進派は、ノーディベイトで卑怯だ」と批判する「反対派」だって、自分たちが批判される側になると、途端に都合よく沈黙して、私の批判に真正面から応じようとはしないのである。
そして、そればかりではなく、そんな事例が、世間一般のあちこちで見られるのだ。
・斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』
・キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実とは何か』
私は、「安達」氏の、この記事以外のいくつかも読んで、氏がそれなりに頭の良い人でもあれば、学のある人だとも推察した。
私のような「文系の文学派」丸出しの八方破れな文体ではなく、「安達」氏の文体は、いかにも「学術論文を書き慣れた人」のそれで、まことに形式の整ったものだという印象を受けた。
また、ついでに指摘しておくと、記事のトップ画像も、自家製のもののようで、こうした視覚資料作りにも慣れている人なのではないかと、そうも窺わせたのである。
つまり、『東京大学卒、ロンドン大博士である武蔵大学人文学部教授北村紗衣先生』の文章を取りあげて、このように「手堅い批判論文」にまとめ上げてみせた「安達」氏自身が、実は「どこかの大学の、先生なのではないか?」と、私は疑っているのだ。
しかも、
という「断言」からも分かるとおり、「安達」氏自身は、決して「人文系」の人ではない。
であるならば、おのずと、人文系に敵意を抱く「理系」の先生なのではないかと、そう疑うのである。
「人文系って、こんなインチキな奴ばっかり。なのにどうして、こういう奴らが、そのインチキな分かりやすさにおいて大衆ウケし、チヤホヤされるのか。そんなの不公平じゃないか。学者として有能なのは、こちらなのに」
一一と、そのようなことを考え、そうした「ルサンチマン」から、その「優れた知性」を曇らせてしまい、「アンフェア」なかたちで「人文系学者」一般への誹謗中傷に、「加担」してしまった、ということなのではないだろうか。
というのも、世の中には「人文系学問」を敵視して「廃止してしまえ」と訴える「極端な人」も少なからずいて、「まともに文章も読めない人」たちから、一定の支持を得ているという現実も見受けられるのである。
だが、「人文系の学問は、みんなインチキ」だというのは、明らかに間違いだ。
たしかに、「武蔵大学の教授」である北村紗衣のような、「インチキな学者」なら「大勢いる」だろう。一一だが、それは「理系の学者」だって、同じなのだ。
「データ改竄をした理系学者・研究者」など、歴史的に見ても枚挙にいとまがない、というのは、周知の事実なのである。
しかし、そういう「一部の不心得者」や、「不心得者ではないが、単に学者としての才能がなく、凡庸な研究者」が多いという事実をして「理系の学問は、みんなインチキだ」とまでは、言えないのである。
要は、シオドア・スタージョンの次の言葉を引用して、私がいつも言うとおりなのだ
つまり「人文系学者の9割はクズである。ただし、理系学者の9割もクズである」ということでしかなく、そうした「あちこちに転がっているクズ」をひとつふたつ取り上げて「そのほかも全部クズだ!」などと言うのは、多くの場合、ルサンチマンやコンプレックスに由来する、単なる非理性的な「感情論」にすぎないのである。
そんなわけで、たしかに北村紗衣は、しばしば「一部切り取りのインチキ」をするけれども、「安達」氏だって、同様の「一部切り取り」のインチキを、ここで現にしているのである。
だから、「安達」氏に、北村紗衣の「インチキ」を批判する資格は無い。
それに、北村紗衣については、当人の勝手とは言え「身バレ」状態なのに、「安達」氏が「匿名」だというのでは、アンフェアの誹りも免れ得ないところであろう。
もしも、実際に「安達」氏が「理系の学者」だったとすると、「理系の学者って、卑怯な奴ばかりだ」という「間違った決めつけ」の道具(実例)されても、文句の言えないところなのである。
だから、私が本稿で訴えたいのは、「北村紗衣のインチキぶり」でもなけれな「安達氏のインチキぶり」でもない。
肝心なのは「悪しき一例を持って、全体を否定するような、頭の悪いことはすべきではない」し、それを「故意にやったのであれば、学者である以前に、人間としてクズだ」ということなのである。
そんなわけで、もうそろそろ「人文系の学問は全部クズだ」などという、いかにも「頭の悪い主張」に乗って、自らの頭の悪さを晒すような愚行は、自分自身のために慎むべきであろう。
これは、「文学派」であり「典型的な人文系」の人間である私の、「良心」であり「良識」からの助言なのだ。
「安達」氏のおっしゃるとおり、すぐさま『文学・社会学で学ぶことは社会で役に立ちません』ということなのかもしれないが、しかし、私は「文学」を学ぶことによって、すぐさま「就職」に役立ったり、「仕事」に役立ったりはしなかったものの、「すぐに役立つものだけが大切なのではない」ということを、「文学を始めとした人文知」に教えてもらった。
そして、「金儲け」や「物理的な損得」以上に、「人間にとって大切なもの」のあることを、「文学を始めとした人文知」に学んだのだ。
昨今の、「目先の実利」ばかりを追い求める傾向は、日本が経済的に行きづまってしまったが故の「貧すれば鈍する」でしかなく、そのことで「即効性のある理系知」がありがたがられ、「即効性のない人文知」が軽んぜられているのだとしたら、ますます日本は、「弱肉強食」を是とする、心貧しい人間ばかりになってしまうのではないだろうか。
たしかに「人文知」で「メシを食う」ことは困難だが、それでも「人はパンのみにて生きるに非ず」というのも、また事実だと私は考える。
それを、「愚かな人文知」だと見下す人がいるのであれば、それはその人こそが「見下されてしかるべき、貧しい理系知しか持たない人」だとしか、私には思えないのである。
(2024年12月7日)
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